実は久々にヌーヴォースタシオンに行ったため、道に迷ってしまった。ずっと前に一、二度行ったことがある。なんとなく住宅街にあるビルの中にあったのは憶えていた。基本的に一度行ったところは忘れない性格なので、安心して大丈夫だ思い行ったのだが、今回は参った。フライヤーも、何も持たず、「玉出を降りたら、きっと思い出すだろう」と思い劇場に向かったのだが、改札を出たところで、少し不安になり、さらには地上に上がった時、周囲の風景にまるで見覚えがない。焦った。これでは行けない。右に行けばいいのか、左だかすらわからない。これはもう無理だ、と思った。だけどかすかな記憶を頼りに歩き出した。でも、しばらく歩いても思い出せないし、手がかりは何もない。新聞配達のおばさんに聞いても知らないと言われる。「もう今日はあきらめるしかないな」と思いつつ、夕暮れの見知らぬ街をフラフラ歩く。心細いやら切ないやら、なんでこんなところを自分は歩いてるのだろうなんて感じながら彷徨う。偶然見かけた張り紙を目にして、助かる。なんとか時間までに辿り着けた。
なぜこんな話をだらだらと枕に書いたか、と言えば、この芝居の主人公が、この芝居の舞台となる町の中に隠れるようにして存在する森陰アパートに辿り着いたきっかけとなる部分と共通するものをそこに感じたからだ。これはただの偶然である。だけどその偶然がこの芝居の根底にある。見知らぬ町の中にひっそりと佇む隠れ里。これはそこに導かれた一人の女性のたった1週間の夢の中のような出来事を描く。何かに導かれ、本当なら辿り着かないような場所に行き着くこと。そこから始まるお話。
ヌーヴォースタシオンという繁華街から遠く離れた場所で公演がなされたのもいい。さらに、この小空間に作られた丁寧だけどシンプルな舞台装置もいい。この芝居はこういうロケーションなくしては成立しない作品だ。森之宮プラネットではなく敢えてここを選んだ見識眼も高く評価したい。
ようやくここから内容に触れる。まず、「こういうハートウォーミングを作りたい」という作者たちの気持ちはよくわかる。そして、丁寧に作られてあり、好感の持てる芝居だったのも事実だ。だけど話が、あまりに予定調和で、主人公たちの優しさに依拠した甘さが少し鼻に付く。
ある種の幻想譚として、全体をまとめたらいいのに、一応リアリズムで統一してしまい、ドラマに余白がない。幽霊までリアルなものとして見せてしまうくらいの気真面目さなのである。4号室の幽霊はここにいるかもしれない、くらいのニュアンスで見せるべきなのに、後半どんどん出てきて登場人物のひとりとして、舞台に定着してしまうのにはまいった。丁寧に作るのと、説明過多とはまるで違うはずなのに、この芝居はそこをごっちゃにしている。そのくせ住人たちのバックグラウンドは説得力をもって描けてない。
ラストのエピローグは蛇足。その前のシーンで終わっているのに、さらにもう一度別れのシーンを情感たっぷりに見せられたりしたら、さすがに疲れる。すべてのドラマは、前日のお茶会での朗読をするシーンで終わっている。一人になったひかり(柏原愛)が愛しむようにこの場に佇む。芝居としては、それだけでもう充分なのだ。とても美しいシーンだった。
なのに、この後翌朝の描写が続き、管理人さんとの別れ、さらにはご丁寧にも幻としてみんなが出てきて彼女を見送る、なんて展開になる。全く意味がない。「みんなには挨拶しないでいきます」なんてせりふのあとでこれである。
このアパートの現オーナーである管理人さんの祖父が残していった古い鞄。その中には町がある。これはその幻の町にひかりが出逢う、というお話だ。最初の場面が印象的でいい。夜中に酔っ払った彼女がこのアパートの中庭のベンチで居眠りする。そこにはその鞄があり、それを開いたら光に包まれる。彼女はここでお爺さんの作った思い出の町と出合う。
偶然ここにやってきて、優しい人たちに出会い、ここにしばらく住みついてしまう。そして、ささくれだった心が癒されていく。森陰アパートメントの中庭で過ごす時間。まるで時が止まったかのような安らぎがここにはある。彼女はついつい彼らに甘えてしまう。そして彼らもそれを許す。
