りきる徒然草。

のんびり。ゆっくり。
「なるようになるさ」で生きてる男の徒然日記。

2018-11-28 | 短編小説


(2003年作・第35回中国短編文学賞 最終候補作)


【親父の死】

 厄介な電話というものは、受話器を取る前から大体分かるものだ。
「先輩と同じ名字の人からなんスけど」
 と出社早々、入社一年目の後輩が取次いだその電話もその類いの電話だった。不審な表情を浮かべて俺が出ると、
「朝からすまんな」
 と籠った男の声が受話器から聞こえてきた。それが兄貴だとは、すぐには気づかなかった。
「珍しいな、何かあったのか?」
 肉親からの突然の電話に、俺は奇妙な違和感を感じていた。
「親父が、死んだ」
 兄貴の口から出たその言葉を耳にした後も、俺の中の奇妙な違和感は消えなかった。

「先輩の親父さんって、いくつだったんスか?」
 と後輩は片手でハンドルを廻しながらそう言った。
 朝が始まってまだ間もないというのに、駅へと続く幹線道路はすでに渋滞がはじまっていた。四方をバスやトラックにガッチリ囲まれた会社のポンコツ営業車は減速する度に、プスンプスン、と頼りない排気音を響かせて車体を細かく震わせた。
「たしか、七十四・・・いや、五かな」
 と後輩の問いに俺が答えると、後輩は、エエッッ!!!と、ポンコツの屋根が吹き飛ぶかと思うほどの大声を上げた。
「・・・っるせぇなぁ、何だよ?」
 俺は大袈裟に右耳に人指し指を突っ込んで後輩を睨んだ。
「だって、先輩って、まだ三十前でしょ?」
「ああ、晩婚だったからな、たしか、結婚した時は四十を過ぎてたはずだよ、俺は、親父が四十九の時の子だから」
「へぇ・・・あ、だったら、親父さん、七十七歳じゃないっスか、先輩、今、二十八でしょ?」
 と、紛いなりにも四流ながら理系大学卒の後輩は、即座に親父の年齢の算出した。
「あ、そうか・・・」
「しかし親父さん、どうしてその年まで結婚しなかったんスか?仕事一筋っスか?」
「さあな、あんまり昔のことは話さなかったからな・・・大人しいし、病弱だったから」
「病気だったんスか?」
「ああ、原爆に遭ってるからな」
「へぇ、そうなんスかぁ」
 原爆という言葉を口にしたのに、後輩は普通の合の手を入れるだけだった。後輩を一瞥した後、俺は渋滞の列に視線を移した。
「だから身体が弱くてな、死因は聞いてないけど、たぶんそれだろう」
 親父が死んだことに対して、俺は自分でも驚くほど動揺はしていなかった。
 理由は、解っていた。
 それは今の俺が、家族というモノから遠く離れて生きているからだ。フロントガラス越しの風景を眺めながら、俺はそんなことをぼんやりと考えていた。
 十八歳で家を出た俺は、生まれた場所から遠く離れ、十年もの間、このいつまでたっても実体が掴めない、途方もなく巨大な街で生きてきた。しかし振り返ると、その年月はまるでこの街と呼応しているかのように実体を伴わない、単に一年という時間を十回繰り返しただけの、怠惰な時間の滞積に過ぎなかった。
