『ナラタージュ』に続いてまた高校の教師と生徒の恋愛ものである。前回も「もううんざりだよ、」と書いたはずだが、1か月の中で連続2本も同じパターンの映画を見ることになるとは。でも、2本ともとてもいい映画だったから満足だ。
前回は行定勲監督で島本理生原作だから、見たのだが、今回は、断然三木孝浩監督だから、それだけで絶対に見る。デビュー作から今までリアルタイムで彼のすべての映画を欠かさず見ているが、1本として、はずれはない。
青春映画の騎手である。最近までブームだったキラキラ青春映画のエースだ。そんな彼が王道の「教師と生徒の恋物語」に今更で挑む。あまりに多く作られ続けて、さすがに飽きられている「学園もの」に、今頃、真正面から挑んだ。当然の少女マンガの映画化だ。
三木監督は、この嘘くさい設定をリアルに感じさせるためどういう仕掛けを用意したか。まず大枠を3年間のお話にした。入学式から初めて、卒業式で締める。わざわざ式典を見せたのは、彼女の3年間すべてをここに封印するためだ。大枠を誰もが体験するものとして描く。この1本の中には3年間のすべてが収められてある。だけど、映画の中で描かれるのは、大好きだった先生との恋物語だ。当然、そこが彼女にとってのハイライトとなるからだ。記憶の中で占める比重の問題だ。クラブ活動、高校生活、学校行事も、ちゃんと描かれてある。でも、そこにはいつも伊藤先生がいる。そういう図式でいい。
ストーリーで引っ張っていこうとはしない。その時々の印象的な風景で見せていく。大事なのは、そこに彼女たちがいて、彼女は大好きな先生を見ている、という事実だ。文化祭の時、校舎の屋上(「学園もの」の定番である! もちろん今の高校では絶対屋上には上がれないのに!)でのキスシーンは、ルール違反なのだが、嘘を承知でそれも見せる。これは少女マンガの世界だから、現実ではない、というのもルールだろう。だが、彼らの感情だけは嘘をつかない。これもルールだ。そこをおざなりにして描くとただのバカ映画になる。
キスをする、という行為をリアルに受け止めると、あのシチュエーションではあり得ないと思う。しかし、それをファンタジーの装置として捉えると、ギリギリ納得はいく。ここはとても微妙で難しいところだ。三木監督は後者に賭けた。映画という夢の装置を信じ、後者を選択する。そこからドラマは急転するが、「好きになってはならない人なんていない、純粋に誰かを好きになることは尊い、」という理想論で押し切る。そこをこのピュアな恋愛映画の切り札にする。とても危険だけど、それでいい。
広瀬すずは、純粋で、まっすぐな女の子を、見事に見せる。下手な役者がこの役をすると、嘘くさくなりせっかくの映画がおじゃんだ。これはとても繊細な映画なのである。『ソラニン』からずっと、三木監督はそれを描いてきた。こんな女の子の頭の中の妄想でしかないようなバカバカしいお話でしかないものでも同じ。それを夢見ごこちで見せながら、納得させる必要がある。ちゃんとだましてくれなくては、信じない。彼女はリアルに少女の感情を表現した。受け止める側の生田斗真もギリギリでちゃんと受け止める。ありきたりなお話の枠組みを踏まえながら、ちゃんと説得力を持たせるのは並大抵ではない。
さすがに定番を踏まえながらの展開で、映画としては何一つ新しい試みはない。パターンから出ないということがお約束である。その中で、心情的にリアルを体現するのは至難の業だ。だが、三木監督は、誰の中でも高校時代の3年間は輝いている、ということを信じて、王道を行く。瞬間の表情の中にあるものをちゃんと捉える。そこには嘘はない。人を好きになるということを真正面から見つめる映画だ。少女の想いが伝わるから、映画は生き生きしたものになる。ここにはうまく言葉にはならない想いがたくさん詰まっている。たったそれだけで映画が成立してる。すごいことだ。