これは都会のオアシスに偶然迷い込んできたもう女の子とは言えない《女の子》のお話だ。毎日の生活に疲れ果てた彼女がこの優しさの中で、回復していく。
ここではないどこか行って、そこでもう一人の自分になって時を過ごしてみたい。そんな誰もが抱く願望を満たしてくれる。とてつもなく甘く、緩い芝居だが、作り手の気持ちはしっかり伝わってくるから、一応よし、とする。(なんだか偉そうな言い方だ)
なぜこんな話をだらだらと枕に書いたか、と言えば、この芝居の主人公が、この芝居の舞台となる町の中に隠れるようにして存在する森陰アパートに辿り着いたきっかけとなる部分と共通するものをそこに感じたからだ。これはただの偶然である。だけどその偶然がこの芝居の根底にある。見知らぬ町の中にひっそりと佇む隠れ里。これはそこに導かれた一人の女性のたった1週間の夢の中のような出来事を描く。何かに導かれ、本当なら辿り着かないような場所に行き着くこと。そこから始まるお話。
ヌーヴォースタシオンという繁華街から遠く離れた場所で公演がなされたのもいい。さらに、この小空間に作られた丁寧だけどシンプルな舞台装置もいい。この芝居はこういうロケーションなくしては成立しない作品だ。森之宮プラネットではなく敢えてここを選んだ見識眼も高く評価したい。
ようやくここから内容に触れる。まず、「こういうハートウォーミングを作りたい」という作者たちの気持ちはよくわかる。そして、丁寧に作られてあり、好感の持てる芝居だったのも事実だ。だけど話が、あまりに予定調和で、主人公たちの優しさに依拠した甘さが少し鼻に付く。
ある種の幻想譚として、全体をまとめたらいいのに、一応リアリズムで統一してしまい、ドラマに余白がない。幽霊までリアルなものとして見せてしまうくらいの気真面目さなのである。4号室の幽霊はここにいるかもしれない、くらいのニュアンスで見せるべきなのに、後半どんどん出てきて登場人物のひとりとして、舞台に定着してしまうのにはまいった。丁寧に作るのと、説明過多とはまるで違うはずなのに、この芝居はそこをごっちゃにしている。そのくせ住人たちのバックグラウンドは説得力をもって描けてない。
ラストのエピローグは蛇足。その前のシーンで終わっているのに、さらにもう一度別れのシーンを情感たっぷりに見せられたりしたら、さすがに疲れる。すべてのドラマは、前日のお茶会での朗読をするシーンで終わっている。一人になったひかり(柏原愛)が愛しむようにこの場に佇む。芝居としては、それだけでもう充分なのだ。とても美しいシーンだった。
なのに、この後翌朝の描写が続き、管理人さんとの別れ、さらにはご丁寧にも幻としてみんなが出てきて彼女を見送る、なんて展開になる。全く意味がない。「みんなには挨拶しないでいきます」なんてせりふのあとでこれである。
このアパートの現オーナーである管理人さんの祖父が残していった古い鞄。その中には町がある。これはその幻の町にひかりが出逢う、というお話だ。最初の場面が印象的でいい。夜中に酔っ払った彼女がこのアパートの中庭のベンチで居眠りする。そこにはその鞄があり、それを開いたら光に包まれる。彼女はここでお爺さんの作った思い出の町と出合う。
偶然ここにやってきて、優しい人たちに出会い、ここにしばらく住みついてしまう。そして、ささくれだった心が癒されていく。森陰アパートメントの中庭で過ごす時間。まるで時が止まったかのような安らぎがここにはある。彼女はついつい彼らに甘えてしまう。そして彼らもそれを許す。
これは都会のオアシスに偶然迷い込んできたもう女の子とは言えない《女の子》のお話だ。毎日の生活に疲れ果てた彼女がこの優しさの中で、回復していく。
ここではないどこか行って、そこでもう一人の自分になって時を過ごしてみたい。そんな誰もが抱く願望を満たしてくれる。とてつもなく甘く、緩い芝居だが、作り手の気持ちはしっかり伝わってくるから、一応よし、とする。(なんだか偉そうな言い方だ)