rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

威力抜群の布団

2014-04-24 23:22:53 | 日記
花粉の影響から抜け出たようなので、2ヶ月ぶりに布団を干した。
なぜならば、一昨日あたりからマスクをはずし花粉の脅威を測ってみたところ、もう大丈夫だと見極めたからだ。
ベランダを丁寧に掃除して、カバー類をはずして布団を干す。
湿気を大量に含んだ布団はじっとりと重く、2度ほど日光に当たる面を均等にしようと裏返したり手間をかける。
その成果は時間が経過するごとにあらわれるので、最低1回布団を裏返さないと気が済まないから。
6時間干した布団は、見違えるように軽くなり、空気の含有率もぐんと跳ね上がった。
これで今夜に思う存分快適な眠りを約束されたはず。
就寝第一弾の小さい人は、抵抗するまもなく眠りの国へ旅立つ。
明日も布団が干せれば、布団は無敵になるだろう。
花粉が収束して、晴天とあらば、また私の飽くなき挑戦が始まる。
”布団干し”結構な中毒性を持った行動である。


線描の狂気、ホルスト・ヤンセン

2014-04-22 23:16:30 | アート

Horst Janssen Blumen Seifert-Binder


Horst Janssen, "Erostod"

20世紀現代ドイツ絵画、なかでも突出した線描の持ち主であるホルスト・ヤンセンは、ひときわ異彩を放っている。
葛飾北斎に多大なる影響を受けたそうで、それは版画や素描の構図やモチーフのいたるところに垣間見える。
デューラーより連面とながれる変質狂的な線の密度も受け継ぎながら、日本的な”間””余白”と融合し見事に調和させ、独自の世界を築く。
高密度な線がありながらもくどくなりすぎないこのバランス感覚を支える卓抜した彼の技術の右に出る者を、浅学な私は他に知らない。
ヤンセンと同じような時代に活躍する、小説家でもあるギュンター・グラスに似たような印象を持つけれど、グラスはよりデューラーに近い位置にあると思われる。
ヤンセンの繊細で密な線が紡ぎだす、グロテスクに歪む静寂なる狂気は、観る者の内面に鋭く浸透してくるのだ。
いつも傍らに置いておくにはつらい感じがあるけれど、時折りこっそり覗きたくなる中毒性がある。
それは、普段意識しないか黙殺している誰しもが持つほの暗い狂気にジャックインし暴き出すからだろう。
ヤンセンは、醜悪奇怪な人の本性を、狂気の線描を駆使しきわどい美しさで描き出す芸術家なのだ。

疲労困憊の断捨離第二弾

2014-04-21 23:57:01 | 日記
断捨離に挑んでいる。
さしあたって季節柄、衣類。
もともと物を捨てることに抵抗並々ならぬ自分は、使えそうなものは何でもとって置く。
そうなれば物は増える一方で、収納場所は飽和状態。
捨てられないから必要な物以外は極力購入しないのだが、大量に集まったお下がりの子供服が行き場を失ってひしめいている。
我が家で3代目とかになるお下がりは、さすがに他に回すには気が引け捨てるには忍びなく、衣装ケースにきちんと畳んで仕舞われたままだ。
今日は、思い切ってその子供服の断捨離を決行することにした。
袖口が緩んでいたり、シミのあるもの色がさめたものなど、自分にしては容赦なく廃棄する袋に押し込んでいく。
大きなゴミ袋に3つ分できた。
昨年末もやはり4袋くらい処分したのだが、子供たちが成長したぶん衣類の嵩が上がるので、それでも収納ケースが空になった物は存在できない。
子供たちの自分の好みがはっきりした今となっては、いまだちらほらやってくるお下がりは出番がなく、おそらく遠くないうちにリサイクルショップ行きとなるだろう。
物が豊富な時代、気に入らなくとも妥協して着る気持ちがわくはずもない。
唯一の救いは、ただ捨てるだけではなく、リサイクル品が一般に受け入れられ普及したことか。
しかし、物を用不要に選別することは実に疲れる。
それも仕方がない、断捨離とは物の生殺与奪をしているのだから。





数年後、同じ公園で

2014-04-20 22:59:20 | 日記

桜色 20/4/2014


萌え出す若葉 20/4/2014

何年ぶりかで、子供たちを伴ってある公園に行った。
その公園は、子供たちが幼いころしばしば遊びに連れて行った思い出の場所でもある。
あいにくの曇天で肌寒かったけれど、新芽が芽吹き始めたばかりの木々と山桜が、公園を柔らかく染めている。
成長した子供たちは、勾配のある公園の道を難なく登り、ずんずんと先に進んで行く。
一方老いが忍び寄る自分は、息を切らしながら後を追うのだ。
まだ子供っぽさが残る小さい人は、ローラー滑り台を楽しんで、かつての面影を見守る私に贈ってくれた。
そして仕上げは、新緑をバックに撮る写真。
これは私にとってのかけがえのない宝物になるだろう。




初物たけのこ、旬のもの

2014-04-19 23:09:36 | 食べ物たち
親戚から糠で茹でした下ごしらえ済みの筍をもらった。
初物である筍は、丸々と太って大きくしかもやわらかい。
前日に鶏肉の混ぜご飯を作っていたから、筍ご飯はありえなく、筍の美味しさをシンプルに味わうために、醤油とみりん砂糖の味付けで厚揚げと煮ることに落ち着いた。
素朴なこの煮物は、家族になかなかの好評で、瞬く間に食べつくされた。
筍のように旬が一瞬のようなものは、集中して貰うため、毎日筍が食卓に上ったりする。
だから、食べるときは一年の食べおさめと考え、心してかかる。
栽培や保管保存技術が発達し、通年ほとんどの野菜を食べることができるので、本当の旬を知り味わうことが難しい。
「今が旬のイチゴ」の言葉をテレビなどで聞くことがあるが、それが3月だったりするので妙な気分だ。
自然に任せれば5~6月などの初夏がイチゴの旬で、それ以外はハウスで温度管理をして栽培するから本来の意味とは違い、それを旬と言っていいものかどうか疑問に思う。
その点筍は、字面にして旬の文字があるように、明確に旬の時期がわかりやすい。
いまさら当世風旬にケチをつけても仕方がないけれど、そこのところいい加減にしたくはない昔人の私。
なぜなら、本当の旬のものは香りよし味よし栄養ありの三拍子揃い、一般的野菜なら価格も安いときてしまう。
季節を感じ、自然のサイクルに思いをはせながら食することは、真の豊かさではないだろうか。