出会ったのは、ワタシが26歳の時だった。
今の会社に転職して半年が過ぎた頃。
ロクなデザインを作れなかったワタシを見かねた会社の先輩が、「ついて来い」と、その人の事務所へワタシを連れて行ってくれた。
事務所といっても、自宅の一室を改築したデザインルーム。
長大なモノトーンのデスク、その横にはエアブラシの道具一式。小さなライトテーブル。その上に無造作に置かれているカラーチャートや英文字の雑誌や古いレコードジャケット。
その奥には棚があって、なんのための道具なのかよく分からない銀色に光る機械がいくつも並んでいた。
1994年。
足音はすでに聞こえてはいたが、パソコンで自在にデザインをするような時代は、まだ地方のグラフィックデザイン業界には訪れてはいなかった。
「Sです」
その部屋の主は、ワタシにそう挨拶をしてくれた。
がっしりとした偉丈夫な身体つき。
低くて野太い声。
そして何よりも驚いたのが、髭を蓄えたその顔。
「勝新太郎の弟です」
と笑いながら自己紹介したその顔は、本当によく似ていた。
もちろん、なんら血の繋がりはない、赤の他人だったのだけど。
そんな全身から溢れる威圧感とは裏腹に、初対面の、しかもデザイナーとしてはまだまだ駆け出しのワタシに、Sさんは気さくに色々な話をしてくれた。
ワタシより10歳年上であること。
大阪芸術大学を首席で卒業したこと。
大阪のデザイン会社に数年勤めた後、フリーランスになったこと。
デザイナーやイラストレーターとしての仕事の傍ら、ジャズピアニストでもあること。
地元の企業やイベントのポスターから、福山ばら祭りなどのロゴマーク、地ビールのパッケージデザイン、洋服の青山のCM、来生たかお・岩城滉一・中村雅俊のアルバムジャケット・・・など、今まで手がけた仕事のこと。
クルマは古いBMWに乗っていること。
タバコはショートホープしか吸わないこと・・・etc.
オトナ、だった。
当時、まだ学生気分が抜け切っていなかったワタシにとって、それまでに出会った人の中で、群を抜いて〈オトナ〉の匂いを感じる人だった。
◆
以降、ワタシは時折りSさんの事務所に顔を出すようになった。
会社勤めで、しかも社内で1人だけの“デザイナーもどき”だったワタシにとって、Sさんは自分が持っていないモノを全て持っている〈先生〉のような存在だった。
しかし、事務所に長く居続けても、仕事やデザインの話はほぼ皆無。
なぜなら、事務所の中は所ジョージの〈世田谷ベース〉ばりにありとあらゆる〈男のおもちゃ〉が溢れていたからだ。
部屋の中に転がる腕時計やミリタリーグッズや用途不明な機械や小物を手にしながら、ワタシとSさんは生産性のない取るに足りない雑談の花を、仕事も時間も忘れてひたすら咲かせ続けた。
◆
それでも、たまには仕事の相談にも乗ってもらった。
ある時、どうやっても上手くいかない、自身が腑に落ちるモノが創れなかった時のこと。
Sさんの事務所に赴き、制作途上だったそのラフデザインを見てもらった。
「ダメだね」
ラフデザインを見るや否や、Sさんはそう言って一蹴し、そしてこう続けた。
「仕事を真面目にすることは、もちろん大事。でもね、りきるくん、その前に、もっと遊ばなきゃ」
安易に優しいアドバイスをもらおうとしていたワタシは、その言葉の意味すら分からなくて、ますます混乱してしまった。
◆
25年前。
ワタシが結婚した直後。
滅多に来社することがなかったSさんが、突然ワタシが勤める会社にやって来た。
「おー、おめでとう」
自分のデスクから受付カウンターへ顔を出したワタシの顔を眼にするや否や、Sさんはそう言って手にしていたシャンパンをワタシに手渡し、そして
「じゃあね」
と、笑顔で軽く手を上げると、瞬く間に会社を後にした。
