『夢の小筥』

再び廻り来る事のない、この刻(いま)を、そっと筥に納めてみました。

 風が運ぶ秋

2008-09-22 15:04:20 | Weblog

 

  風が少しずつ、秋を運んできます。

 

 昨日は一日中寝てました。そのせいでしょうか、今日は、本当に何もなかったかな?出掛けなくてよかったかな?とおもうくらい元気。

 秋のこの時期どちらかと言うと余り好きではありません。

 久し振りに本をだしました。何度読んでも新鮮な気持ちになるのが不思議・・・昔の作家が好きです。

 一寸疲れたところで、むかしばなし。

 「猿寺」

 その昔、京の都の正行院(しょうこういん)という寺に、円譽上人(えんよしょうにん)という偉い坊さんがおったそうな。
 上人はたいそう心の優しい人で、かって山中で修行しておった頃には、鹿や猿、狐や鳥などの動物たちにも仏の教えを説いてやったりしてなぁ、「南無阿弥陀仏」の名号を書いた紙を、動物たちに分け与えてやるほどじゃったそうな。

 やがて、上人が京に正行院を開いてから、2~30年ほどたった「元亀年間」のこと、
 洛外に一人の猟師が住んでおった。

 ある日のこと、山に獲物を探しに行った猟師は、一匹の猿を見つけた。
すぐさま弓に矢をつがえ、射ようと身構えると、どうじゃ、妙なことに猿は、しきりに手を合わせて命ごいをはじめるんじゃと、
 「おかしな猿だな」
猟師が不思議に思って見ていると、猿は何を思うたのか、自分の首に掛けておったものをはずし、猟師に投げてよこしたそうな。
何気なく拾って中をのぞくと、小さな紙切れが出てきた。
ますます妙に思ってその紙を広げてみて、猟師は思わず息を呑んだ。
何と、その紙には、「南無阿弥陀仏」の六字がはっきりと書かれてあるではないか。
今にして、殺生を重ねてきた我が身の罪深さを、猿から教えられたような気がしたんじゃろう。
猟師は、いままでの自分の行いを深く悔いると、その日から、きっぱりと猟に出るのをやめたそうな。

その後、猿からもらったあの名号が、京で名高い正行院の「円譽」上人の筆跡だと知った猟師は、さっそく上人を訪ねた。
そして一部始終を語り、その場で弟子になったと言う。

 この話は何時しか京の街の人々の口から口へと伝えられてなぁ、やがて誰言うとなく正行院は、“猿寺”と呼ばれるようになったそうな。

 そして、猟師が貰ったという名号は、今でも大切に、寺に安置されておるということじゃ。

                今日はお終い。

                                  

                
 


 

 

 
 

 

 

 


夜の庭

2008-09-15 14:22:45 | Weblog

   

 神秘的に輝いているお月様の美しさに誘われ庭に出てみました。

 凛として透明感の漂う朝の空気とは、また違った夜気がピリッと肌に冷たく草叢(くさむら)にすだく虫の音までが、長月の夜を謳歌(おうか)しているようです。

 時々夜露がコロコロっと木の葉からすべり、這うように広がっている花々のうえに落ちていく。
喧し(かしまし)かった虫の音が一瞬ピタリと止み辺りの気配を窺って(うかが)いる様子。それも、束の間で夜の無言(しじま)に再び虫たちの合唱です。

 日中では想像もつかない夜の庭のなかで今日一日を反芻(はんすう)してみる。
あれこれと、過ぎてしまったことなのに重く尾をひき落ち込むこと頻り(しきり)・・・そんな私にお月様は優しく
 「いいのよ、そんなに気にしなくても、また明日を頑張れば・・」と囁いてくれました。

 庭木も花も、眠たげに小首を傾(かし)げている無邪気な姿がとても可愛い。

こんな夜の庭を改めて眺めてみると日中では気付かなかった所が見えて新鮮な感じです。

 タヌキ君のあたまをちょっとなでて「おやすみ」

 私の気持ちがどんなにささくれだっていても、黙って迎え入れ、慰め癒してくれる優しいこの庭が大好きです。

 ひと際、月の光が冴えわたり何かしら神々しさを感じます。
やはり季節は確実に移ろいで紅葉の便りも間もなくと言うことなのでしょう。

心のなかまで見透かすように照らし出す月の光の下(もと)で自分と向き合ってみたら
 『何て些細なことに悩んでいたのだろう』
と心狭い自分に苦笑い。

 四季のなかで、秋は黄昏どきと思いますが、侘び・寂びは、違う世界で楽しみます。

夜も更けてきましたので今夜はもうお家に入ります。

 

                

 


 

 


               


 ”横笛哀れ”

2008-09-06 11:40:49 | Weblog

 平家物語の中での「横笛」が余りにも、哀れで・・
もしかして書き手が変われば、違う話にならないかと?探しました。

 ありました。見たわけではないので、どの変までを信じたらよいのか?・・・

 

