善峰寺を出て、バス停終点から200m余り下った左手に、三鈷寺(さんこじ)
への道標があった。それに従い善峰寺同様、杉木立の下を標高差70~80m
くらい上がって三鈷寺に入る。
三鈷寺は、平安中期の承保元年(1074)、善峰寺の開基と同じく叡山の源算
上人が草庵を建てたのが起こりとか。その後、三代目から譲られた西山上人
証空が念仏の道場として発展させ、多くの寺領荘園を持って栄えたが、応仁の
乱の兵火で興廃したままとなり、近年になって昭和52年(1977)に、西山宗
本山として独立したという。
寺は東南に伸びる稜線上にあり、京都市街など東から北にかけての展望が
よく、中でも東山に上がる名月の眺めは関西随一といわれるようだが、やはり
冷たい雨にさえぎられて遠望は利かなかった。
雨を避けて客殿の縁で昼食をさせてもらう。善峰寺には何組ものグループが
来ていたが、われわれのほか、この寺を訪れたのは3組だけだった。
稜線を下る土道もあるが、雨で滑る危険があるのでバス道を下ることにした。
「よしみねの里」と呼ぶ竹の子や漬け物の販売店を過ぎて小塩の集落に入る。
次の目的地、十輪寺(じゅうりんじ)は、小塩バス停のそばにあった。
十輪寺は、嘉祥3年(850)、文徳天皇の御后(おきさき)染殿皇后が、安産
祈願のため創建したという。以後、勅願所として栄えたが、ここも応仁の乱に
より消失し、江戸時代の寛文年間(1661~73)に藤原氏により復興整備され
たとのこと。
受付のある庫裡(くり)と本堂とを結ぶ二つの回廊を挟んだ、三方普感(さん
ぽうふかん)の庭と呼ぶ小庭園があり、満開のしだれ桜が雨に濡れていた。
現在の本堂は寛延3年(1750)の再建で、御輿をかたどった鳳輦型(ほう
れんがた)というという屋根が珍しい。内部天井の彫刻も独特の衣装が施され
ているという。
背後の竹林に上がると、平安時代の歌人、在原業平(ありわらなりひら)が
晩年に隠棲して、塩焼きの風流を楽しんだと伝えられる塩竃(しおがま)跡に、
竈が復元されていた。業平の墓と伝わる小さな宝篋印塔もあり、業平にちなみ、
寺は「なりひら寺」とも呼ばれている。
雨が一層降りしきり、気温も下がって吐く息が白い。道沿いに咲く満開の桜も
冷たそう。
寺の東側から竹やぶを上がって下り、最近開校したらしい京都女子学園の
西側を回って石作町を通過する。この辺り一帯の山は竹林が多く、タケノコの
産地である。
大原野集落の南西にある池のそばに正法寺(しょうぼうじ)があった。鑑真
和上とともに唐から来朝した智威大徳の修禅の地で、元禄年間(1688~
1703)、桂昌院の帰依を受け、代々徳川家の祈願所となったという。
幾つもの桜が咲き競っていたが、先を急いで拝観はせずに通過する。
少しの林を抜けると大原野神社に出る。
大原野神社の祭神は奈良の春日神社と同じ。当初は、桓武天皇の皇后、藤原
乙牟漏(おとむろ)の意により藤原氏の氏神として長岡京に勧請されたが、嘉祥
3年(850)京都の守護神としてこの地に祭られたとのこと。
現在の春日造り総檜皮葺の本殿は、慶安年間(1648~52)に、再建された
ものという。
境内にある「鯉沢の池」は、文徳天皇が奈良の猿沢の池を模して造ったもの
とか。ほかに、清和天皇産湯の清水とも伝えられ、紀貫之や大伴家持など多く
の歌人に歌われた「瀬和井(せがい)の清水」と呼ぶ名水、樹齢450年という
モミの大木などがあった。
境内から西に、薄暗くなった林を抜けて、花の寺と呼ばれる勝持寺(しょうじじ)
の山門をくぐる。
勝持寺は、白鳳8年(680)、天武天皇の勅により神変大菩薩役行者が創建
した古寺。応仁の兵火で仁王門を除きすべて消失し、現在の建物はその後の
再建という。
まず拝観入口から本堂にあたる阿弥陀堂に上がる。隣接する瑠璃光殿は
照明が明るく、重文の本尊・薬師如来像のほか、力強い彫りの重文・金剛力士
像や、日光・月光菩薩像、十二神将像、西行法師蔵、醍醐天皇勅額などを拝観
した。
境内には約100本の桜がある。花の寺と呼ぶもととなったのが、当寺で出家
した西行法師が植えたという西行桜だが、まだ開花前だった。しかし数の多い
ソメイヨシノやしだれ桜は見ごろである。しかし吐く息が白くなる冷雨で薄暗く
なり、きれいな彩りとはいえないのが残念だった。
もみじも同じくらいの数があり、11月中旬には紅葉に彩られるという。
16時24分に寺を出て、大原野神社前を通過、南春日町バス停終点に行く。
16時50分発で東向日駅に戻り、阪急電車で宿泊地の大宮に向かった。