◆
15年ほど前。
いよいよ、インターネットがメディアのメインストリームとなりはじめた頃。
全国のクリエイターから作品を募るサイトを見つけたワタシは、そのサイトを通じて自身の作品の発表をはじめた。
そのことをSさんに伝えたところ、興味を持ったSさんもそのサイトに参加することになり、全国のクリエイターに混じってそのサイトで作品の発表をはじめた。
それから数年後、そのサイト主催の共同個展を東京で開催することになり、ワタシとSさんも作品を出品し、開催期間中、ワタシも上京し会場へ訪れた。
原宿の小さなギャラリーは予想以上に盛況で、その中でもギャラリーの最奥に掲げてあった作品の前には、立ち止まって鑑賞する幾人もの人がいた。
Sさんの作品だった。
ワタシの作品も含めて、比較的分かりやすい、来場者に迎合的な作品が大半だった中で、Sさんの作品は明らかに異彩を放っていた。
入口のすぐ横に掲げてあったワタシの作品に立ち止まる人なんて、ほとんどいなかった。
勝負で言えば、完敗。コールドゲーム。
それでもワタシは、嬉しかった。
Sさんと初めて同じ土俵で勝負ができたことが、何よりも嬉しかった。
◆
数週間後。
個展の報告も兼ねて、ワタシはSさんと呑みに行った。
Sさんと初めての呑み。しかも、サシ呑み。
その時の詳細を話すのは無粋のような気がするので、ここでは話さない。
ひとつだけ言えば、Sさんと過ごしたあの時間は、ワタシの宝物だ。
自分が〈オトナ〉になったと実感した酒の席は、後にも先にも、Sさんと過ごした、あの時だけだ。
◆
ワタシは〈広告業界の人間〉としてSさんと繋がった人間なので、ジャズピアニストとしてのSさんとはあまり縁がなかった。
出会って間もない頃にあったイベントでのライブ。
尾道港にあった古い倉庫で開催されたライブ。
ホテルのディナーショーでのライブ。
・・・ワタシがジャズピアニストのSさんと接したのは、この3度のライブだけだった。
「ライブやるから、おいで」
Sさんからそう誘われて、近所のライブハウスへ出かけたのは、今から8年前。
狭いライブハウスは満席。そして、大盛況。
お酒片手にほろ酔いのジャズピアニスト・Sさんも上機嫌だった。
本編が終了し、アンコールを求められたSさんは、ピアノの弾き語りで歌いはじめた。
「You are so beautiful」
初めて聴くSさんのボーカル。
本家のジョー・コッカーに負けず劣らずの太く低く、そして暖かいその歌声に、不覚にも涙腺が緩んだ。
◆
Sさんが、入院した。
共通の知り合いからそう教えてもらったのは、6年前の夏だった。
仕事終わりの夜、お見舞いに行った。
病室の扉を開けると、そこにはワタシが知っている恰幅の良い偉丈夫なSさんはどこにもおらず、その代わりに、痩せてひとまわり小さくなったSさんが、ベッドの上にいた。
「いやぁ、けっこうな血を吐いてねぇ」
まるで天気の話でもするかのような口調で、Sさんはそう言った。
その後、いろんな話をしたはずなのだが、あまり憶えていない。
ワタシにとって無敵のような存在だったSさんの変わりようがあまりにもショックで、それ以外の事柄を記憶することができなかったのだろう。
「退院されたら、また事務所にお邪魔しますね」
そう言って、病室を出たこと以外は。
◆
3年前の冬。
ギャラリーのある小さな喫茶店。
Sさんが個展を開かれたと知ったので、久しぶりに陣中見舞いも兼ねて顔を出した。
壁に架け掛けられた、Sさんしか描けない作品たち。
誤解を恐れずに言えば、決して万人に理解はしてもらえそうにない。
だが、なんなのだろう。この五感を強烈に惹きつけられる不思議な引力は。
Sさんは、元気そうだった。
血色も良さそうだったし、体格も少しだけ元に戻ったように見えた。
