大原御幸(寂光院)
今からおよそ800年ほど前のこと、京都大原の里、寂光院という寺に、一人の美しい尼僧が移り住むようになった。
名を”建礼門院徳子”、平家の大将清盛の娘である。
16歳のとき高倉天皇の女御となり、22歳で皇子を出産、やがてその皇子が”安徳天皇”となるに及んで、国母として院号を受け”建礼門院”となる。
一見幸福そうにみえるその人生も、すべてが父、清盛の出世の手段にすぎなかった。
やがて源氏が勢いを盛り返し、平家が衰え始めると、建礼門院にも少しずつ悲運の影が忍び寄ってきた。
元暦2年、壇ノ浦の戦で平家が負けると、平家方の舟に乗っていた人々は、次々と海に身を投げて死んでしまったという。
建礼門院も、幼い安徳天皇や母の仁位殿と共に海に身を投じた。
ところが幸か不幸か、建礼門院だけが源氏の手で救いだされてしまった.
そうして後には尼となって、華やかな京の都から、ひっそりとした洛北大原の里に移り住むようになった。
世話をする者も、話し相手もいないこの寂しい里で尼となった建礼門院は、ただひたすらに今は亡き愛児、安徳天皇はじめ、平家一門の冥福を祈りつづけ、その生涯を閉じたという。
薄幸な女性、建礼門院の住んだこの寂光院は、今も大原の里にひっそりとたたずみ、その寂しい生涯に同情して訪れる人々が跡を絶たないという。