心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

58年目の「春」

2008-03-23 10:25:09 | Weblog
 少し肌寒い日曜日の朝を迎えました。それでも連日の勢いもあってか、街のあちらこちらに「春」の訪れを感じます。お隣の桃の花は美しく開花していますし、公園の桜並木は開花までもう一息です。ユキヤナギの花も至るところで開花です。遠くを見渡せば樹木の枝先がわずかに土色に変わる気配が見えます。こうした自然の躍動感が、私の「こころ」に心地よい元気を与えてくれます。
 そういえば今朝、愛犬ゴンタと散歩中、近所のお家では一人の若者が旅立ちました。この春、大学を卒業し、社会人として巣立っていく。真新しいスーツ姿に大きなカバンを下げて、ご家族に見送られているお子さんの姿に、ちょうど1年前の我が子の旅立ちを思い出しました。まさに同じように、末っ子がこの街を後にしました。期待と寂しさが入り混じった複雑な思いを胸に、残された夫婦2人には静かな生活が待っていました。あれから1年、息子はこの春、東京・世田谷の社員寮から横浜の単身寮に移り、ますます仕事に熱が入ります。甘ったれの末っ子に不安をいだいていた親の方が馬鹿だったのでしょう。職場に馴染んで楽しく仕事ができていることに安堵しています。
 ところで、一昨日の休日には、家内と二人で京都・知恩院にお参りをしました。修復工事が終わったばかりの八坂神社の西楼門を通って、丸山公園を横切って、知恩院の大きな三門をくぐって、それから急勾配の石段の男坂を上って、御影堂が建つ広場に到着です。そこで、お線香をあげて、元祖法然上人の御影をまつる御影堂内に。長い順番をまってご焼香のあと、しばし非日常の空間に身を委ねました。お彼岸ということもあって、次から次へと参拝の方々が続きます。 
 ふと、人影のない右奥に普段は見かけない大きな仏画が飾ってあるのに気づきました。それは大きな仏画でした。宗教心のない私には、その意味するところは定かではありませんが、それでも、何かしら極楽浄土の図であろうことは判りました。ここでもお焼香をしたあと、ずいぶんの時間、この仏画と対面をしておりました。広辞苑を紐解けば「阿弥陀仏の居所である浄土。西方十万億土を経た所にあり、全く苦患のない安楽な世界で、阿弥陀仏が常に説法している」。そんな世界なのだそうですが、考えてみれば、私も57歳を過ぎ、いつ死んでもおかしくない世代の仲間入りが直前です。そう思ったとき、不思議と「人生を達観する」という言葉がよぎりました。これまた広辞苑を見ると「一部に拘泥しないで全体を観察し、真理・道理をみきわめること。また、何事にも動じない心境に到ること」。納得です。ここで、ジタバタしてもしようがありません。真正面を見つめながら、とにかく行きつくところまで行って、静かに幕を閉じる。これが、私の生きざまのような気がしています。
 きょうは、マルタ・アルゲリッチが奏でるメンデルスゾーンのピアノ三重奏、ベートーベンのピアノ四重奏、モーツアルトのピアノソナタを聴きながら、58年目の春を迎えた私自身の生きざまを考えました。 
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