お酒はやめた、とSさんは言った。
淡々と、少し寂しそうに。ショートホープではなく、電子タバコを燻らせながら。
「まぁ、りきるくん、何とかなるもんよ」
そう言ったSさんの背後に、Sさんが描いた一幅の絵が掲げてあった。
暗闇の中で、仄かに灯るランプ。
弱々しくも暖かく灯る、漆黒の中の、古いランプ。
◆
今年。
6月中旬の日曜日。
ワタシは久しぶりにSさんの自宅兼事務所へお伺いした。
事前に約束した時刻に到着したら、一緒に暮らしておられる家人の方が迎えてくださった。
Sさんとワタシがいつも座って談笑していた、リビングの広く長いモノトーンのテーブル。
その横に、真新しい祭壇。
その上に、小さな箱になったSさんがいた。
〈お、いらっしゃい〉と、今にもワタシに話かけそうな優しい横顔の遺影とともに。
その前の週、とある知人から連絡が突然届いた。
〈Sさんが亡くなった〉
ご家族やごく親しい友人や音楽仲間に見守られて、Sさんは静かに旅立たれたのだった。
亡くなられてまだ間もないというのに、家人の方は気丈に振る舞わってくださり、時に笑顔まで見せてくださった。
ワタシはアホなので、それにつられて何も考えずに、家人の方が知らなさそうなSさんとの面白話を能天気に話してしまった。
でも、亡くなる数日前に、気力と体力を振り絞って、病院のロビーで音楽仲間と最期のジャズライブを開催した話や、病室に大好きなジャズが流れる中で、静かに旅立ったという話を家人の方が話された時には、さすがに息ができないほど胸が熱くなり涙腺が緩んでしまった。
最後の最後の最後まで、SさんはSさんの人生を生ききったのだ。
帰り際、家人の方が、とあるものをワタシに譲ってくださった。
それは、個展の時に制作した招待状と、手帳カバーだった。
見憶えのある手帳カバーだった。
Sさんがスケジュール管理をしていた手帳に使っていたような記憶がある。
本革の、使えば使うほど味わい深くなってゆく、そんな〈オトナの男〉が使うべき手帳カバーだ。
◆
結婚祝いにシャンパンをもらった数日後、当時地元のコミュニティFMでSさんが持っていた音楽番組をクルマを走らせながら聞いていたら、放送開始の開口一番で〈りきるくん、結婚おめでとう〉と流れてきて、驚きのあまりに事故りそうになったこと。
SNSでSさんが〈昔、ジェームス・ブラウンそっくりの駄菓子屋のおばちゃんがいた〉という投稿をしていたので、〈僕のおばあちゃんはボ・ディドリーにそっくりでした〉と写真付きでコメントしたら、真夜中に携帯電話が鳴り、出てみると電話の向こうから〈おい、ボ・ディドリーはないだろう〜〜!〉と、ちょっと酔っ払った泣き笑いのような、本当に楽しそうなSさんの声が聞こえてきたこと。
〈Sさんは、僕のお師匠さんですから〉とワタシが言うと、〈だったら、授業代を払え〉と、いつも笑いながら答えてくれたこと。
ワタシのこのブログにも、コメントをたくさん残してくれたこと。
◆
Sさんと知り合って以来(ということは、ほぼこの仕事に就いて以来)、デザインで壁にぶつかった時、〈Sさんなら、どうするだろう〉と考えるのが常だった。
もはやそれは、癖になっていると言ってもいい。そしておそらくこれからも、それが治ることはないだろう。
そんな時、決まってSさんが言っていたある言葉を思い出す。
もしかしたら、ワタシがSさんから最も多く聞かされた言葉かもしれない。
その言葉を最後に記して、この日記を終わりたいと思う。
〈デザインはね、何を使っても、何をやってもいいんだよ。でも、ひとつだけ絶対に守らなければいけないものがある。それはね、出来あがったものが、美しいこと〉
Sさん・・・酒井浩志さん、ありがとうございました。
今の会社に転職して半年が過ぎた頃。