 仕事も、変わった。
 最初に就いた仕事は、中堅の水道工事会社だった。
 作業服を着て、毎日毎日あらゆる形のバルブを締めたり緩めたりし続けた。そして気がつくと、まるで風に漂う鳥の羽のように俺は転職を繰り返し、十年が過ぎた今では、社員が十人にも満たない小さな印刷会社の営業社員に収まり、毎日毎日安物のネクタイで頸を締め、今にも潰れそうな小さなスーパーや個人商店のチラシの印刷受注に奔走していた。
 ポリシーもプライドも、ない。
 ふと自分の経歴を振り返る時、そのあまりの一貫性の無さに、俺は自身を嘲笑してしまう。そして、そんな毎日をこの街で過ごしていれば、誰だって、故郷とか家族といった存在は、おのずと稀薄になってゆく。
 だから、いつもの日常の中で突然、父親の死を告げられても、俺の中に胸が潰れるような悲痛な切迫感はカケラさえも生まれるわけがなく、ただただ奇妙な違和感だけが靄のように身体の周りを纏わり漂うだけだった。そしてそれは、この巨大すぎる街の中で、突然〈原爆〉という言葉を耳にしても、何も現実感を掴めない後輩と、きっと同じようなものなのだろう。だから正直に今の本心を吐露すれば、仕事を放り投げてまで帰りたいとは思っていなかった。
「彼女は、連れて帰らないんスか?」
 前方をみつめたまま、後輩がそう尋ねた。連れて帰らない、と俺は答えた。
「いいんスか?お腹に子どもがいるのに」
「お前、何で知ってるんだ?」
「何、言ってるんスか、この前飲みに行った時、そう言ってたじゃないっスか、いやだなぁ、憶えてないんスか?」
 まったく、憶えてなかった。
 しかし後輩の言っていることは事実だった。俺は呆然と後輩の顔を眺めるしかなかった。
「まあ、先輩もかなり酔っぱらってたしなぁ、親になる自信がないとか、まだ自由でいたいんだとか、こんなご時世にどうやって養うんだとか・・・半分泣いてましたよ、先輩」
 数日前の出来事だった。
 部屋にやって来た彼女は、俺に妊娠を告げた。それはまるで予定されていた出来事を報告するかのような、奇妙な冷静さに包まれた口調だった。
 しかし、俺は違った。突然つきつけられたその事実に狼狽し、気がつくと俺は《中絶》という言葉を口にしていた。その言葉を耳にした彼女は、まるで汚物でも見るような侮蔑の視線を俺に向けた。それ以降、空虚な空気が俺と彼女の間を流れはじめていた。
 離別。頭の中にその二文字が浮かんでは消えていた。
「誰にも言うなよ」
「言いませんよ、こんなカッコ悪いこと、三十前の男が泣いただなんて」
「バカ、そっちのことじゃない!」
 駅前で車を降りると後輩は「土産はもみじ饅頭でいいっスからぁ〜」と脳天気な台詞を残して会社へ戻って行った。
 ホームへ上がると、携帯電話を取り出した。メール機能に切り替え、父の死と、それに伴って数日間帰郷する旨を、無表情な文章で入力し、そしてしばらくその画面をみつめた後、俺は、送信ボタンを彼女に向けて、押した。



