【今宵、ワインで。】
晩秋のある日。
仕事から帰宅すると、妻と子どもたちはすでに夕食中だった。
メニューは煮込みラーメン。鍋だ。
「お、今夜は寒くなるそうだから、鍋はいいねぇ」
と、僕。
子どもたちはラーメンやつみれを鍋から取るのに夢中で「おかえり」の言葉もなく、僕の言葉も存在も無視状態。
妻も僕を無視・・・というよりも、なんだかちょっと様子がおかしい。
部屋着に着替えて、あらためて僕が食卓に座ると、それと入れ替わるように子どもたちが食べ終え、隣のリビングへ向かった。きっと、夕方に録画した子ども番組でも視るのだろう。
必然的に食卓には、僕と妻の二人きり。
会話なし。
聞こえるのは煮込みラーメンがその名の通り煮込まれる音だけ。グツグツグツグツ・・・。
とりあえず、僕は鍋からラーメンとか豆腐や白菜を適当に取ると、小皿に入れて口にした。熱い。でも、美味い。
相変わらず無言の食卓。
おかしい。ゼッタイに、おかしい。
いつもなら、今日自分に起った他愛もない出来事を僕に話す妻が、ひたすら俯いて、黙々と鍋をつついている。
何があったんだ?
僕が何かしたのか?
もしかして、先月、携帯電話で話し過ぎて、その料金明細が届いてそれに怒っているのか?それとも、今週末に僕が友人と飲みに出かけることを勝手に決めてしまったがために、妻が大ファンのスターダスト・レビューのコンサートに行けなくなったことを、今になってもまだ怒っているのか?それとも、先日“お、カッコいい!”とひと目惚れしてジャケットを衝動買いしてしまったのだが、それを妻に見せたら“こいつ、意外とヘソクリ持ってんじゃねぇか?”と思われたらイヤなので、こっそりとクローゼットの中に隠しておいたのがバレたのか?・・・とりあえず、自分で自分の埃を叩いてみたが、どれも当てはまるとは思えない。
「あの・・・」
先に口火を切ったのは、僕だった。
「あの・・・何か、あったんですか?」
24時間365日の中で、妻に敬語を使う時ほど緊張する時はない。
こんな時、僕はいつもこう思う。
敬語とは、相手を敬うための言葉ではない。
敬語とは、相手の内情を探るための言葉だ。
そうすると、俯いたまま妻はこう言った。
「別に」
我が家にエリカ様が現れた・・・今頃になって。
「いや、おかしいよ、絶対に何かあったでしょ?」
その後、僕は今秋、最大の勇気を振り絞ってこう言った。
「お、お、俺・・・?」
男には、自分の身を削ってでも嵐に立ち向かわなければいけない時がある。そうしなければ、問題を打破できない時があるのだ。骨を立って肉を断つのだ。火中の栗を拾うのだ。虎穴に入らずんば虎子を得ずだ。俺は何を言ってるんだ。
しかし僕の一大決心の質問に、妻はこんな返答をした。
「・・・ワイン、あったよね?」
意外だ。
妻がアルコールを自分から求めることなんて、ほとんどない。
もしかしたら、初めてかも知れない。
子どもたちも食事は終わった。鍋だから片付けもそんなに時間はかかりそうもない。今夜は寒くなりそうだ。たしかに、アルコールを口にするにはもって来いの状況だ。
「いいねぇ!ワイン、ある、ある!」
と僕はまるで妻の太鼓持ちにでもなったように、食器棚からワイングラスを、冷蔵庫からワインを素早く取り出し、グラスに注いだ。
「じゃあ、ルネッサァ〜〜ンス!」
数年前に居酒屋で頻繁に耳にしたのに、 最近ではまったく聞かなくなったこの言葉を、僕は思いっきり口にしてグラスを妻に差し出した。すると、
「ハイ」
と、妻は棒読み口調でそう言って、グラスを持っただけだった。妻のその言動に、なぜか無性に髭男爵が恨めしく思えた。早く消えてしまえ、髭男爵・・・あ、そんなことを思わなくても、今じゃ、もう半透明状態か。