ロクなデザインを作れなかったワタシを見かねた会社の先輩が、「ついて来い」と、その人の事務所へワタシを連れて行ってくれた。
事務所といっても、自宅の一室を改築したデザインルーム。
長大なモノトーンのデスク、その横にはエアブラシの道具一式。小さなライトテーブル。その上に無造作に置かれているカラーチャートや英文字の雑誌や古いレコードジャケット。
その奥には棚があって、なんのための道具なのかよく分からない銀色に光る機械がいくつも並んでいた。
1994年。
足音はすでに聞こえてはいたが、パソコンで自在にデザインをするような時代は、まだ地方のグラフィックデザイン業界には訪れてはいなかった。
「Sです」
その部屋の主は、ワタシにそう挨拶をしてくれた。
がっしりとした偉丈夫な身体つき。
低くて野太い声。
そして何よりも驚いたのが、髭を蓄えたその顔。
「勝新太郎の弟です」
と笑いながら自己紹介したその顔は、本当によく似ていた。
もちろん、なんら血の繋がりはない、赤の他人だったのだけど。
そんな全身から溢れる威圧感とは裏腹に、初対面の、しかもデザイナーとしてはまだまだ駆け出しのワタシに、Sさんは気さくに色々な話をしてくれた。
ワタシより10歳年上であること。
大阪芸術大学を首席で卒業したこと。
大阪のデザイン会社に数年勤めた後、フリーランスになったこと。
デザイナーやイラストレーターとしての仕事の傍ら、ジャズピアニストでもあること。
地元の企業やイベントのポスターから、福山ばら祭りなどのロゴマーク、地ビールのパッケージデザイン、洋服の青山のCM、来生たかお・岩城滉一・中村雅俊のアルバムジャケット・・・など、今まで手がけた仕事のこと。
クルマは古いBMWに乗っていること。
タバコはショートホープしか吸わないこと・・・etc.
オトナ、だった。
当時、まだ学生気分が抜け切っていなかったワタシにとって、それまでに出会った人の中で、群を抜いて〈オトナ〉の匂いを感じる人だった。
◆
以降、ワタシは時折りSさんの事務所に顔を出すようになった。
会社勤めで、しかも社内で1人だけの“デザイナーもどき”だったワタシにとって、Sさんは自分が持っていないモノを全て持っている〈先生〉のような存在だった。
しかし、事務所に長く居続けても、仕事やデザインの話はほぼ皆無。
なぜなら、事務所の中は所ジョージの〈世田谷ベース〉ばりにありとあらゆる〈男のおもちゃ〉が溢れていたからだ。
部屋の中に転がる腕時計やミリタリーグッズや用途不明な機械や小物を手にしながら、ワタシとSさんは生産性のない取るに足りない雑談の花を、仕事も時間も忘れてひたすら咲かせ続けた。
◆
それでも、たまには仕事の相談にも乗ってもらった。
ある時、どうやっても上手くいかない、自身が腑に落ちるモノが創れなかった時のこと。
Sさんの事務所に赴き、制作途上だったそのラフデザインを見てもらった。
「ダメだね」
ラフデザインを見るや否や、Sさんはそう言って一蹴し、そしてこう続けた。
「仕事を真面目にすることは、もちろん大事。でもね、りきるくん、その前に、もっと遊ばなきゃ」
安易に優しいアドバイスをもらおうとしていたワタシは、その言葉の意味すら分からなくて、ますます混乱してしまった。
◆
25年前。
ワタシが結婚した直後。
滅多に来社することがなかったSさんが、突然ワタシが勤める会社にやって来た。
「おー、おめでとう」
自分のデスクから受付カウンターへ顔を出したワタシの顔を眼にするや否や、Sさんはそう言って手にしていたシャンパンをワタシに手渡し、そして
「じゃあね」
と、笑顔で軽く手を上げると、瞬く間に会社を後にした。
◆
15年ほど前。
いよいよ、インターネットがメディアのメインストリームとなりはじめた頃。
