秋の爽やかな空気がキンモクセイの香りを乗せて私の枕元に運んでくれました。そんな清々しい朝を迎えて階下に降りると、庭先でゴーゴーと妙な音が聞こえました。その音源は愛犬ゴンタのお家の中にありました。老犬の域に入ったからでしょうか、大きなイビキが聞こえます。小屋の中に、大の字になって熟睡しているゴンタの不様な姿が見えました。.....まあ良いでしょう。彼のリズムで生きているんですから。
そんな私も、1週間ほど前の土・日、父の法要のため田舎にとんぼ返りしたとき、何年かぶりに「熟睡」をいたしました。斐伊川の源流に近い山懐に佇む温泉宿でのことです。川のせせらぎと秋の虫、木々の葉が風と戯れる音のほかに何も聞こえない、そんな空間で私はぐっすりと眠りました。
けっきょく私は、今を無理して生きているのかもしれません。きっと、そうなんでしょう。それが、生まれ故郷に近い山懐に抱かれて、母の胎内と同じ空気とリズムに心が共鳴した、ということなんでしょう。久しぶりの原点回帰、生まれたときの生活に戻った安堵感だったのかもしれません。それとも、その夜にいただいた地酒「かたくりの花」(簸上清酒)のせい?なんと美味しかったことか。家内と二人、囲炉裏端で岩魚山菜料理をいただきながら、静かな夕食を味わいました。もちろんアルカリ性単純温泉の露天風呂にもどっぷり漬かって、心を癒しました。
その夜、私にはもうひとつの出来事がありました。夕食を終えて、何気なくテレビを眺めるていると、地元のケーブルテレビが町議会の模様を映していました。そこになんと、私の友人の姿がありました。そう、ちょうど2年ほど前の秋、彼は自慢の新米をもって大阪に来てくれました。その数カ月後、彼は脳梗塞で倒れたのです。以後、右半身麻痺、言語障害と辛い日々を送っています。その彼が議場に座っている。すぐに彼の携帯に電話を入れました。しかし、代わって出た奥様の話では、状態は変わっていないと。議場には出ているが話すことが不自由であると。明るい農村青年として街づくりに励み、町会議員として今後の活躍が期待されていた矢先のこと、彼には忸怩たる思いがあるに違いありません。山の神様はなんと惨いことをするのか、月明かりに照らされた暗く深い山並みを眺めながら思ったものです。
翌朝、実家に入ると、すでに大勢の親戚縁者の方々がお集まりで、法要、墓参、宴席と続きました。和尚さんは、私よりずいぶん歳下ですが、いまや由緒あるお寺の住職をちゃんとお勤めになっている。読経は30分にも及び、終わった頃には私の足首は硬直状態。なんともお恥ずかしい不様な姿となってしまいました。
墓参の合間に、久しぶりに街をぶらり散歩しました。私が通った小学校には、もう木造校舎はありません。ただし木造の駅舎は健在でした。出雲大社と同様の大社造の神殿を模した姿には意外とファンも多いとか。この駅から歩いて10分ほどのところに実家があります。その途中には、街で唯一の西洋建築である教会(1923年竣工)があります。戦後、私が小さい頃は、郵便局として使われていましたが、その後、教会として本来の機能を果たしている様子でした。
時間と空間の不思議な関係。最近読んでいるトーマス・マンの「魔の山」第6章「移り変わり」の書き出しは、こうです。
「時間とは何か。これは一個の謎である。--実体がなく、しかも全能である。現象世界の一条件であり、ひとつの運動であって、空間内の物体の存在とその運動に結びつけられ、混ざり合わされている。しかし運動がなければ、時間はないであろうか。時間がなければ、運動はないであろうか。さあ尋ねられるがいい。時間は空間の機能のひとつであろうか。それとも逆であろうか。あるいは、ふたつとも同じものだろうか。さあ問いつづけたまえ。」
同じ位置に佇んでいても、時は動く。時間を止めることはできない。1分1秒という非常に短い時間であっても、人間は既に猛スピードで地球を回る術を身につけている。時間と空間は、互いに連関しながら、動いている。それが人の営みというものであろうか。.........40数年前、駅舎の前に立って何度か眺めたこの街を、40年数年を過ぎたいま、同じ場所で見つめる。いったい何が変わって、何が変わっていないのか。前夜の、それは不思議な熟睡とは、いったい何であったのか。
