rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

ようこそ、ニホンミツバチ

2013-03-28 16:26:35 | 生き物たち
庭先の桜が、今日の暖かさで満開に近くなっている。
家人が、ハチの羽音がうるさいほど聞こえてくると言う。
どうやら、桜のほうからしているようだ。
二人で近寄って見上げると、桜の花に小ぶりなハチたちがわんわんと集っているのが見える。
スリムなその姿は、紛れもなくニホンミツバチ。
後ろ足には、黄色い花粉団子をたくさんつけ、なおも花粉集めに忙しい。
この光景は、本来あるべき理想の姿として、見守る我々に明るい希望を抱かせた。
豊かな自然の恵みをもたらす命のサイクルが、確かにそこにあるからだ。
在るべきものが、きちんと在る。
それは未来をつなぐ、とても大切なこと。

存在の重みは、失われそうになって、あるいは失ってはじめて気がつくことが多い。
昨日、我が家のねこが、朝ごはんをねだりに来なかった。
これは平常時において初めての出来事。
11歳になる、前日まで元気そのものと見えていたとしても、もう若くはないねこの姿が見えないことは、よからぬことを思い起こさせる。
家族みんなでねこを探しても、どこにも見当たらないし出てこなかった。
暗い気持ちで外出したが、ねこがいたのと知らせを受け取って一安心する。
どうやらねこは、寒さを避けて倉庫の奥にあるボロの詰まったダンボールの中にとっぽりとはいって熟睡していたらしい。
ねこだから、人の呼び声を聞いても、まだ起きたくはないとスルーしたのだろう。
ともあれ、いつもいて当たり前のねこの姿がないことに、こんなにも不安になるのは、その存在が私たち家族にとって重いからだ。

比べることはナンセンスでも、より広義において存在意義の大きいミツバチがきちんと生存活動をおこなっていることは、生態系にとって欠くべからざること。
ニホンミツバチが、何百匹となく花粉を集めているのを見て、深く安心したのであった。



ワイエスの水彩画、オルソン家をめぐって

2013-03-28 12:25:12 | アート
昨日、『アンドリュー・ワイエス 水彩と素描展』を観てきた。
ワイエスの代表作『クリスティーナの世界』を生む土壌となったオルソン家をモチーフに描いた、水彩と素描の数々が展示されていた。
ワイエス22歳ごろから60歳ごろまでの約40年間に渡り描き続けた軌跡が、そこにはあった。
ワイエスの画業の痕跡が、しっかりと刻み込まれているのを、鑑賞者は辿ることができる。
それらの水彩画とデッサンにより集結したイメージの結晶を同時に展示できると最も良かったのだが、それらを知っていたならば、この展覧会の内容はより濃いものになるはずだ。

ワイエスの、飽くなきイメージの収斂は、画家の分水嶺を思わせる。
ともすると、手馴れたイラストに陥りそうな一歩手前は、ほんの微細なことであり、実は深い溝、一枚の壁である。
ワイエスは、そこのぎりぎりのところで絵を描いたのではないかと、数々の水彩とデッサンを観ていると考えさせられた。
そして、イラストとタブローの境界は、特に現代において非常に曖昧なものになっていることもあり、絵を描く本人すら迷うことも多い。
実際、イラストとタブローのどちらが格上とか、それはナンセンスといえるだろうが、自分の立脚点を定かにしたいというのは人の自然な心理ではあるまいか。

この日は、小雨降る肌寒い日であったが、湖のほとりに立ち並ぶ桜がそぼぬれてもその美しさを損なうことはなかった。
ワイエスの絵の放つ精錬された美もまた、桜に劣らず美しかったといえるだろう。





海からの風


クリスティーナの世界