映画化された『明け方の若者たち』は原作には及ばない。だけど、原作小説自体も少しもの足りない出来だった。では、よく似た内容の映画である『花束みたいな恋をした』のほうがいいか、と言われたなら、それもちょっとなぁ、と思う。微妙。この手のお話はどこにでもある。自分の体験のほうが小説よりドラマチックで感動的だ、なんて思うようなお目出たい人たちもきっと多数いることだろう。わかるわぁ、という感じ。そんなさらりとした共感。それでいい。
さて、カツセマサヒコの第2作である。前作の共感とは打って変わって今回は拒絶。拒否反応を起こすようなエグさがある。主人公である男の傲慢さ。若くして映像作家として認められ、その才能を持ち上げられる。キャリアの絶頂で、それを完膚なきまでに叩き壊す周囲の人たち、マスコミ。炎上して追放されて、消えていく。まぁ、芸能界なんて、こんなものなのかもしれないけど、描かれることがあまりにわかりやすいパターンで、そこには興味はない。
嫌な奴である。そんな彼に、彼とかかわる人たちのそれぞれのお話が絡み合っていくのだが、ここでも因果関係があまりに濃すぎて、嘘くさい。ドラマチックではなく、わざとらしい。でも、そういうところも含めて意図的なものかもしれない。クリエーターとして才能があってもうまく時代の波に乗れなかったなら埋もれてしまうのはよくある話だ。この主人公と彼とかかわりお話の中心を担うのはミュージシャンと劇作家というのは興味深い。だからこれは映像、音楽、演劇という3つのジャンルを巡るお話である。
因果応報とか、連鎖する悲劇とか、わかりやすい括りから、遠く離れて、この出来事を客観的に見つめる。どうすればよかったのか、とかそんなことも思わない。死んでしまった人たちも、まだ生きている人たちも、変わらない。成功も失敗も同じだ。そんなふうにいうとなんだかすべてが空しくなるけど、そんな世界の中で、それでも僕らは生きている。