2019年1月14日(祝・月)
毎年、新春2日に七福神巡りをしていたが、今年は用事で行けなかった。そこで好天の
予報の今日、「湘南ひらつか七福神めぐり」に出かけることにした。
自宅から2間10分、途中横浜駅での乗り換え1回で9時47分にJR東海道線平塚駅
に着く。
駅構内に観光協会がないか探したが見つからず、駅の改札で聞いて少し離れた市民セン
ターにあると分かる。10時ちょうどに平塚駅北口を出た。
駅前から西に延びる紅谷(べにや)パールロード商店街を少し進み、北側の広い通りに
回ったら市民センターの看板が見えた。
その建物の手前に、「東海道五十三次 平塚宿の江戸見附跡」の説明板とわずかな石垣
が残っていた。この通りは旧東海道のよう。
平塚宿の見附は2か所あり、江戸側の入口が江戸見附で、京側にあるのを上方(かみが
た)見附と呼んだとか。平塚宿はこの間の東西約1.5㎞に、江戸時代を通して200軒
を超える町並みが続いたという。
そばの市民センターに入るが、今日は休館日。守衛さんに聞くと観光協会は閉鎖したと
のこと。七福神めぐりのマップがないかと話したら、「湘南ひらつか観光マップ」がある
というのでもらった。
用意してきた簡単な七福神めぐりの地図と見比べ、西南西側近くの平塚1丁目にある妙
安寺に向かう。
同じ通りの少し先に、枝を広げたクスノキなどの立つ緑地があり、「平塚小学校蹟の樟
樹」の説明板立っていた。
それによれば「ここは、明治13(1880)年に崇善館を移設して平塚小学校とした
旧地で、明治28(1895)年に校庭の一隅にクスノキの種をまき、その種子を明治
27~28年の日清戦争講話記念に県知事が県下各学校へ配布した」ことなどが記されて
いた。
背後には、その崇善館らしい和洋折衷風の建物↑がある。
県道61号を跨道橋で超えて南西側の通りに回り、最初の七福神、大黒天の妙安寺(み
ょうあんじ)へ。
創建は1624年頃で、徳川家康の側室の養珠院お万の方の奥女中だった妙安尼が開基
とか。身延山久遠寺(くおんじ)の末寺で、平塚鬼子母神として親しまれているという。
北向の本堂で、石柱の門を入ると境内で作業中のご住職が声をかけて下さる。庫裡(く
り)で七福神の色紙に最初のご朱印をいただき、本堂内に祭られた大黒天も案内してもら
う。
本堂の左手前にも、新しい大黒天像が祭られていた。
東海道に戻ってすぐ、神奈川銀行の前に、「平塚宿本陣旧跡碑」があった。この本陣の
主は代々加藤七郎兵衛を名乗り、14代将軍家茂は2回休憩し、明治元(1868)年と
翌2年には明治天皇が東京行幸と遷都に際して小休止したという。
次の交差点から細道に入るとすぐ、なまこ壁の消防団第1分団の建物があり、その前に
は「平塚宿問屋場跡」の説明板が立っていた。
その横を北に進み、「平塚の塚緑地」と呼ぶ小公園に寄る。
北側にクロマツが立ち、その下に平塚の地名の起こりのことを記した「平塚の塚」の由
来が記されていた。
道路を挟んで西中町公園があり、その西側が毘沙門天を祭る春日神社である。
春日神社は、1191年頃、源頼朝が馬入川(ばにゅうがわ)の橋供養のために建立し、
旧東海道平塚宿の鎮守社として信仰を集めたとか。源頼朝夫人、北条政子の安産祈願でも
知られているようだ。
拝殿には精巧な木彫が施され、境内には春日稲荷神社や春日天満宮などの末社がある。
七福神の毘沙門天は拝殿左手の毘沙門堂とその前に祭られていた。
境内には、カワラケに息を吹きかけて投げ割って厄をはらうという厄割石というのもあ
