まさかこの秋、稲田さんの新作を見ることが出来るだなんて、思いもしなかった。彼女が作、演出を手掛け、Patchの若い役者たちが、彼女の世界を具現する。企画自体はPatch8番勝負という「8カ月連続で8人の作家と8つの作品を作る」というもので、これはその1本なのだ。だが、そんなことはどうでもいい。大体、僕はPatchが何なのかも知らず、ただ、稲田真理作品ということだけで、見た。
65分の中編作品だが、とんでもなく面白かった。5人の若い男の子たちが必死に稲田さんの世界を体現する。大阪、宇和島、都市と田舎。よくある二項対立の図式は、入口としてわかりやすい。だが、このとんでもない暗さは、Patchのファンである女の子たちには、衝撃だったのではないか。しかも、お話自体も単純ではない。
その青年は父を殺すために戻ってきた。しかし、彼には父は殺せない。どれだけ憎んでいたにしても、だ。母と妹から逃げてきた。今ある現実を踏み越えたい。すべては父のせいだ、と責任をなすりつけたい。しかし、そんなことに何の意味もない。祖父母が住んでいた、今では誰も住まない家で過ごす数日間が描かれる。そこに友人が訪ねてくる。訪れるふたりは、彼とは別々の接点を持つ。共通するものは、彼らがここに残って今も暮らしているということだ。ここでの暮らしにうんざりしている。この閉塞感を打ち破るべきものが欲しい。大阪から帰ってきた彼が何かをしてくれる、と期待したわけではない。でも、ざわざわする。
包丁を握りしめる。それは昔、まだここで暮らしていた頃、父を殺すために近所のホームセンターで購入したものだ。今も、それを持ち歩いている。これを握りしめてくれ、とその友人に言う。彼は頑迷に拒否する。いやだ、と返す。共犯者になりたくはない、というわけではない。生理的に、そうすることを拒む。その行為が一線を踏み出すことになるような恐れを抱く。この作品は、この「握る」という行為を巡るドラマになる。彼は包丁を持ってまちをふらふら歩く。でも、父親のもとには行かない。
不在の彼の家で彼の帰りを待つ2人の友人という図式が出来る。包丁は象徴だ。そして、それは自分自身なのだが、それをストレートに見せることで、切実なものが伝わってくる。こういう表現は女性である稲田さんだからこそ、出来たことだろう。
「触ってくれ」と言う。包丁を拒否した男が、もう一人の男に自分自身を握らせようとする。それを受け入れる。なんだ、この展開は! 観念的なドラマをリアルに演じさせるのだ。(それを受け入れて、演じて見せた彼らもすごい。)観念とリアルのはざまで、ギリギリのところで苦しむ彼らの姿が胸に痛い。Patchのファンの子たちはきっとドキドキしただろう。こんな彼らの姿を見たことがないはずだ。自分たちの孤独の深淵と向き合う彼らたちの姿はある種の普遍としての生きていくことのつらさに通じる。
包丁を握る。そんなことをしても、何の解決にもならないことは重々承知している。わかっていてもどうしようもない。安心のため、ではない。俺自身に触れて欲しい。裸の、ありのままの俺を握りしめて欲しい、という叫びを受け止めることが、性器を握りしめることへと、つながっていくというのはあまりに大胆だが、その手があったのか、と思った。あれは衝撃的な展開だ。
行方不明の祖母のことをずっと思い続けて、山を見つめている男のエピソードが挟み込まれる。彼の後悔。認知症の祖母の介護をしていた。自分がほんのちょっと目を離したとき、見失った。そのせいで祖母は消えた。主人公は公園のベンチで、たまたまこの男と出会う。サイドストーリーとして挿入され、そこがアクセントになる。このシンプルなお話に、ほんの少しの奥行きを与える。この人物をサブストーリーとして配置したのもよかった。ここをこれ以上描き込まないのもいい。あくまでもこれは芝居のアクセントだ。しかし、ここにも同じくらいに大きい闇がある。2人は共鳴したり、共感したりする、という展開にはならないのもいい。ただ、すれちがうだけだ。だって、彼らは別々の物語を生きている。
結局は、父親殺しの話にはならない。ためらう時間ですらない。最初から自分には殺せないことはわかっている。では、何のために帰ってきたのか。それはただ、現実(大阪での日々)から逃げるためだ。しかし、ここにはやすらぎがあるわけではない。目的すらない。(それは父を殺すという行為のはずだったが)
ここにはかつての現実の破片しかない。そんなこと、わかっていた。でも、そのことを確認したかったのだ。どこにも居場所なんかない。そのことを嘆くのではない。まず、そんなふうに思うこと自体が自分への甘えでしかない。
さびれた町にたたずみ、ひきこもり。行き場はないと思う。ここに登場する5人が、5人ともどうしようもない現実に引き裂かれている。(役場の男も含む)しかし、そこで彼らは暴れるでもなく、静かにたたずむ。この苦しみを受け入れなくてはならない。そうでなくては先にいけない。その先には何もなくても、である。