 時頼は、
「人生とは儚く,夢まぼろしのようにすぎるもの。それなのに心に染まない女を妻にして共に人生を歩んだところで何になろうか。しかし、かといって父の命に背いて横笛を妻にしたのでは親不孝の極み」
と、悩み苦しみ抜いた結果が、親も恋人も裏切らないですむ出家だったようです。

 が私は、そうは思わないけど、これが千年も昔では・・・不思議ではなかったのでしょうね。

 

 「そるまでは恨みしかども梓弓まことの道に入るぞうれしき」

 入道のうたです。これは、横笛が尼になったのを知ったとき贈った歌だそうです。

 

 「そるとても何か恨みむ梓弓引きとどむべき心ならねば」

 横笛の返歌だそうです。

 

 現実的には結ばれることはありませんでしたが、魂は仏道を通してしっかりと通い合っていたようです。

 間もなく横笛は亡くなりますが、きっと安らかな死であったことと思います。
 書き手はそう結んでありました。

 

 大堰川(おおいがわ)に身を投げ、驚いて駆けつけてきた滝口入道に遺体を抱き上げられたそうです。
入道は横笛の骨を首にかけて寺々を供養して歩き、高野山に弔ったと言うことです。

 

 これで、哀しい横笛も幾らか救われます。

 



 

 


 ”滝口入道と横笛”

2008-09-02 14:34:06 | Weblog

     
    滝口寺    禊萩(みそはぎ)盆花とも言われる。

 今日は久し振りに、平家物語に挑戦です。

 滝口入道とは、内大臣・平重盛(たいらのしげもり)に仕えていた宮中警護に当たる滝口(清涼殿の東北の詰所)の武士・齊藤時頼のこと。

 横笛とは、建礼門院(重盛の妹)に仕えていた雑士女。

 時の権力者平清盛(重盛の父)が催した花見の宴で、横笛の舞をみて、その美しさに、心奪われてしまった時頼。

 その夜から横笛のことが忘れられず、思いは募るばかり、どのようにして気持ちを伝えようかと悩んだあげく、文に認め(したため)届けることにしました。

 宮中警護を勤める男性から愛を打ち明けられた横笛は、

 「この方を信じ、この愛を受け入れよう」

心に誓い、二人は愛の契りを結びました。

 これを知った時頼の父は

 「お前は名門の出、将来は平家一門に入る身なのだから、あのような身分の低い女に、思いを馳せててはいけない」

と厳しく叱りつけました。

 時頼は、主君「内大臣」の信頼に背いた己を自責し、横笛に知らせることなく、わずか19歳で嵯峨の往生院に入り出家。
時頼は、煩悩を捨て、一心に仏道修行を誓ったのでした。

 幾日も経たないうち、都の噂で時頼が(名を滝口入道とする)出家したと知った横笛は、滝口に自分の心を打ち明けようと、あちこちの寺を尋ね歩きます。

 都を出る時に着てきた着物は、見る影もなく、みすぼらしくなっていました。

 ある日の夕暮れ、嵯峨の地へやってきた横笛の耳へ、僅かながら念誦(ねんしょう)の声が聞こえました。
耳を澄ませて声の方向をみると、闇の奥の小さな庵からであった。
 横笛は、そっと近づき念誦の声に

 「この声は、お捜ししていた滝口様」。
はやる気持ちを抑え表戸を叩き
  「お願いでございます。どうか、お姿をお見せくださいませ」

 確かに声は届いたようです。先程まで聞こえていた念誦がぴたりと止み、しばらくすると一人の僧が静かに戸を開け出てきて

 「そのような者はこの僧坊にはおりません、お間違いです」

 と言って姿をけしました。

 ようやくみつけた、滝口に、追い返された横笛の落胆は、いかほどか・・・辛かったと想像できます。

 横笛は泣く泣く都へ帰るが、真の自分の気持ちを伝えたく、近くの石に
 『山深み 思い入りぬる柴の戸の まことの道に我を導け』と指を切り、その血で書き記したと言う。

 滝口入道は、横笛に住まいを知られこれからも尋ねられては修行の妨げになると、女人禁制の高野山静浄院へ移った。

 横笛はそれを知り、悲しみのあまり、大堰川(おおいがわ)に身を沈めたとも、南都(奈良)・法華寺へ出家したとも伝えられる。

 横笛の死を聞いた滝口は、ますます仏道修行に励み、その後、高野聖となり元暦元年(1184)、紀州の勝浦において、
 平惟盛の入水に立ち会っているとのことです。

 何れにしても滝口入道20歳、横笛17歳のときのお話です。

 哀しすぎます・・・。

 せめてもと、我が家の禊萩(ミソハギこんなに難しい字です)
の写真です。