【帰郷】

 黄金山に屹立するテレビ塔が視界に入ると、それを合図にタクシーは静かに停車した。
 久しぶりに眼にした広島は、やけに田舎臭く感じた。タクシーの車窓を流れる街並みを眺めながら、いったいこれが何年ぶりの帰郷になるのかを思い出そうとしたが、六年前の記憶まで遡ったところで面倒になってやめた。
 実家は、吹き出してしまうほど何ら変わっていない風景の中に佇んでいた。そこには、おそらく日常とまったく同じと思われる、生温い空気が漂っていた。
 静かだ。
 市街地からさほど離れているわけではないのに、穏やかな初夏の陽射しの中、聞こえてくるのは、名も知らぬ小鳥たちの柔らかい鳴き声ぐらいだ。深呼吸をすると、微かに新緑の噎せる匂いを含んだ空気が、両の肺に満ちていった。
〈騙されてんじゃないだろうな?〉
 一瞬、そんな疑念が身体の中を流れた。
 俺は眼の前の古びた家屋を怪訝そうに見回すと、何かに導かれるように静かに玄関へ向った。
「おじゃまします」
 玄関で靴を脱ぐ時、そう口にしていた。自分の口から出たその言葉に、俺は思わず苦笑した。
 懐かしさなんて、なかった。
 故郷に対するそんな感情は、パソコンのデスクトップのゴミ箱に投棄してしまったかのように、俺の中から完全に削除されていた。
 玄関から続く廊下を進み、客間に入ると、兄貴とお袋と見知らぬ初老の男が輪になって座っていて、その横に白い布で顔を覆った人物が横たわっていた。
「おう」
 俺に気づいた兄貴はたった一言そう言った。まるで昨日も会ったかのような口調だった。
 初老の男と話し込んでいたお袋も、兄貴の声で俺の存在に気づいた。お袋は例えようのない表情で俺を見上げた。
「いつだ?」
「今朝早くだ、突然だった」
 まあ座れ、と言う兄貴に促されて、俺は眼前に横たわる人物の前に座った。
 しばらく見ない間に、兄貴は老け込んでいた。
 公務員という職業はそれほどまでに激務なのだろうか。兄貴は三十を越えてまだ間もないはずだ。しかし今眼の前にいる兄貴は不惑の年を越えたような風貌だった。白髪が増え、眼尻はどす黒く変色し、安物の白いワイシャツが、中年太りがはじまったようなその体躯に哀しいほど似合っていた。
 兄貴は俺の横に座り、横たわる人物の顔を覆っていた白い布を静かに捲った。すると、そこに一人の老人の死顔が現れた。
 親父には見えなかった。
 眼窩は深く落ち込み、頬はこけ、固く閉じられた口は、まるで彫刻刀で彫った浅い溝のように俺の眼には映った。血色の失せた肌は、死人のそれ特有の黄ばんだ鑞のようだ。
 今朝の・・・と背後でお袋が語りはじめた。
「今朝の六時ぐらいじゃったかねぇ、手洗いの方から、ガタン、っていう音がしたけぇ、行ってみたら、お父ちゃんが倒れてたんよ」
 その後を兄貴が続けた。
「すぐに救急車を呼んだが、遅かった、臨終は、午前七時十二分だ」
「死因は?」
 親父の顔をみつめたまま、俺は尋ねた。
「分からん」
「分からん?」
 ぶっきらぼうな兄貴の返答に、俺は思わず兄貴の方へ顔を向けた。鸚鵡返しだったが、久しぶりに広島弁を口にしていた。
「一応、心不全ということになっとるが、実のところは先生にも分からんそうだ、解剖すれば分かるかも知れん、と言われたが……」
 その後を、今度はお袋が続けた。
「断ったんよ、お父ちゃんは身体のことでは苦労したけぇね……死んでからも痛い思いはさせとうなかったけぇ……」
 俺は合掌し、そして自らの手で、白い布を親父の顔の上へ戻した。
 弟です、と兄貴が男に俺を紹介した。初老の男は葬儀屋だった。
 葬儀屋は、俺が現れる前に三人で打ち合わせた内容を俺に説明した。事務的なロボットのような喋り方だった。その口調に、俺は少し苛立った。
「うちは親戚も少ないけぇ、通夜はやらんことにした、親父は大人しい人じゃったけぇ、静かに送ってやろうや」
 事務的な葬儀屋の説明に、兄貴はそう言って遺族の心情を補足した。
 その後、俺たちは葬儀の準備に取りかかった。時間が経つに連れて、数少ない親戚たちも駆けつけはじめ、家はにわかに騒がしくなっていった。
 客間のテーブルを裏の物置きに運び終えた時、お袋が俺を呼び止めた。少し背が丸くなったお袋は、「元気じゃったんじゃね」と眼を細めてそう言った。