しばらく二人でワインを口にしながら、鍋を突ついた。久しぶりだ。こんなの。
最近家で飲む時は、必ず夜中にDVDを見ながら一人でだった。しかも、発泡酒・・・。
ワインの酔いがまわりはじめたのか、妻の顔がほのかに赤みを帯びてきた。心なしか目尻も下がったような気がする。今だ。
「なぁ、何があった?」
僕はもう一度、妻に尋ねた。すると、ワインのせいで心も柔らかくなった妻が、ついに口を開いた。
妻が言うには、夕方、息子の幼稚園の友達が3人、家に遊びに来たそうだ。そのうちの2人はよく遊びに来る子だったが、残りの1人は、新規の友達だったらしい。
結論を先に書くと、妻の不機嫌の原因は、その新しい友達だった。
この新参の友達、妻がおやつに出したお菓子を「これ、キライ」とハッキリと言い、そう言いながらも菓子に手を出し、しかも何度注意をしても立ったまま食べ、そして勝手に家の中を歩いて他の部屋を覗き、その合間合間に「ここ、つまらな〜い」と独り言のように言っていたのだそうだ。
話を聞いた限り、妻が立腹して機嫌を悪くするのも分かる気がした。そしてそれと同時に、自分が原因ではなかったことに、僕は安心した。
それは、途方もないほどの安堵感だった。 今にも喉から飛び出そうだった心臓が、スーーーーーっと降りて定位置の胸を通り越し、そのまま下腹部にまで至って、身体の内部から男の大事な部分に“こんにちわ!”と挨拶するくらいの安堵感だった。
僕は妻の口からこぼれる愚痴を聞きながら、妻のグラスにワインを注ぎ足した。
そのうち妻は、
「どういう躾してるんだよ!」
「座って食べろよ!」
「勝手に押し入れ開けるなよ!」
・・・と、次第に男言葉に変わっていった・・・。
「まぁ、いろんな子どもがいるよ」
僕はそうとしか言えなかった。そしていつの間にか、敬語もやめていた。
ワインが、空になった。
僕と妻は、隣のリビングに移った。
子供たちは、先週末に録画したらしい「クレヨンしんちゃん」を見ていたが、僕と妻を見て、唖然とした表情になった。
「よぉ〜、今日もしんちゃん、ケツ出したかぁ!?」
「お母さん、酔っちゃったよ〜」
僕の知る限り、妻が子どもたちに酔った姿を見せたのは、これが初めてのはずだ。
子どもたちが唖然としたのは、僕にではなく妻の酔っ払いぶりだったのだ。そんな妻を心配して娘がこう言った。
「お母さん、酔ってるの?大丈夫?お母さんでも、酔うの?」
“お母さんでも”って・・・それ、どういう意味よ?
そしてその横では、息子が即興の歌を歌っていた。
♪お父さんは、真っ赤っか〜。お酒を飲んで、プチトマト〜♪
(終) 〈2009年作〉
晩秋のある日。
仕事から帰宅すると、妻と子どもたちはすでに夕食中だった。
メニューは煮込みラーメン。鍋だ。
「お、今夜は寒くなるそうだから、鍋はいいねぇ」
と、僕。
子どもたちはラーメンやつみれを鍋から取るのに夢中で「おかえり」の言葉もなく、僕の言葉も存在も無視状態。
妻も僕を無視・・・というよりも、なんだかちょっと様子がおかしい。
部屋着に着替えて、あらためて僕が食卓に座ると、それと入れ替わるように子どもたちが食べ終え、隣のリビングへ向かった。きっと、夕方に録画した子ども番組でも視るのだろう。
必然的に食卓には、僕と妻の二人きり。
会話なし。
聞こえるのは煮込みラーメンがその名の通り煮込まれる音だけ。グツグツグツグツ・・・。
とりあえず、僕は鍋からラーメンとか豆腐や白菜を適当に取ると、小皿に入れて口にした。熱い。でも、美味い。
相変わらず無言の食卓。
おかしい。ゼッタイに、おかしい。
いつもなら、今日自分に起った他愛もない出来事を僕に話す妻が、ひたすら俯いて、黙々と鍋をつついている。
何があったんだ?
僕が何かしたのか?