る。
南側の空き地では間もなくどんど焼きをするようで、正月の松飾りやしめ縄などが積み
上げられていた。
左手から背後の国道1号線に出た。緩やかな右カーブの後、葉の落ちたケヤキの街路樹
の続く歩道を東に向かう。
検察庁交差点の先に光圓寺があったので立ち寄る。本堂は横長の独特な造り。
本堂前に「手向の塔」と呼ぶ大きな石塔が建っている。平塚市の戦没者供養塔のよう。
西北からの道と合した八幡宮交差点の北側は、3つ目の七福神、弁財天を祭る平塚八幡
宮である。
石鳥居をくぐり、大きな弁天池の横へ。弁天池への入口に琵琶を弾く弁天立像があった。
二の鳥居を入った正面が拝殿で、境内にはほかに若宮社、神明社など7つの社があり、
正月には開運七社詣でをする市民が多いよう。
平塚八幡宮は、380年頃に起きた大地震の被害を受けた民の平穏と地鎭を願い、第
15代応神天皇を祭る社として建立されたとか。
歴代天皇や源頼朝、徳川家康など武家の崇敬も厚く、武運や勝負、安産や子育ての神、
さらに震災や厄災からの守り神としても崇敬されているという。
境内西側では年に一度のどんど焼きをしていて、門松や注連(しめ)飾りなどが燃やさ
れ、どんな由緒かその火に竹竿に吊した五色の団子のようなものをかざしていた。
広い境内にはほかに、ご神木のイチョウ、全国の神社の絵馬を展示↓したパネル、多種
の縁起物を販売する店などが目についた。
神社を出て、東南側の宮の前交差点を跨道橋で横断する。少し先の吉野家に12時35
分に入り、30分足らずで昼食をした。
さらに東へ、近くの松原小入口交差点で緩やかに右カーブする国道1号を離れ、直進す
る車道へ。国道129号を横断して、相模(馬入)川右岸に接した「馬入ふれあい公園」
に立ち寄る。
西側には、サッカー場と大屋根の市立体育館「ひらつかサンライフアリーナ」がある。
馬入川右岸堤防に上がり眼下の運動場やモーターボート係留施設、対岸の茅ヶ崎市の建
物、下流に架かる国道1号線の馬入橋など眺める。
堤防上には「馬入の渡し跡」碑が立ち、「江戸時代、幕府は大きな河川に橋をかけるこ
とを禁止し、相模川(馬入川)や多摩川(六郷川)では「渡し船」、酒匂川(さかわがわ)
では「徒歩渡し」などで渡っていた」ことなどが記されていた。
碑の周辺からは北に、丹沢山塊やその東に立つ日本三百名山で関東百名山の大山(おお
やま)(1252m)が望まれる。
公園の南側入口に戻り、そばのホテルサンライフガーデンの教会↑横を進み、近くにあ
る次の七福神、布袋尊の連光寺(れんこうじ)へ。
本堂は近代的なコンクリート造り。その前に、屋根まで届きそうな大きなサボテンが目
につく。
にこやかな布袋尊は左手お堂に祭られ、その横には七福神の乗る石像の新しい宝船もあ
る。
南側の馬入交差点で馬入橋に延びる国道1号線を横断し、南側の細道を橋際に進むと、
「陸軍架橋記念碑」が立っていた。
大正12(1923)年9月1日の関東大震災で倒壊した馬入橋の架橋工事のため、豊
橋と京都の陸軍工兵大隊が派遣されて10月3日に完成し、馬入側を担当した第十六大隊
(京都)の事績を称えたものと記されていた。
細道を南に回り、JR東海道本線の2本の鉄橋下の草道を東に抜けて右岸堤防上に上が
る。
東海道本線の鉄橋や対岸の茅ヶ崎市側の林などを眺めながら進むと、西側に平塚競輪場
が見えた。
堤防を下り、そばにいた警備員に聞くと、今日は和歌山競輪場外レースを開催中で、無