(歩行距離 7㎞、地図(1/2万5千) 京都西南部、歩行地 京都市西京区)
への道標があった。それに従い善峰寺同様、杉木立の下を標高差70~80m
くらい上がって三鈷寺に入る。
三鈷寺は、平安中期の承保元年(1074)、善峰寺の開基と同じく叡山の源算
上人が草庵を建てたのが起こりとか。その後、三代目から譲られた西山上人
証空が念仏の道場として発展させ、多くの寺領荘園を持って栄えたが、応仁の
乱の兵火で興廃したままとなり、近年になって昭和52年(1977)に、西山宗
本山として独立したという。
寺は東南に伸びる稜線上にあり、京都市街など東から北にかけての展望が
よく、中でも東山に上がる名月の眺めは関西随一といわれるようだが、やはり
冷たい雨にさえぎられて遠望は利かなかった。
雨を避けて客殿の縁で昼食をさせてもらう。善峰寺には何組ものグループが
来ていたが、われわれのほか、この寺を訪れたのは3組だけだった。
稜線を下る土道もあるが、雨で滑る危険があるのでバス道を下ることにした。
「よしみねの里」と呼ぶ竹の子や漬け物の販売店を過ぎて小塩の集落に入る。
次の目的地、十輪寺(じゅうりんじ)は、小塩バス停のそばにあった。
十輪寺は、嘉祥3年(850)、文徳天皇の御后(おきさき)染殿皇后が、安産
祈願のため創建したという。以後、勅願所として栄えたが、ここも応仁の乱に
より消失し、江戸時代の寛文年間(1661~73)に藤原氏により復興整備され
たとのこと。
受付のある庫裡(くり)と本堂とを結ぶ二つの回廊を挟んだ、三方普感(さん
ぽうふかん)の庭と呼ぶ小庭園があり、満開のしだれ桜が雨に濡れていた。
現在の本堂は寛延3年(1750)の再建で、御輿をかたどった鳳輦型(ほう
れんがた)というという屋根が珍しい。内部天井の彫刻も独特の衣装が施され
ているという。
背後の竹林に上がると、平安時代の歌人、在原業平(ありわらなりひら)が
晩年に隠棲して、塩焼きの風流を楽しんだと伝えられる塩竃(しおがま)跡に、
竈が復元されていた。業平の墓と伝わる小さな宝篋印塔もあり、業平にちなみ、
寺は「なりひら寺」とも呼ばれている。
雨が一層降りしきり、気温も下がって吐く息が白い。道沿いに咲く満開の桜も
冷たそう。
寺の東側から竹やぶを上がって下り、最近開校したらしい京都女子学園の
西側を回って石作町を通過する。この辺り一帯の山は竹林が多く、タケノコの
産地である。
大原野集落の南西にある池のそばに正法寺(しょうぼうじ)があった。鑑真
和上とともに唐から来朝した智威大徳の修禅の地で、元禄年間(1688~
1703)、桂昌院の帰依を受け、代々徳川家の祈願所となったという。
幾つもの桜が咲き競っていたが、先を急いで拝観はせずに通過する。
少しの林を抜けると大原野神社に出る。
大原野神社の祭神は奈良の春日神社と同じ。当初は、桓武天皇の皇后、藤原
乙牟漏(おとむろ)の意により藤原氏の氏神として長岡京に勧請されたが、嘉祥
3年(850)京都の守護神としてこの地に祭られたとのこと。
現在の春日造り総檜皮葺の本殿は、慶安年間(1648~52)に、再建された
ものという。
境内にある「鯉沢の池」は、文徳天皇が奈良の猿沢の池を模して造ったもの
とか。ほかに、清和天皇産湯の清水とも伝えられ、紀貫之や大伴家持など多く
の歌人に歌われた「瀬和井(せがい)の清水」と呼ぶ名水、樹齢450年という
モミの大木などがあった。
境内から西に、薄暗くなった林を抜けて、花の寺と呼ばれる勝持寺(しょうじじ)
の山門をくぐる。
勝持寺は、白鳳8年(680)、天武天皇の勅により神変大菩薩役行者が創建
した古寺。応仁の兵火で仁王門を除きすべて消失し、現在の建物はその後の
再建という。
まず拝観入口から本堂にあたる阿弥陀堂に上がる。隣接する瑠璃光殿は
照明が明るく、重文の本尊・薬師如来像のほか、力強い彫りの重文・金剛力士
像や、日光・月光菩薩像、十二神将像、西行法師蔵、醍醐天皇勅額などを拝観
した。
境内には約100本の桜がある。花の寺と呼ぶもととなったのが、当寺で出家
した西行法師が植えたという西行桜だが、まだ開花前だった。しかし数の多い
ソメイヨシノやしだれ桜は見ごろである。しかし吐く息が白くなる冷雨で薄暗く
なり、きれいな彩りとはいえないのが残念だった。
もみじも同じくらいの数があり、11月中旬には紅葉に彩られるという。
16時24分に寺を出て、大原野神社前を通過、南春日町バス停終点に行く。
16時50分発で東向日駅に戻り、阪急電車で宿泊地の大宮に向かった。
(歩行距離 7㎞、地図(1/2万5千) 京都西南部、歩行地 京都市西京区)