コッペリア・30
休憩室に入ると、特大の蓑虫がいた。
蓑虫が寝返りをうつと、人間の声で、こう言った。
「ああ、幽体離脱……あたしも、おしまいだ」
「やっぱし……」
栞は、自分が蓑虫と同じ姿かたちになっていることを自覚した。蓑虫は、さっきまで審査員をやっていた矢頭萌絵だ。
どうやら、AKPの総監督として頑張りすぎた無理が出たようである。
栞は颯太が顔を描くときにオシメンの萌絵を頭に浮かべたものだから、ふとした時に萌絵そっくりになってしまう。
今くたびれて毛布にくるまれ起き上がることもままならない本人を目の前にして、完全に萌絵とシンクロしてしまったから、同時に萌絵が今置かれている状況も分かった。
本人が悲観するほど重篤ではないけれど、完全な蓄積疲労で体が動かない。
このままでは救急車を呼ばれ、仕事に穴を開けて、芸能記者に今日一番のニュースを提供することになる。
元気印の萌絵はひっくり返ってなどはいられない。
「大丈夫、あたしは、あなたの分身だから、代わりに仕事は片づけておく。今は、ゆっくりお休みなさい」
「ありがとう、あたし……」
そう言うと、萌絵はスーッと眠りにおちてしまった。
栞は簡易ベッドごと萌絵を休憩室の奥へやって目立たないように、元の蓑虫にしてやった。
「ごめん、ちょっと急用。咲月、自分で帰れるよね」
栞はいったん自分の姿に戻ると、咲月を先に帰し、再び萌絵になって、オーディションの選考会議に向かった。
「大丈夫か萌絵?」
さすがはAKPの大仏康ディレクター、萌絵の不調は感じていたようだった。
「ああ、大丈夫です。ちょっと居眠りしたら、この通り!」
栞の萌絵は、ジャンプしながらスピンし『恋するフォーチュンキャンディー』の決めポーズをとった。
「はは、いつもより一回転多いな。じゃ、選考に入ろうか」
萌絵の姿になるまでは、なんとしてでも咲月を合格させてやりたかったが、萌絵になってしまうと、公明正大に決めなければならないと思う。我ながら完璧な変身ぶりである。
「……よし、この三十人に絞って、あとはオレに任せてくれ。最終決定は萌絵が仕事終わってから確認。萌絵、今日のスケジュールは?」
「えーと、関東テレビの収録、戻って新曲の振り付けのレッスン。あとは空きです」
栞は分かっていたが、マネージャーに言わせた。萌絵がそれぞれの職分を全うしてこそのAKPであると考えていること、が直観で分かったからだ。
関東テレビの仕事はピンだった。
年内に卒業を予定している萌絵なので、ディレクターの大仏も萌絵にはピンの仕事を増やさせている。
「萌絵ちゃん、ごめん、ゲストの都合で、今日は二本撮りね」
本当は制作予算の都合だということは分かっていた。
テレビはネットや録画の機能が発達して、なかなか数字がとれなくて苦労している。でも、そんなことは現場では誰も言わない。言えば、もっと悪くなりそうな気がするからだ。
でも、『体育部テレビ』の二本撮りはきつかった。ハンデ付とは言え、第一線のアスリートと指しで100メートル走の勝負。
ストレッチを兼ねたリハを含めて、計400を走る。
この種の番組は、二線級の芸人さんの仕事と決まっていたが、アイドルを入れると数字が上がる。芸人さんたちの普段の苦労をよく知っているので、萌絵は進んで、このような仕事を引き受けている。
――今日の萌絵ちゃんじゃ、きつかっただろうなあ――
そう思いながら事務所へ戻る。
新曲の振り付けのレッスンに丸々二時間。サッサと仕上げて大仏康と研究生の選考に入れたのは夜中の九時を回っていた。
「これでどうだろう、二十人ピッタリにおさめた」
大仏から渡されたリストの中には咲月の名前も入っていた。
「この水分咲月さん入れたのは……ちょっと研究生としては歳いってますけど」
「うん、誕生日が、うちのオープンと同じ四月八日だから」
「アハハハ」
「なんか、おかしい?」
「あたしも同じこと考えてました!」
最後の最後の決定は、こんなものである。一見いい加減なようであるが、案外いい選択である場合が多い。
「血色がよくなった、これならだいじょうぶね……」
ささやくように言うと、本物の萌絵はゆっくりと目を覚ました。
「あ、あたし……」
「そう、今日の萌絵は頑張ったわ。分身のあたしが言うんだから確かよ。今日あたしがこなしたことは、ちゃんと萌絵の記憶と体験になってるから」
「あたしたち……」
「一心同体、また萌絵がピンチになったら、いつでも来るから」
そう言って休憩室を出て、全速力で走ってアパートに戻った。
「こんな時間まで何してたんだ、ずいぶん心配したんだからな!」
颯太が始めて見せる真剣な眼差しに、栞は胸がチクリと痛んだ……。