久しぶりに心から見たいと願う映画を見た。最近はそこまで何かを執着することがない。だから、なんとなく見る、とか、たまたま見る、とか、仕方なく見る、なんて、のまである。もちろん、嫌々見ることはない。映画を見るのは大好きだ。どんな映画でもわけ隔てなく見たい。時間さえ許せば、みんな見てもいい。だけど、子どもの頃のように、ずっと待ち続けてようやく対面する、という喜びが失われたというような意味だ。
そんな中、ジャ・ジャンクーは特別であることを、失わせない唯一の作家のひとりだ。(なぜか、唯一がたくさんいる。それはまだまだ僕が幸福だということ)ジャ・ジャンクーについては今までも何度となく書いている。彼の映画との出会い。彼を通して今の中国に興味を持つようになったし、『世界』を見て、すぐに初めて中国に実際に行った。一刻も早く自分の目で中国を見なくては、と急き立てられた。
それからも、数年に一度必ず中国に行く。変わりゆく中国をほんの少しでも自分の目で見ていたいと思うからだ。数年に一度、必ず新作を発表する彼の映画を見るたびに、やはりまた、中国に行かねば、と思わされる。今回の映画はそんな彼の中国への想いがド・ストライクに描かれる。この日本語タイトルからして、そうだ。原題(『山河故人』)もそう。
3部からなる。過去、現在、未来。それが別々のスクリーンサイズで描かれる。過去がスタンダード。現在がビスタサイズ。未来は現在よりも狭くなるシネスコサイズ。(シネマスコープが、ビスタより狭くなるのが今のスクリーン事情で、そんな不条理が、今の映画界の現状なのだ)これは明らかに確信犯的行為だ。
1999年から始まる。その年、タオは25歳。実業家のジンシェンと炭鉱夫のリャンズーから想いを寄せられていた。3人は幼なじみ。彼女はジンシェンを選ぶ。2014年。タオは離婚し、リャンズーは長年の炭鉱仕事で体を病み、ジンシェンはますます成功し、上海からさらには海外に拠点を置く。2025年、ドラマはオーストラリアを舞台にする。成長したタオの息子は長い海外暮らしで中国語がしゃべれなくなっている。父親ともコミュニケーションがままならない。遠く離れた中国で暮らす母親の記憶も曖昧になった。だけど、彼はもう一度、中国に戻りたいと願う。
なんと、図式的なお話か。映画を見ながら、こんなお話でジャ・ジャンクーが映画を1本作るなんて、どうしたものか、と頭を抱える。最初のエピソードなんか、典型的なメロドラマで、なんなんだぁ、と思う。1部が終わったところで、スクリーンが大きくなり、メインタイトル『山河故人』という文字が出てくる。どんどん中国は変化していく。そこにむけての警鐘を鳴らし続けた彼がもうここでは諦めている。失われたものは、もう戻らない。しかし、取り戻すことは出来る。19歳になった息子のダオラーは、幻になった中国を目指す。今も母の暮らす大陸に戻るのはまだまだ先のことかもしれない。だが、彼は諦めないはずだ。2015年という未来の先にむけて、ジャ・ジャンクーの挑戦がここから始まる。
『ノスタルジア』はタルコフスキーの遺作『サクリファイス』の直前に作った傑作のタイトルだ。どこにでもあるそのタイトルを含むこのジャ・ジャンクーの新作は、タルコフスキーの出来なかったことをこれから彼が成し遂げることになることを示唆する重要な作品になるかもしれない。そんな妄想を抱かせるくらいに、この映画は刺激的だ。作品としては必ずしも成功してはいない。だからこそ、まだまだ若い彼の未来に期待する。