昭和10年から終戦、戦後までの日々を描く。宝塚歌劇団の少女たち。それを見守る少女。ふたつの視点から客観的にあの頃が描かれていく。
お話は、「わたし」が小学校1年生になるところから始まる。宝塚の人たちの日々と同時進行で幼い「わたし」の日々が描かれていく。1年から丁寧に1年ずつ歳を重ねていく。同時に日本は戦争の泥沼に陥っていく。彼女は「わたしが一番きれいだったとき」を見失う。やがて高等女学校に入る。実はここに描かれる「わたし」は特定の誰かではなく、あの頃を生きたすべての人たちである。あの時代を生きて、生き抜き(あるいは亡くなっていった)すべてのわたしたち。
「わたしたちの」という表現から始まるこの淡々とした文章は彼女のことであると同時にこの国のことでもある。「わたし」と「日本国」が重なり合う。わたしたちの兵隊が人を殺す。女を姦す。戦争を他人事ではなくそんなふうに描いた。もちろん他人事ではないけど、自分事でもなかったはず。知らなかったで済ませない。
やがて東京宝塚劇場が閉鎖され、そこは風船爆弾の工場とされる。ここで少女たち(「わたし」)は働くことになる。空襲は激しくなり戦火は目の前に及ぶ。劇場を失った宝塚の女の子たちは慰問に駆り出される。
名もない少女たちの姿を描く。やがて死ぬものも生き延びるものもいる。戦禍を潜り抜け生きる。名もない彼女たちは名前が表記されるが、名のある男たちの名前は故意に表記されない。
そして昭和20年8月がやって来た。しかしこのドキュメント小説はそこでは終わらない。まだまだ続く。いや、どこまでも続く。死ななかった少女たちの人生が続いたように。
戦後は1年が短くなる。駆け足で時は進む。そしてなんと2021年までくる。コロナ禍から延期して開催された東京オリンピック2020が語られる。何のために無観客で行うのか。国家の威信を賭けて? 敢えてここまでを描いたことに意味を感じる。小林エリカは静かに怒りをたぎらせる。あの時代の先にあった未来は明るかったか。そしてここから先に何があるのか。問いかける。
エピローグは関東大震災から100年目の年。100年経ったこの国がどこに向かっているのか。僕たちもこの先100年を見据えて、生きていこう。(まぁ僕は後15年くらいで死ぬけど)