まったく妥協のない、いつもの稲田ワールドに彼らを巻き込む。この仕事を通して、Patchの役者たちだけではなく、稲田さん自身も今までの自分の枠を超えることが出来た。複数の、しかも、男だけの視点からこの世界を描くことを通して、彼女はある種の客観性を手に入れたはずだ。それが次回作でどう生かされるか。今から2015年2月が待ち遠しい。
65分の中編作品だが、とんでもなく面白かった。5人の若い男の子たちが必死に稲田さんの世界を体現する。大阪、宇和島、都市と田舎。よくある二項対立の図式は、入口としてわかりやすい。だが、このとんでもない暗さは、Patchのファンである女の子たちには、衝撃だったのではないか。しかも、お話自体も単純ではない。
その青年は父を殺すために戻ってきた。しかし、彼には父は殺せない。どれだけ憎んでいたにしても、だ。母と妹から逃げてきた。今ある現実を踏み越えたい。すべては父のせいだ、と責任をなすりつけたい。しかし、そんなことに何の意味もない。祖父母が住んでいた、今では誰も住まない家で過ごす数日間が描かれる。そこに友人が訪ねてくる。訪れるふたりは、彼とは別々の接点を持つ。共通するものは、彼らがここに残って今も暮らしているということだ。ここでの暮らしにうんざりしている。この閉塞感を打ち破るべきものが欲しい。大阪から帰ってきた彼が何かをしてくれる、と期待したわけではない。でも、ざわざわする。
包丁を握りしめる。それは昔、まだここで暮らしていた頃、父を殺すために近所のホームセンターで購入したものだ。今も、それを持ち歩いている。これを握りしめてくれ、とその友人に言う。彼は頑迷に拒否する。いやだ、と返す。共犯者になりたくはない、というわけではない。生理的に、そうすることを拒む。その行為が一線を踏み出すことになるような恐れを抱く。この作品は、この「握る」という行為を巡るドラマになる。彼は包丁を持ってまちをふらふら歩く。でも、父親のもとには行かない。
不在の彼の家で彼の帰りを待つ2人の友人という図式が出来る。包丁は象徴だ。そして、それは自分自身なのだが、それをストレートに見せることで、切実なものが伝わってくる。こういう表現は女性である稲田さんだからこそ、出来たことだろう。
「触ってくれ」と言う。包丁を拒否した男が、もう一人の男に自分自身を握らせようとする。それを受け入れる。なんだ、この展開は! 観念的なドラマをリアルに演じさせるのだ。(それを受け入れて、演じて見せた彼らもすごい。)観念とリアルのはざまで、ギリギリのところで苦しむ彼らの姿が胸に痛い。Patchのファンの子たちはきっとドキドキしただろう。こんな彼らの姿を見たことがないはずだ。自分たちの孤独の深淵と向き合う彼らたちの姿はある種の普遍としての生きていくことのつらさに通じる。
包丁を握る。そんなことをしても、何の解決にもならないことは重々承知している。わかっていてもどうしようもない。安心のため、ではない。俺自身に触れて欲しい。裸の、ありのままの俺を握りしめて欲しい、という叫びを受け止めることが、性器を握りしめることへと、つながっていくというのはあまりに大胆だが、その手があったのか、と思った。あれは衝撃的な展開だ。
行方不明の祖母のことをずっと思い続けて、山を見つめている男のエピソードが挟み込まれる。彼の後悔。認知症の祖母の介護をしていた。自分がほんのちょっと目を離したとき、見失った。そのせいで祖母は消えた。主人公は公園のベンチで、たまたまこの男と出会う。サイドストーリーとして挿入され、そこがアクセントになる。このシンプルなお話に、ほんの少しの奥行きを与える。この人物をサブストーリーとして配置したのもよかった。ここをこれ以上描き込まないのもいい。あくまでもこれは芝居のアクセントだ。しかし、ここにも同じくらいに大きい闇がある。2人は共鳴したり、共感したりする、という展開にはならないのもいい。ただ、すれちがうだけだ。だって、彼らは別々の物語を生きている。
結局は、父親殺しの話にはならない。ためらう時間ですらない。最初から自分には殺せないことはわかっている。では、何のために帰ってきたのか。それはただ、現実(大阪での日々)から逃げるためだ。しかし、ここにはやすらぎがあるわけではない。目的すらない。(それは父を殺すという行為のはずだったが)
ここにはかつての現実の破片しかない。そんなこと、わかっていた。でも、そのことを確認したかったのだ。どこにも居場所なんかない。そのことを嘆くのではない。まず、そんなふうに思うこと自体が自分への甘えでしかない。
さびれた町にたたずみ、ひきこもり。行き場はないと思う。ここに登場する5人が、5人ともどうしようもない現実に引き裂かれている。(役場の男も含む)しかし、そこで彼らは暴れるでもなく、静かにたたずむ。この苦しみを受け入れなくてはならない。そうでなくては先にいけない。その先には何もなくても、である。
まったく妥協のない、いつもの稲田ワールドに彼らを巻き込む。この仕事を通して、Patchの役者たちだけではなく、稲田さん自身も今までの自分の枠を超えることが出来た。複数の、しかも、男だけの視点からこの世界を描くことを通して、彼女はある種の客観性を手に入れたはずだ。それが次回作でどう生かされるか。今から2015年2月が待ち遠しい。