料開放しているので入ったらと勧められた。
それではと入口を入り、スタンドに上がってほんの数分だけレースを観戦する。スタン
ドはがら空きで観客は数えるほど。
ほぼ毎年、20数年続けていて今日で37回目の私の七福神めぐりの途中で、競輪場に
入ったのは初めてのことだった。
南側の札場町(ふだばちょう)に入り、港公園の横を進んで御宇気神社に寄る。社殿は
小さく境内もわずかだが、豊富な緑陰に覆われている。
社殿前の平塚市保存樹木のタブノキの古木に、この社の歴史が偲ばれた。
その先の乗蓮寺にも立ち寄る。山門の両側に、わらじを下げた独特の姿の石像が並び立
っていた。
南東すぐ先が、5番目の七福神、寿老神を祭る長楽寺(ちょうらくじ)。
大きな本堂は幅広い階段上にあり、その右横に大山が望まれる。七福神の寿老尊は、左
手のお堂の前に立つ。
境内右手に、神奈川県指定有形文化財「長楽寺の庚申塔」(下の写真の左端)がある。
紀年銘はないが、県内にある同様の四臂青面金剛(よんぴしょうめんこんごう)と二猿
(ににえん)の石塔が承応2(1653)年~明暦4(1656)年建立のことから、同
時期のものと考えられるよう。
その右手には江戸期のものらしい数基の石塔が並び、左手には「大震災焼死者供養塔」
が立っていた。
寺の南側から北西に延びる県道607号を進む。国道129号を超える歩道橋上からは、
正面に大山や丹沢の山並みが望まれる。
すぐ先近くに次の七福神、恵比寿神の平塚三嶋神社がある。創建は1千年以上前で、平
安時代にはすでに漁業者の信仰を集めていたとか。江戸時代に盛んだった「大山詣で」で
は、海路から訪れる人々の道中の安全祈願所として参拝されていたという。
一の鳥居を入ると、クロマツの立ち並ぶ参道の先に平塚市保存樹木のクスノキが立つ。
二の鳥居を入り正面の拝殿に参拝する。拝殿には鶴などの精巧な木彫が施され、恵比寿
神は拝殿左手に釣り竿を持って微笑んでいた。
境内には、厄除け開運や流行病など種々の病気を癒やす疫(やく)神社↓や、伊弉諾
(いざなぎ)神社などが祭られている。
最後の七福神、福禄寿の善性寺(ぜんしょうじ)は、県道を挟んだ西側のはずだが見つ
からず、少し探して北西側にあった。
善性寺は1661年頃日栄上人が創建し、当初は三浦郡横須賀にあったが1942年に
当地に移転したとか。別名「湯吞寺」と呼ばれ、別棟に国内外の著名作家による湯吞みや
茶器などが拝観できるという。
新しい福禄寿は、本堂右手ににこやかに立ち、本堂の扉を開いてみたら、堂内にも祭ら
れていた。
本堂の扉には、寺院では珍しいステンドグラスが数枚はめ込まれている。庫裡で最後の
御朱印をいただき、15時19分に寺を後にする。
同じ通りをさらに北西へ、最後に左カーブして「人魚の像」のある平塚駅南口広場に入
り、15時32分にJR平塚駅にゴールした。
ちなみに、七福神めぐりの色紙は500円、朱印代は1か所300円である。
今日歩いたエリアは、平塚駅を中心に東西3㎞、南北2㎞足らずの範囲にあり、平坦な
市街地で道路が広くて主要道には幅広い歩道もあり、気温も10℃前後で風も弱く、歩き
やすい七福神めぐりだった。
(天気 快晴、距離 10㎞、地図「湘南ひらつか観光マップ」、「湘南ひらつか七福神
めぐり」リーフレットの地図、歩行地 平塚市、歩数 21,300)
なお、「湘南ひらつか七福神めぐり」の公式サイトはこちらを。