【紫煙の向こう】

 事務的な葬儀屋のおかげで、翌日の葬儀は滞りなく終わった。
 夕刻、小さな箱になった親父とともに、俺たちは帰宅した。客間に入ると祭壇が設けられていて、俺はその上に親父の骨壷を静かに置いた。
 お世話になったけぇ、と兄貴は町内会長の家へ出かけて行った。俺が一緒に行こうとすると、「これから家に来る人がおるかも知れん」と兄貴は言い、家に居るよう俺に命じた。
 しかし来客はなかった。家の外はすでに夕暮れの薄紫に支配されはじめていた。黄金山に聳えるテレビ塔の赤いランプが、この街の人々に夜の訪れを告げている。
「疲れたじゃろう」
 そう言って、お袋が湯呑みに緑茶を注いで俺に差し出した。眼尻に無数の細かい皺が刻まれたお袋の両眼は、力なく瞬きを繰り返していた。
 お袋と二人きりになったのは、何年ぶりだろうか。ぎこちない空気が二人を包み、それが煩わしかった。しかし、それはお袋も同じだったようだ。お袋は向こうでの食事や仕事の事を俺に尋ね、俺はその都度、適当な返事を繰り返した。煩わしさが増す気がした俺は、話題をすり替えた。
「兄貴の仕事は忙しいの?相当疲れてるみたいだけど」
「どうなんじゃろうねぇ、家では、ほとんど仕事の話はせんけぇね」
 この二日間、俺は兄貴の傍にいて、奇妙な違和感を兄貴に感じていた。
 そこには、かつて俺が慕っていた快活で優しい「お兄ちゃん」はいなかった。そこにいるのは、すべてのモノを醒めた眼で見ているような男だった。燃料計の針がエンプティを指しているかのように、人間のエネルギーというものが、兄貴からはまったく感じられなかった。エネルギーがなければ、老け込むのは当然だ。リタイア寸前のような兄貴を眼にした俺の中の違和感は、気づかぬうちに嫌悪感へと変わりはじめていた。
「あんた…お兄ちゃんのこと、嫌い?」
 突然、お袋がそう尋ねた。とっさに俺は嘘をついた。すると、
「嘘は言いんさんな、顔を見れば分かるよ」
 と言葉とは裏腹に、お袋はそう言って笑った。それは、帰郷して初めて眼にしたお袋の笑顔だった。
「誰だろうと、疲れた人間を見るのは、嫌だ」
 俺は俯いてそう答え、湯呑みを口にした。口の中に緑茶の味が広がった。それは昔のままの暖かく柔らかい味だった。でもね、とお袋は言葉を続けた。
「お兄ちゃんも、あんたも、一緒よ」
「一緒?」
 お袋は頷いた。
「昨日からお兄ちゃんとあんたを見ようて思うたんよ、ああ、やっぱり兄弟じゃなって・・・あんたはどう思うとるか知らんが、お兄ちゃんとあんたはよう似とる、性格も仕草も笑い顔も、それに、疲れた顔も」
「何を言ようるんよ・・・」
 俺は返答に困ってそう言った。それは帰郷後、はじめて能動的に発した故郷の言葉だった。俺はポケットから煙草を取り出し、火を点けた。
「あんたも、向こうで色々あったんね?」
 お袋のその問いに、俺は答えなかった。
 紫煙とともに奇妙な沈黙が漂いはじめた事を察した俺は、その狭間を埋めるように、頭の中で引っ掛かっていたことをお袋に尋ねたた。
「親父の死因、元を質せば、やっぱり原爆なのかな?」
「さあ・・・どうかねぇ、お父ちゃんは身体がボロボロじゃたけぇ・・・もうどれが原爆で、どれがそうじゃないんか、自分でも分からんかったみたいじゃったけぇね」
「親父が原爆に遭ったことは知ってるけど、俺、詳しい話は聞いた事ないんだよ」
 そう言うと、途端にお袋の顔が曇った。
「やっぱり、他の被爆者と一緒で、話したくなかったのかな?」
 お袋は俺の問いには答えなかった。ただ、皺の増えた両の掌で手元の湯のみを包み込むようにしたまま、じっと視線を落としているだけだった。そして、そのまま俺もその後の言葉を紡がなかったために、瞬く間に俺とお袋の間の空気は黙り込み、その間を俺の吐き出す煙草の煙だけがゆらゆらと彷徨った。
「・・・そうじゃないんよ・・・」
 しばらく続いたその沈黙を破るようにお袋はそう呟いた。紫煙の向こうに見えるその顔には、明らかに何かしらの意志が感じられた。
「話したくなかったんじゃのうて、話さない、って決めたんよ」
「話さない?」
 お袋は静かに頷いた。そしてしばらく思案の表情を浮かべた後、ゆっくり視線を移して、
「少しだけ、この子に話してもええかね?」
 と俺の背後の遺影に問いかけると、一息置いて、静かに話しはじめた。



