愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 7 漢詩を読む  杜牧 山行 (4)

2015-05-02 16:51:04 | 漢詩を読む
杜牧の「山行」を口ずさむ際には、筆者は次の状況・情景を想像しています。

まず車は、当時の官僚が常時利用したであろう飾りのついた‘牛車’。夕暮れの時刻ですから、仕事の帰り道。ところは、今日のようなPM2.5もなく、また黄砂もない、視界を遮るコンクリートのビルもない、澄み切った秋空の下、収穫を待つ稲穂が微風に揺れている江南の地。やや離れた彼方に真っ赤に紅葉した‘寒山’が視界に入ってきました。‘寒山’の南面でしょうか、やゝ弱まった夕陽に染まってなお鮮やかです。つまり「遠く寒山に…..」と、作者杜牧は、‘寒山’からやや離れた処で‘車’を停めている状況です。

さらに作者の目には、‘寒山’の山腹を斜めに登り坂道となった‘石ころ小道’が木々の間から途切れ途切れに入ってきます。その‘石ころ小道’をずっと目で追っていくと、奥の嶺には‘白雲’が掛かっている。つまり作者は、‘寒山’の山中、‘石ころ小道’を実際に‘歩いて’または‘車に乗って’登っているのではなく、やや離れた処にいて、‘寒山’の山腹を走る‘石ころ小道“を奥へ奥へと目で追っていると想像されます。

以上、飾りのついた‘牛車’、春の紅に劣らず、全山を真っ赤に染める眼前の‘楓林’、登るには難儀が想われる‘石ころ小道’、その向こうに‘白雲’のかかる嶺。一幅の絵として自然に頭に描くことができます。さらに絵の向こうに隠者の棲む‘桃源郷’も想像させてくれるようです。

もう一点、転句の「坐」。「坐」の本来の意味は「すわる」ですが、転じていろいろな意味があり、石川忠久著『新漢詩紀行ガイド』では、“坐(そぞろ)に”と読み、“わけもなく、なんとはなしに”と語釈が付されています。しかし“そぞろに”では“唯なんとなく、漫然と”眺めている様が想像されて、しっくりきません。

「坐」の解釈については、過去にも話題に上った形跡があります。『中国詩選 ー唐詩ー』(松浦友久著、社会思想社、1973)中、“○坐 -何とはなしに。『詩詞曲語辞匯釈』では「因」と解釈し、「車を停めたのは楓林の夕景色を愛でるからである」とする。”と語釈を付しています。ちなみに『大漢和辞典』(諸橋徹次他著、2000)によれば、「坐」の解釈として、11番目に“そぞろに”(何とはなしに、おのずと)、また7番目に“よる”(もとづく)とあります。しかし10番目に“いながらに”(たやすく、何もせずして)も挙げられています。

先に述べたように、作者は「‘寒山’からやゝ離れた処で‘牛車’を停めた」とするなら、「車から降りるでもなく、車中に‘いながらに’ 楓林を愛でている」と解釈することができ、しみじみと楓林に見入っている様が容易に想像できます。

以上の詩意解釈は如何でしょうか?但し、常々「…..そぞろに愛す楓林のくれ」と口づさんでいることから、音感として身体に染みついており、今さら「….いながらに愛す…..」では軽い感じがして、それなりにしっくり行かないことも事実ですが。(杜牧-「山行」 完)

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