その日の夜、私はいつものように新大阪駅の雑踏のなかを歩いていました。時間と空間の戯れに翻弄されている私を思いました。なんとも不思議な1日でありました。
そんな私も、1週間ほど前の土・日、父の法要のため田舎にとんぼ返りしたとき、何年かぶりに「熟睡」をいたしました。斐伊川の源流に近い山懐に佇む温泉宿でのことです。川のせせらぎと秋の虫、木々の葉が風と戯れる音のほかに何も聞こえない、そんな空間で私はぐっすりと眠りました。
けっきょく私は、今を無理して生きているのかもしれません。きっと、そうなんでしょう。それが、生まれ故郷に近い山懐に抱かれて、母の胎内と同じ空気とリズムに心が共鳴した、ということなんでしょう。久しぶりの原点回帰、生まれたときの生活に戻った安堵感だったのかもしれません。それとも、その夜にいただいた地酒「かたくりの花」(簸上清酒)のせい?なんと美味しかったことか。家内と二人、囲炉裏端で岩魚山菜料理をいただきながら、静かな夕食を味わいました。もちろんアルカリ性単純温泉の露天風呂にもどっぷり漬かって、心を癒しました。
その夜、私にはもうひとつの出来事がありました。夕食を終えて、何気なくテレビを眺めるていると、地元のケーブルテレビが町議会の模様を映していました。そこになんと、私の友人の姿がありました。そう、ちょうど2年ほど前の秋、彼は自慢の新米をもって大阪に来てくれました。その数カ月後、彼は脳梗塞で倒れたのです。以後、右半身麻痺、言語障害と辛い日々を送っています。その彼が議場に座っている。すぐに彼の携帯に電話を入れました。しかし、代わって出た奥様の話では、状態は変わっていないと。議場には出ているが話すことが不自由であると。明るい農村青年として街づくりに励み、町会議員として今後の活躍が期待されていた矢先のこと、彼には忸怩たる思いがあるに違いありません。山の神様はなんと惨いことをするのか、月明かりに照らされた暗く深い山並みを眺めながら思ったものです。
翌朝、実家に入ると、すでに大勢の親戚縁者の方々がお集まりで、法要、墓参、宴席と続きました。和尚さんは、私よりずいぶん歳下ですが、いまや由緒あるお寺の住職をちゃんとお勤めになっている。読経は30分にも及び、終わった頃には私の足首は硬直状態。なんともお恥ずかしい不様な姿となってしまいました。
墓参の合間に、久しぶりに街をぶらり散歩しました。私が通った小学校には、もう木造校舎はありません。ただし木造の駅舎は健在でした。出雲大社と同様の大社造の神殿を模した姿には意外とファンも多いとか。この駅から歩いて10分ほどのところに実家があります。その途中には、街で唯一の西洋建築である教会(1923年竣工)があります。戦後、私が小さい頃は、郵便局として使われていましたが、その後、教会として本来の機能を果たしている様子でした。
時間と空間の不思議な関係。最近読んでいるトーマス・マンの「魔の山」第6章「移り変わり」の書き出しは、こうです。
「時間とは何か。これは一個の謎である。--実体がなく、しかも全能である。現象世界の一条件であり、ひとつの運動であって、空間内の物体の存在とその運動に結びつけられ、混ざり合わされている。しかし運動がなければ、時間はないであろうか。時間がなければ、運動はないであろうか。さあ尋ねられるがいい。時間は空間の機能のひとつであろうか。それとも逆であろうか。あるいは、ふたつとも同じものだろうか。さあ問いつづけたまえ。」
同じ位置に佇んでいても、時は動く。時間を止めることはできない。1分1秒という非常に短い時間であっても、人間は既に猛スピードで地球を回る術を身につけている。時間と空間は、互いに連関しながら、動いている。それが人の営みというものであろうか。.........40数年前、駅舎の前に立って何度か眺めたこの街を、40年数年を過ぎたいま、同じ場所で見つめる。いったい何が変わって、何が変わっていないのか。前夜の、それは不思議な熟睡とは、いったい何であったのか。
その日の夜、私はいつものように新大阪駅の雑踏のなかを歩いていました。時間と空間の戯れに翻弄されている私を思いました。なんとも不思議な1日でありました。