全国のクリエイターから作品を募るサイトを見つけたワタシは、そのサイトを通じて自身の作品の発表をはじめた。
そのことをSさんに伝えたところ、興味を持ったSさんもそのサイトに参加することになり、全国のクリエイターに混じってそのサイトで作品の発表をはじめた。
それから数年後、そのサイト主催の共同個展を東京で開催することになり、ワタシとSさんも作品を出品し、開催期間中、ワタシも上京し会場へ訪れた。
原宿の小さなギャラリーは予想以上に盛況で、その中でもギャラリーの最奥に掲げてあった作品の前には、立ち止まって鑑賞する幾人もの人がいた。
Sさんの作品だった。
ワタシの作品も含めて、比較的分かりやすい、来場者に迎合的な作品が大半だった中で、Sさんの作品は明らかに異彩を放っていた。
入口のすぐ横に掲げてあったワタシの作品に立ち止まる人なんて、ほとんどいなかった。
勝負で言えば、完敗。コールドゲーム。
それでもワタシは、嬉しかった。
Sさんと初めて同じ土俵で勝負ができたことが、何よりも嬉しかった。
◆
数週間後。
個展の報告も兼ねて、ワタシはSさんと呑みに行った。
Sさんと初めての呑み。しかも、サシ呑み。
その時の詳細を話すのは無粋のような気がするので、ここでは話さない。
ひとつだけ言えば、Sさんと過ごしたあの時間は、ワタシの宝物だ。
自分が〈オトナ〉になったと実感した酒の席は、後にも先にも、Sさんと過ごした、あの時だけだ。
◆
ワタシは〈広告業界の人間〉としてSさんと繋がった人間なので、ジャズピアニストとしてのSさんとはあまり縁がなかった。
出会って間もない頃にあったイベントでのライブ。
尾道港にあった古い倉庫で開催されたライブ。
ホテルのディナーショーでのライブ。
・・・ワタシがジャズピアニストのSさんと接したのは、この3度のライブだけだった。
「ライブやるから、おいで」
Sさんからそう誘われて、近所のライブハウスへ出かけたのは、今から8年前。
狭いライブハウスは満席。そして、大盛況。
お酒片手にほろ酔いのジャズピアニスト・Sさんも上機嫌だった。
本編が終了し、アンコールを求められたSさんは、ピアノの弾き語りで歌いはじめた。
「You are so beautiful」
初めて聴くSさんのボーカル。
本家のジョー・コッカーに負けず劣らずの太く低く、そして暖かいその歌声に、不覚にも涙腺が緩んだ。
◆
Sさんが、入院した。
共通の知り合いからそう教えてもらったのは、6年前の夏だった。
仕事終わりの夜、お見舞いに行った。
病室の扉を開けると、そこにはワタシが知っている恰幅の良い偉丈夫なSさんはどこにもおらず、その代わりに、痩せてひとまわり小さくなったSさんが、ベッドの上にいた。
「いやぁ、けっこうな血を吐いてねぇ」
まるで天気の話でもするかのような口調で、Sさんはそう言った。
その後、いろんな話をしたはずなのだが、あまり憶えていない。
ワタシにとって無敵のような存在だったSさんの変わりようがあまりにもショックで、それ以外の事柄を記憶することができなかったのだろう。
「退院されたら、また事務所にお邪魔しますね」
そう言って、病室を出たこと以外は。
◆
3年前の冬。
ギャラリーのある小さな喫茶店。
Sさんが個展を開かれたと知ったので、久しぶりに陣中見舞いも兼ねて顔を出した。
壁に架け掛けられた、Sさんしか描けない作品たち。
誤解を恐れずに言えば、決して万人に理解はしてもらえそうにない。
だが、なんなのだろう。この五感を強烈に惹きつけられる不思議な引力は。
Sさんは、元気そうだった。
血色も良さそうだったし、体格も少しだけ元に戻ったように見えた。
お酒はやめた、とSさんは言った。