【お前はワシの子】

「あの日、たしかにお父ちゃんは原爆に遭うた・・・そりゃあ惨い、この世とは思えん地獄を見たそうじゃ・・・でも、その事は・・・原爆の事は、もう話さんって、お父ちゃんは決めたんよ」
「じゃけぇ、何で?」
 自然に広島弁を口にしていた。
「それは、お兄ちゃんとあんたが、生まれたけぇよ」
 俺を真直ぐにみつめて、お袋はそう言った。
「俺らが?・・・俺らがどういう関係があるん?」
 湯呑みに一度口をつけ、お袋は続けた。
「原爆に遭うてから、お父ちゃんは本当に苦労した・・・家族も親類もみんな死んで、助かったいうても、お父ちゃんも身体がおかしゅうなって・・・すぐだるうなったり、あちこちが痛んだり・・・ずっとそんな調子じゃけぇ、心もおかしくなって・・・何にもやる気が起きんなって・・・何とか学校を出たけど、若いのに働きもせんと、ゴロゴロゴロゴロしとったそうじゃ・・・」
 社会見学ではじめて原爆資料館へ行った日、小学生だった俺は、その事を無邪気に食卓で話題にした。親父はしばらくして箸を置き、
「お父ちゃんも、原爆に遭うたんど」
 と告白した。笑顔だったが、その眼は笑っていなかった。自分の父親が被爆者だと知ったのは、この時だった。
「肉親が死んで、身体を壊されて、お金ものうて・・・苦しみながら、悩みながら、お父ちゃんは生きとったんよ・・・《自分には生きる資格はない》・・・お父ちゃんはずっとそう思いながら、生きとったそうじゃ・・・じゃけえ、ずっと結婚もせんかったんよ」
 物心がつきはじめた頃、親父はすでに初老だった。どうして、お父ちゃんは“おじいさん”なんだろう・・・そんな素朴な疑問が俺の中には常に存在していた。しかしその疑問を親父にぶつけることはなかった。
 《言ってはいけない》
 幼い俺は、なぜかそう直感していたのだ。
「縁があったんかねぇ・・・お父ちゃんが四十四歳の時、お母ちゃんは、お父ちゃんと一緒になった・・・そして一年後に、お兄ちゃんが生まれ・・・四年後に、あんたが生まれた」
 十代になると、親父は俺の中で劣等感へと変質した。高齢で、身体が弱く、物静かな親父は、俺にとっては侮蔑の対象以外の何ものでもなかった。
 《こんな男には、絶対になりたくない》
 心の中でそう呟き続け、高校を卒業すると同時に、俺は躊躇する事なく、家を捨てた。
「お兄ちゃんが生まれた時に、お父ちゃん、“こんなワシにも、生きる資格があるんじゃのう”って言うて、涙をこぼしてね・・・」
 お袋は涙声になった。
「そして、あんたが生まれた時、お父ちゃんこう言うたんよ、“ワシは原爆に遭うた・・・それは事実じゃ、忘れる事はできん、忘れられるわけがない・・・じゃけど、もうワシは誰にも話さん、誰に何を聞かれても、ワシの口から話すことはせん・・・ワシは・・・ワシは、二人も子どもを授かった・・・これは神さんが、《生きろ》と、ワシに言うとるような気がするんじゃ・・・原爆に遭うて、ワシの人生はワヤになった、普通に生きる資格なんかないと思うとった・・・じゃが、《女房や子ども達と、もう一度人生をやり直せ》と・・・神さんがのう、ワシにそう言うとるような気がするんじゃ・・・こんなワシでも、もういっぺん・・・じゃけえ、ワシはもう、原爆の事は誰にも、誰にも話さん”って・・・」
 話し終えると、お袋は涙を拭い、腰を上げた。そして、奥の居間から小さな箱を手にして戻ってきた。
「落ちついたら、渡そうと思っとったんじゃけど」
 と言うと、掌に乗るほどのその箱を俺に手渡した。蓋を開けると、中には黒く歪な数個の物体が転がっていた。見憶えはあったが、頭の中で上手く像を結べなかった。
「何か、分かる?」
 俺は首を傾げた。
「お父ちゃんの…」
 お袋のその言葉が、瞬時に像を結んだ。
 それは、親父の爪だった。
 親父の右手の、薬指の爪だ。褐色で、異常にぶ厚く、緩やかに彎曲しているその爪は、いわゆる一般的な人間の爪とはあまりにも程遠い姿をしていた。
 肉体から離れ、小さな箱の中に転がるその物体を瞬時に爪と認識するのは難しい。腐った竹細工のようにも見えるし、古生物の化石のようにも見える。
 親父の薬指から生え続けたその爪は、ぶ厚く硬質な為に爪切りを受け付けなかった。その為、数年の間伸びるままに放っておくと、やがて根元に亀裂が入り、ポロッと自然に指先から落ちた。しかし、爪が取れた指先からは、まるで当たり前のように、クローンのような異形の爪が、再び生えてきたのだった。
 幼い頃、親父にその爪の理由を尋ねた事があった。穏やかな昼下がりの縁側で、親父は新聞を読んでいた。「これはのう、昔、仕事で怪我をしてからこうなったんよ」と親父はその指先を摩りながら優しくそう答えた。
「これが・・・親父の・・・この爪が・・・?」
 お袋の意図が分からなかった。
 俺は眉間に皺をよせ、爪とお袋の顔を交互に眺めるしかなかった。そしてお袋は、そんな俺を憐れむような表情でみつめながら、ゆっくりとその口を開いた。
「“ワシが死んだら、原爆の話の代わりに、この爪を子どもらにやってくれ”って…」
 お袋のその言葉が、頭の片隅に微かに残存していたある記憶を、突然蘇らせた。
 それは、原爆資料館を訪れた小学生の時の記憶だった。俺は、とある展示物の前でその足を止めた。それを眼にした小学生の俺は、そのあまりの醜さに思わず息を飲み、その異形の展示物を網膜に焼き付けた。
 その展示物。
 それは、指先に突き刺さったガラス片によって爪の細胞組織が破壊されたという、被爆者の爪だった。
 その爪は異常に彎曲し、黒と灰色が混濁していて、とても人間の身体の一部には見えず、まるで鷲の嘴のように俺の眼には映った。そこには、当たり前のモノが、ある日突然、当たり前ではなくなるという、剥き出しの恐怖が存在していた。