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毎年、新春2日に七福神巡りをしていたが、今年は用事で行けなかった。そこで好天の
予報の今日、「湘南ひらつか七福神めぐり」に出かけることにした。
自宅から2間10分、途中横浜駅での乗り換え1回で9時47分にJR東海道線平塚駅
に着く。
駅構内に観光協会がないか探したが見つからず、駅の改札で聞いて少し離れた市民セン
ターにあると分かる。10時ちょうどに平塚駅北口を出た。
駅前から西に延びる紅谷(べにや)パールロード商店街を少し進み、北側の広い通りに
回ったら市民センターの看板が見えた。
その建物の手前に、「東海道五十三次 平塚宿の江戸見附跡」の説明板とわずかな石垣
が残っていた。この通りは旧東海道のよう。
平塚宿の見附は2か所あり、江戸側の入口が江戸見附で、京側にあるのを上方(かみが
た)見附と呼んだとか。平塚宿はこの間の東西約1.5㎞に、江戸時代を通して200軒
を超える町並みが続いたという。
そばの市民センターに入るが、今日は休館日。守衛さんに聞くと観光協会は閉鎖したと
のこと。七福神めぐりのマップがないかと話したら、「湘南ひらつか観光マップ」がある
というのでもらった。
用意してきた簡単な七福神めぐりの地図と見比べ、西南西側近くの平塚1丁目にある妙
安寺に向かう。
同じ通りの少し先に、枝を広げたクスノキなどの立つ緑地があり、「平塚小学校蹟の樟
樹」の説明板立っていた。
それによれば「ここは、明治13(1880)年に崇善館を移設して平塚小学校とした
旧地で、明治28(1895)年に校庭の一隅にクスノキの種をまき、その種子を明治
27~28年の日清戦争講話記念に県知事が県下各学校へ配布した」ことなどが記されて
いた。
背後には、その崇善館らしい和洋折衷風の建物↑がある。
県道61号を跨道橋で超えて南西側の通りに回り、最初の七福神、大黒天の妙安寺(み
ょうあんじ)へ。
創建は1624年頃で、徳川家康の側室の養珠院お万の方の奥女中だった妙安尼が開基
とか。身延山久遠寺(くおんじ)の末寺で、平塚鬼子母神として親しまれているという。
北向の本堂で、石柱の門を入ると境内で作業中のご住職が声をかけて下さる。庫裡(く
り)で七福神の色紙に最初のご朱印をいただき、本堂内に祭られた大黒天も案内してもら
う。
本堂の左手前にも、新しい大黒天像が祭られていた。
東海道に戻ってすぐ、神奈川銀行の前に、「平塚宿本陣旧跡碑」があった。この本陣の
主は代々加藤七郎兵衛を名乗り、14代将軍家茂は2回休憩し、明治元(1868)年と
翌2年には明治天皇が東京行幸と遷都に際して小休止したという。
次の交差点から細道に入るとすぐ、なまこ壁の消防団第1分団の建物があり、その前に
は「平塚宿問屋場跡」の説明板が立っていた。
その横を北に進み、「平塚の塚緑地」と呼ぶ小公園に寄る。
北側にクロマツが立ち、その下に平塚の地名の起こりのことを記した「平塚の塚」の由
来が記されていた。
道路を挟んで西中町公園があり、その西側が毘沙門天を祭る春日神社である。
春日神社は、1191年頃、源頼朝が馬入川(ばにゅうがわ)の橋供養のために建立し、
旧東海道平塚宿の鎮守社として信仰を集めたとか。源頼朝夫人、北条政子の安産祈願でも
知られているようだ。
拝殿には精巧な木彫が施され、境内には春日稲荷神社や春日天満宮などの末社がある。
七福神の毘沙門天は拝殿左手の毘沙門堂とその前に祭られていた。
境内には、カワラケに息を吹きかけて投げ割って厄をはらうという厄割石というのもあ