もしかして、先月、携帯電話で話し過ぎて、その料金明細が届いてそれに怒っているのか?それとも、今週末に僕が友人と飲みに出かけることを勝手に決めてしまったがために、妻が大ファンのスターダスト・レビューのコンサートに行けなくなったことを、今になってもまだ怒っているのか?それとも、先日“お、カッコいい!”とひと目惚れしてジャケットを衝動買いしてしまったのだが、それを妻に見せたら“こいつ、意外とヘソクリ持ってんじゃねぇか?”と思われたらイヤなので、こっそりとクローゼットの中に隠しておいたのがバレたのか?・・・とりあえず、自分で自分の埃を叩いてみたが、どれも当てはまるとは思えない。
「あの・・・」
先に口火を切ったのは、僕だった。
「あの・・・何か、あったんですか?」
24時間365日の中で、妻に敬語を使う時ほど緊張する時はない。
こんな時、僕はいつもこう思う。
敬語とは、相手を敬うための言葉ではない。
敬語とは、相手の内情を探るための言葉だ。
そうすると、俯いたまま妻はこう言った。
「別に」
我が家にエリカ様が現れた・・・今頃になって。
「いや、おかしいよ、絶対に何かあったでしょ?」
その後、僕は今秋、最大の勇気を振り絞ってこう言った。
「お、お、俺・・・?」
男には、自分の身を削ってでも嵐に立ち向かわなければいけない時がある。そうしなければ、問題を打破できない時があるのだ。骨を立って肉を断つのだ。火中の栗を拾うのだ。虎穴に入らずんば虎子を得ずだ。俺は何を言ってるんだ。
しかし僕の一大決心の質問に、妻はこんな返答をした。
「・・・ワイン、あったよね?」
意外だ。
妻がアルコールを自分から求めることなんて、ほとんどない。
もしかしたら、初めてかも知れない。
子どもたちも食事は終わった。鍋だから片付けもそんなに時間はかかりそうもない。今夜は寒くなりそうだ。たしかに、アルコールを口にするにはもって来いの状況だ。
「いいねぇ!ワイン、ある、ある!」
と僕はまるで妻の太鼓持ちにでもなったように、食器棚からワイングラスを、冷蔵庫からワインを素早く取り出し、グラスに注いだ。
「じゃあ、ルネッサァ〜〜ンス!」
数年前に居酒屋で頻繁に耳にしたのに、 最近ではまったく聞かなくなったこの言葉を、僕は思いっきり口にしてグラスを妻に差し出した。すると、
「ハイ」
と、妻は棒読み口調でそう言って、グラスを持っただけだった。妻のその言動に、なぜか無性に髭男爵が恨めしく思えた。早く消えてしまえ、髭男爵・・・あ、そんなことを思わなくても、今じゃ、もう半透明状態か。
しばらく二人でワインを口にしながら、鍋を突ついた。久しぶりだ。こんなの。
最近家で飲む時は、必ず夜中にDVDを見ながら一人でだった。しかも、発泡酒・・・。
ワインの酔いがまわりはじめたのか、妻の顔がほのかに赤みを帯びてきた。心なしか目尻も下がったような気がする。今だ。
「なぁ、何があった?」
僕はもう一度、妻に尋ねた。すると、ワインのせいで心も柔らかくなった妻が、ついに口を開いた。
妻が言うには、夕方、息子の幼稚園の友達が3人、家に遊びに来たそうだ。そのうちの2人はよく遊びに来る子だったが、残りの1人は、新規の友達だったらしい。
結論を先に書くと、妻の不機嫌の原因は、その新しい友達だった。
この新参の友達、妻がおやつに出したお菓子を「これ、キライ」とハッキリと言い、そう言いながらも菓子に手を出し、しかも何度注意をしても立ったまま食べ、そして勝手に家の中を歩いて他の部屋を覗き、その合間合間に「ここ、つまらな〜い」と独り言のように言っていたのだそうだ。
話を聞いた限り、妻が立腹して機嫌を悪くするのも分かる気がした。そしてそれと同時に、自分が原因ではなかったことに、僕は安心した。
それは、途方もないほどの安堵感だった。 今にも喉から飛び出そうだった心臓が、スーーーーーっと降りて定位置の胸を通り越し、そのまま下腹部にまで至って、身体の内部から男の大事な部分に“こんにちわ!”と挨拶するくらいの安堵感だった。
僕は妻の口からこぼれる愚痴を聞きながら、妻のグラスにワインを注ぎ足した。
そのうち妻は、
「どういう躾してるんだよ!」
「座って食べろよ!」
「勝手に押し入れ開けるなよ!」
・・・と、次第に男言葉に変わっていった・・・。
「まぁ、いろんな子どもがいるよ」
僕はそうとしか言えなかった。そしていつの間にか、敬語もやめていた。
ワインが、空になった。
僕と妻は、隣のリビングに移った。
子供たちは、先週末に録画したらしい「クレヨンしんちゃん」を見ていたが、僕と妻を見て、唖然とした表情になった。
「よぉ〜、今日もしんちゃん、ケツ出したかぁ!?」
「お母さん、酔っちゃったよ〜」
僕の知る限り、妻が子どもたちに酔った姿を見せたのは、これが初めてのはずだ。
子どもたちが唖然としたのは、僕にではなく妻の酔っ払いぶりだったのだ。そんな妻を心配して娘がこう言った。
「お母さん、酔ってるの?大丈夫?お母さんでも、酔うの?」
“お母さんでも”って・・・それ、どういう意味よ?
そしてその横では、息子が即興の歌を歌っていた。
♪お父さんは、真っ赤っか〜。お酒を飲んで、プチトマト〜♪
(終) 〈2009年作〉