 嘘、だった。

 仕事の怪我の痕なんかではなかったのだ。あの、親父の薬指から生え続け、そして今は小さな箱の中に転がる、この異形の爪は、親父が八月六日に体験した、剥き出しの恐怖の痕だったのだ。
 親父はその一切を隠し、ひたすら子供たちの前では親父なりに普通の父親であろうとした。それは年老いた彼にとって、再び自分の手元に人生を取り戻すための、たったひとつだけ残された最後の手段だったのだろう。

 知らなかった。

 親父の爪をみつめながら俺はそう痛感した。
 後輩は俺の親父の過去に興味を示さなかった。しかしそんな後輩を侮蔑する資格など、俺自身もどこにも有していなかったのだ。
 箱の中からひとつ、爪を手に取ると、俺は掌の中で何度か軽く転がしてみた。歪な爪は、幼児が覚えたての“でんぐりがえし”をするように、俺の掌の中で不器用に横転した。
 何度か転がすと、俺は爪を軽く握り、そして無意識にズボンのポケットに仕舞い込んだ。
 すると、ふいにあの日の縁側の光景が蘇ってきた。朧げな記憶の中の親父は、幼い俺を膝に乗せて、こう言っていた。

 ・・・この爪は変じゃけど、他の爪は綺麗じゃろうが?・・・見てみいや、お前の爪と形がそっくりじゃ・・・お前は、ワシの子じゃけぇのう・・・。

 日付けが変わる頃、昔の自分の部屋に布団を敷き、窓の外の夜景を眺めていると、「煙草あるか?」と、突然、兄貴が襖を開けて入ってきた。
 煙草を差し出すと、兄貴は持っていたライターで火を点け、そして俺と同じように窓の外の夜景に眼を向けた。
「こんなに明るかったかな?俺たちがガキの頃は、もっと暗かったような気がするけど」
 夜景を眺めながら独り言のように俺はそう言った。しかし、本当に独り言だと思ったのか、兄貴はそれには答えなかった。
 横目で兄貴を一瞥して、俺も煙草を取り出し口にくわえた。すると兄貴が持っていたライターで、煙草の先端に火を灯してくれた。俺は手を上げて兄貴に応えた。
「一度、お袋と遊びに来いよ、はとバスツアーも捨てたもんじゃない」
 最初の煙を吐き出すのとほぼ同時に、俺は兄貴にそう言った。すると、兄貴は口許を微かに緩めた。それに、と俺は続けた。
「ええ女が、ぎょうさんおるで」
 そう言うと、兄貴は声を出して笑った。その笑顔は、かつて俺が大好きだった「お兄ちゃん」の顔だった。気がつくと、俺も連られて笑っていた。
「明日も頼む」という言葉を残して兄貴が部屋を出ていった後、俺は携帯電話を取り出し、電話をかけた。
 彼女は、家にいた。
 明日いっぱい葬儀の後片付けをし、明後日には帰る旨を、ぎこちない彼女に向って告げ、そして深呼吸一回分の間を置いて、再び受話器に向かって話しはじめた。
「明日、朝一番の新幹線でこっちへ来ないか?」
 返事はなかった。
「お袋と兄貴、それに死んじまったけど、親父にも会ってくれないか?」
 彼女は答えない。気にしないふりをして、俺は続けた。
「お袋にとっては初孫だ、孫を抱かせる前に姑と顔を合わせておくのが、筋だろ?」
 そう言い終えると俺は返事を待った。しかし返事は一向に耳元に届かず、その代わりに、消え入るような小さな嗚咽が、受話器から漏れてきた。
 受話器から漏れるその声に少し困惑した俺は、手持ち無沙汰から無意識に片手をズボンのポケットに突っ込んだ。すると、チクッと小さな痛みが指先に走った。それは親父の爪だった。その痛みが、まるで親父からの祝福のように俺は感じた。
(終)
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