る。
南側の空き地では間もなくどんど焼きをするようで、正月の松飾りやしめ縄などが積み
上げられていた。
左手から背後の国道1号線に出た。緩やかな右カーブの後、葉の落ちたケヤキの街路樹
の続く歩道を東に向かう。
検察庁交差点の先に光圓寺があったので立ち寄る。本堂は横長の独特な造り。
本堂前に「手向の塔」と呼ぶ大きな石塔が建っている。平塚市の戦没者供養塔のよう。
西北からの道と合した八幡宮交差点の北側は、3つ目の七福神、弁財天を祭る平塚八幡
宮である。
石鳥居をくぐり、大きな弁天池の横へ。弁天池への入口に琵琶を弾く弁天立像があった。
二の鳥居を入った正面が拝殿で、境内にはほかに若宮社、神明社など7つの社があり、
正月には開運七社詣でをする市民が多いよう。
平塚八幡宮は、380年頃に起きた大地震の被害を受けた民の平穏と地鎭を願い、第
15代応神天皇を祭る社として建立されたとか。
歴代天皇や源頼朝、徳川家康など武家の崇敬も厚く、武運や勝負、安産や子育ての神、
さらに震災や厄災からの守り神としても崇敬されているという。
境内西側では年に一度のどんど焼きをしていて、門松や注連(しめ)飾りなどが燃やさ
れ、どんな由緒かその火に竹竿に吊した五色の団子のようなものをかざしていた。
広い境内にはほかに、ご神木のイチョウ、全国の神社の絵馬を展示↓したパネル、多種
の縁起物を販売する店などが目についた。
神社を出て、東南側の宮の前交差点を跨道橋で横断する。少し先の吉野家に12時35
分に入り、30分足らずで昼食をした。
さらに東へ、近くの松原小入口交差点で緩やかに右カーブする国道1号を離れ、直進す
る車道へ。国道129号を横断して、相模(馬入)川右岸に接した「馬入ふれあい公園」
に立ち寄る。
西側には、サッカー場と大屋根の市立体育館「ひらつかサンライフアリーナ」がある。
馬入川右岸堤防に上がり眼下の運動場やモーターボート係留施設、対岸の茅ヶ崎市の建
物、下流に架かる国道1号線の馬入橋など眺める。
堤防上には「馬入の渡し跡」碑が立ち、「江戸時代、幕府は大きな河川に橋をかけるこ
とを禁止し、相模川(馬入川)や多摩川(六郷川)では「渡し船」、酒匂川(さかわがわ)
では「徒歩渡し」などで渡っていた」ことなどが記されていた。
碑の周辺からは北に、丹沢山塊やその東に立つ日本三百名山で関東百名山の大山(おお
やま)(1252m)が望まれる。
公園の南側入口に戻り、そばのホテルサンライフガーデンの教会↑横を進み、近くにあ
る次の七福神、布袋尊の連光寺(れんこうじ)へ。
本堂は近代的なコンクリート造り。その前に、屋根まで届きそうな大きなサボテンが目
につく。
にこやかな布袋尊は左手お堂に祭られ、その横には七福神の乗る石像の新しい宝船もあ
る。
南側の馬入交差点で馬入橋に延びる国道1号線を横断し、南側の細道を橋際に進むと、
「陸軍架橋記念碑」が立っていた。
大正12(1923)年9月1日の関東大震災で倒壊した馬入橋の架橋工事のため、豊
橋と京都の陸軍工兵大隊が派遣されて10月3日に完成し、馬入側を担当した第十六大隊
(京都)の事績を称えたものと記されていた。
細道を南に回り、JR東海道本線の2本の鉄橋下の草道を東に抜けて右岸堤防上に上が
る。
東海道本線の鉄橋や対岸の茅ヶ崎市側の林などを眺めながら進むと、西側に平塚競輪場
が見えた。
堤防を下り、そばにいた警備員に聞くと、今日は和歌山競輪場外レースを開催中で、無
料開放しているので入ったらと勧められた。
