2007年10月11日(木) 第2日
=草津から高宮まで=
ホテル近江守山での朝食を済ませ、JR守山駅から
上り電車で草津駅まで戻り、8時15分に霧雨模様の
草津駅前をスタートした。今日の参加者は18人である。
いつも背中のゼッケンに、ユニークなメッセージを記
されるWさん。
今回は、コース前半の旧国名を盛りこんだメッセージ。
今日のコースは、滋賀県内をほぼ北東に向けて、平
地歩きが中心だが距離は長い。日暮れまでに高宮宿
到着を目指し、スタートから早いペースで進みそう。
草津宿を抜けて隣の栗東(りっとう)市に入る「綣(へ
そ)」という珍しい地名のところを通過する。
それにしても、古い家並みの残る街道筋も、電線や
電柱が景観を大きく損ねているのが残念だ。
一角に大宝神社もある大宝公園には、元禄3年
(1690)、この地に足を留めた芭蕉の、「へそむらの
まだ麦青し春のくれ」という句碑があった。
江戸日本橋から草津宿まで、中山道に129か所あ
った一里塚の128番目に当たるという今宿一里塚に
は、先代の脇芽が成長して太くなったエノキが、大き
く枝を広げていた。
古い家並みの残る守山宿へ。右カーブ点にある東門
院はりっぱな本堂。緑豊富な境内の一角に太いイチョ
ウが立ち、下にびっしりとギンナンが落ちていた。
そばの石造の五重塔は、鎌倉時代の造立と考えられ
たとのことで、滋賀県重要文化財である。
山門を入ったところには、しめ縄を付けた大きな石
造のカエルがいる。
守山宿を東に抜け、野洲川橋を渡って野洲(やす)市
に入る。橋から見える西側の低い山の上部は、雨雲に
隠されていた。
かやぶき屋根の唯心寺や、鎌倉時代のものという背
くらべ地蔵(上の写真)の先で、左に朝鮮通信史ゆかり
の朝鮮人街道を分ける。
東海道新幹線のガードの手前と先に、造り酒屋など、
かやぶき屋根の家が残っていた。
家並みが途切れたあたりには、滋賀県下でただ1軒
という、本藍(あい)染めを伝承している森義男氏宅がある。
中山道が東海道新幹線に接した南側は、6世紀中頃
の円墳という甲山(かぶとやま)古墳。一帯は桜生(さく
らば)史跡公園になっていて、そばの二つの古墳も紹介
するガイダンス施設があり、トイレ休憩を兼ねて参観
した。
1㎞足らずで、天井(てんじょう)川である家棟川の下
を抜けるはずだったが、川の堤防は崩され、道路の拡
張工事中。流れは無くなったらしい。
すぐ先で国道8号に入ると、車の交通量が急に増え
てきた。
国道の南に500m近く続く、西池の堤防に沿って進
む。雄略天皇の時代(413年ころ)、近江の国に作ら
せた48の池で最大のものというが、のぞく暇はない。
さらに1㎞余り、南側の林のすそを200mほど入る
と、平家最後の最高責任者、平宗盛終焉(しゆうえん)
の地。
そばの案内板によれば、平家が滅亡した地は壇ノ浦
ではなく、ここ野洲市で、宗盛父子は源義経にここで
切られたのだという。
少し先には「義経元服の池」の石碑があり、道を挟
んで、新しい「道の駅龍王かがみの里」が出来ていた。
レストランや農産品販売所などがあり、ここで昼食
とする。 (続く)
=草津から高宮まで=
ホテル近江守山での朝食を済ませ、JR守山駅から
上り電車で草津駅まで戻り、8時15分に霧雨模様の
草津駅前をスタートした。今日の参加者は18人である。
いつも背中のゼッケンに、ユニークなメッセージを記
されるWさん。
今回は、コース前半の旧国名を盛りこんだメッセージ。
今日のコースは、滋賀県内をほぼ北東に向けて、平
地歩きが中心だが距離は長い。日暮れまでに高宮宿
到着を目指し、スタートから早いペースで進みそう。
草津宿を抜けて隣の栗東(りっとう)市に入る「綣(へ
そ)」という珍しい地名のところを通過する。
それにしても、古い家並みの残る街道筋も、電線や
電柱が景観を大きく損ねているのが残念だ。
一角に大宝神社もある大宝公園には、元禄3年
(1690)、この地に足を留めた芭蕉の、「へそむらの
まだ麦青し春のくれ」という句碑があった。
江戸日本橋から草津宿まで、中山道に129か所あ
った一里塚の128番目に当たるという今宿一里塚に
は、先代の脇芽が成長して太くなったエノキが、大き
く枝を広げていた。
古い家並みの残る守山宿へ。右カーブ点にある東門
院はりっぱな本堂。緑豊富な境内の一角に太いイチョ
ウが立ち、下にびっしりとギンナンが落ちていた。
そばの石造の五重塔は、鎌倉時代の造立と考えられ
たとのことで、滋賀県重要文化財である。
山門を入ったところには、しめ縄を付けた大きな石
造のカエルがいる。
守山宿を東に抜け、野洲川橋を渡って野洲(やす)市
に入る。橋から見える西側の低い山の上部は、雨雲に
隠されていた。
かやぶき屋根の唯心寺や、鎌倉時代のものという背
くらべ地蔵(上の写真)の先で、左に朝鮮通信史ゆかり
の朝鮮人街道を分ける。
東海道新幹線のガードの手前と先に、造り酒屋など、
かやぶき屋根の家が残っていた。
家並みが途切れたあたりには、滋賀県下でただ1軒
という、本藍(あい)染めを伝承している森義男氏宅がある。
中山道が東海道新幹線に接した南側は、6世紀中頃
の円墳という甲山(かぶとやま)古墳。一帯は桜生(さく
らば)史跡公園になっていて、そばの二つの古墳も紹介
するガイダンス施設があり、トイレ休憩を兼ねて参観
した。
1㎞足らずで、天井(てんじょう)川である家棟川の下
を抜けるはずだったが、川の堤防は崩され、道路の拡
張工事中。流れは無くなったらしい。
すぐ先で国道8号に入ると、車の交通量が急に増え
てきた。
国道の南に500m近く続く、西池の堤防に沿って進
む。雄略天皇の時代(413年ころ)、近江の国に作ら
せた48の池で最大のものというが、のぞく暇はない。
さらに1㎞余り、南側の林のすそを200mほど入る
と、平家最後の最高責任者、平宗盛終焉(しゆうえん)
の地。
そばの案内板によれば、平家が滅亡した地は壇ノ浦
ではなく、ここ野洲市で、宗盛父子は源義経にここで
切られたのだという。
少し先には「義経元服の池」の石碑があり、道を挟
んで、新しい「道の駅龍王かがみの里」が出来ていた。
レストランや農産品販売所などがあり、ここで昼食
とする。 (続く)