淡々と、少し寂しそうに。ショートホープではなく、電子タバコを燻らせながら。
「まぁ、りきるくん、何とかなるもんよ」
そう言ったSさんの背後に、Sさんが描いた一幅の絵が掲げてあった。
暗闇の中で、仄かに灯るランプ。
弱々しくも暖かく灯る、漆黒の中の、古いランプ。
◆
今年。
6月中旬の日曜日。
ワタシは久しぶりにSさんの自宅兼事務所へお伺いした。
事前に約束した時刻に到着したら、一緒に暮らしておられる家人の方が迎えてくださった。
Sさんとワタシがいつも座って談笑していた、リビングの広く長いモノトーンのテーブル。
その横に、真新しい祭壇。
その上に、小さな箱になったSさんがいた。
〈お、いらっしゃい〉と、今にもワタシに話かけそうな優しい横顔の遺影とともに。
◆
その前の週、とある知人から連絡が突然届いた。
〈Sさんが亡くなった〉
ご家族やごく親しい友人や音楽仲間に見守られて、Sさんは静かに旅立たれたのだった。
亡くなられてまだ間もないというのに、家人の方は気丈に振る舞わってくださり、時に笑顔まで見せてくださった。
ワタシはアホなので、それにつられて何も考えずに、家人の方が知らなさそうなSさんとの面白話を能天気に話してしまった。
でも、亡くなる数日前に、気力と体力を振り絞って、病院のロビーで音楽仲間と最期のジャズライブを開催した話や、病室に大好きなジャズが流れる中で、静かに旅立ったという話を家人の方が話された時には、さすがに息ができないほど胸が熱くなり涙腺が緩んでしまった。
最後の最後の最後まで、SさんはSさんの人生を生ききったのだ。
帰り際、家人の方が、とあるものをワタシに譲ってくださった。
それは、個展の時に制作した招待状と、手帳カバーだった。
見憶えのある手帳カバーだった。
Sさんがスケジュール管理をしていた手帳に使っていたような記憶がある。
本革の、使えば使うほど味わい深くなってゆく、そんな〈オトナの男〉が使うべき手帳カバーだ。
◆
結婚祝いにシャンパンをもらった数日後、当時地元のコミュニティFMでSさんが持っていた音楽番組をクルマを走らせながら聞いていたら、放送開始の開口一番で〈りきるくん、結婚おめでとう〉と流れてきて、驚きのあまりに事故りそうになったこと。
SNSでSさんが〈昔、ジェームス・ブラウンそっくりの駄菓子屋のおばちゃんがいた〉という投稿をしていたので、〈僕のおばあちゃんはボ・ディドリーにそっくりでした〉と写真付きでコメントしたら、真夜中に携帯電話が鳴り、出てみると電話の向こうから〈おい、ボ・ディドリーはないだろう〜〜!〉と、ちょっと酔っ払った泣き笑いのような、本当に楽しそうなSさんの声が聞こえてきたこと。
〈Sさんは、僕のお師匠さんですから〉とワタシが言うと、〈だったら、授業代を払え〉と、いつも笑いながら答えてくれたこと。
ワタシのこのブログにも、コメントをたくさん残してくれたこと。
◆
Sさんと知り合って以来(ということは、ほぼこの仕事に就いて以来)、デザインで壁にぶつかった時、〈Sさんなら、どうするだろう〉と考えるのが常だった。
もはやそれは、癖になっていると言ってもいい。そしておそらくこれからも、それが治ることはないだろう。
そんな時、決まってSさんが言っていたある言葉を思い出す。
もしかしたら、ワタシがSさんから最も多く聞かされた言葉かもしれない。
その言葉を最後に記して、この日記を終わりたいと思う。
〈デザインはね、何を使っても、何をやってもいいんだよ。でも、ひとつだけ絶対に守らなければいけないものがある。それはね、出来あがったものが、美しいこと〉
Sさん・・・酒井浩志さん、ありがとうございました。
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