それではと入口を入り、スタンドに上がってほんの数分だけレースを観戦する。スタン
ドはがら空きで観客は数えるほど。
ほぼ毎年、20数年続けていて今日で37回目の私の七福神めぐりの途中で、競輪場に
入ったのは初めてのことだった。
南側の札場町(ふだばちょう)に入り、港公園の横を進んで御宇気神社に寄る。社殿は
小さく境内もわずかだが、豊富な緑陰に覆われている。
社殿前の平塚市保存樹木のタブノキの古木に、この社の歴史が偲ばれた。
その先の乗蓮寺にも立ち寄る。山門の両側に、わらじを下げた独特の姿の石像が並び立
っていた。
南東すぐ先が、5番目の七福神、寿老神を祭る長楽寺(ちょうらくじ)。
大きな本堂は幅広い階段上にあり、その右横に大山が望まれる。七福神の寿老尊は、左
手のお堂の前に立つ。
境内右手に、神奈川県指定有形文化財「長楽寺の庚申塔」(下の写真の左端)がある。
紀年銘はないが、県内にある同様の四臂青面金剛(よんぴしょうめんこんごう)と二猿
(ににえん)の石塔が承応2(1653)年~明暦4(1656)年建立のことから、同
時期のものと考えられるよう。
その右手には江戸期のものらしい数基の石塔が並び、左手には「大震災焼死者供養塔」
が立っていた。
寺の南側から北西に延びる県道607号を進む。国道129号を超える歩道橋上からは、
正面に大山や丹沢の山並みが望まれる。
すぐ先近くに次の七福神、恵比寿神の平塚三嶋神社がある。創建は1千年以上前で、平
安時代にはすでに漁業者の信仰を集めていたとか。江戸時代に盛んだった「大山詣で」で
は、海路から訪れる人々の道中の安全祈願所として参拝されていたという。
一の鳥居を入ると、クロマツの立ち並ぶ参道の先に平塚市保存樹木のクスノキが立つ。
二の鳥居を入り正面の拝殿に参拝する。拝殿には鶴などの精巧な木彫が施され、恵比寿
神は拝殿左手に釣り竿を持って微笑んでいた。
境内には、厄除け開運や流行病など種々の病気を癒やす疫(やく)神社↓や、伊弉諾
(いざなぎ)神社などが祭られている。
最後の七福神、福禄寿の善性寺(ぜんしょうじ)は、県道を挟んだ西側のはずだが見つ
からず、少し探して北西側にあった。
善性寺は1661年頃日栄上人が創建し、当初は三浦郡横須賀にあったが1942年に
当地に移転したとか。別名「湯吞寺」と呼ばれ、別棟に国内外の著名作家による湯吞みや
茶器などが拝観できるという。
新しい福禄寿は、本堂右手ににこやかに立ち、本堂の扉を開いてみたら、堂内にも祭ら
れていた。
本堂の扉には、寺院では珍しいステンドグラスが数枚はめ込まれている。庫裡で最後の
御朱印をいただき、15時19分に寺を後にする。
同じ通りをさらに北西へ、最後に左カーブして「人魚の像」のある平塚駅南口広場に入
り、15時32分にJR平塚駅にゴールした。
ちなみに、七福神めぐりの色紙は500円、朱印代は1か所300円である。
今日歩いたエリアは、平塚駅を中心に東西3㎞、南北2㎞足らずの範囲にあり、平坦な
市街地で道路が広くて主要道には幅広い歩道もあり、気温も10℃前後で風も弱く、歩き
やすい七福神めぐりだった。
(天気 快晴、距離 10㎞、地図「湘南ひらつか観光マップ」、「湘南ひらつか七福神
めぐり」リーフレットの地図、歩行地 平塚市、歩数 21,300)
なお、「湘南ひらつか七福神めぐり」の公式サイトはこちらを。
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