玄宗の第18子の寿王・李瑁(リボウ)の妃であった楊玉環は、玄宗に見初められ、しばらく内縁関係の後、後宮に呼び入れられて、妃と同等な待遇を受けます。数ある後宮の麗人たち(3,000人!)を余所に、楊玉環(貴妃)は、玄宗の寵愛を一身に受けて、公私に華々しい生活を送るようになりました。
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<白楽天の詩>
長恨歌
17承歓侍宴無閑暇、 歓(カン)を承(ウ)け宴(エン)に侍(ジ)して 閑暇(カンカ)無し、
18春從春遊夜專夜。 春は春の遊びに從い 夜は夜を專(モッパ)らにす。
19後宮佳麗三千人、 後宮(コウキュウ)の佳麗(カレイ) 三千人、
20三千寵愛在一身。 三千の寵愛(チョウアイ) 一身(イッシン)に在(ア)り。
21金屋粧成嬌侍夜、 金屋(キンオク) 粧(ヨソオ)い成(ナ)りて嬌(キョウ)として夜に侍(ジ)し、
22玉楼宴罷醉和春。 玉楼(ギョクロウ) 宴(エン)罷(ヤ)みて醉(ヨ)いて春に和(ワ)す。
註] 承歓:上の者から愛情を注がれる、私的な睦み合い; 侍宴:公的な席に
付き従うこと; 夜專夜:一人だけで天子のおとぎをつとめること、
一晩を一人でおとぎするのは皇后だけ、楊玉環は未だ皇后ではなかったが;
後宮:皇后や妃などが住む宮中奥向きの宮殿; 金屋:皇后の御殿;
玉楼:りっぱな御殿。
<現代語訳>
とわの悲しみのうた
17帝のお相手やら宴席のお務めやらまるで暇がない、
18春には春の行楽に付き従い、夜には枕を一人占め。
19後宮にひしめく三千の麗人、
20その3千人分の寵愛がいまや一身に注がれる。
21黄金のやかたでは粧いを凝らし、あでやかに夜のおとぎ、
22玉のうてなの宴が尽きれば、後には春と溶け合う酔い心地。
[主に参考:川合幸三 編訳 『中国名詩選』]
<簡体字およびピンイン>
长恨歌 Cháng hèn gē
17承欢侍宴无闲暇, Chéng huān shì yàn wú xiánxiá, [去声二十二禡韻]
18春从春游夜专夜. chūn cóng chūn yóu yè zhuān yè.
19后宫佳丽三千人, Hòugōng jiālì sānqiān rén, [上平声十一真韻]
20三千宠爱在一身. sānqiān chǒng'ài zài yīshēn.
21金屋妆成娇侍夜, Jīnwū zhuāng chéng jiāo shì yè,
22玉楼宴罢醉和春. yù lóu yàn bà zuì hé chūn.
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玄宗に見初められた玉環は、出家し女冠(女道士)を経て、後宮に入り(744)、皇后の扱いを受け、正式に貴妃となるのは、翌年(745)である。玄宗が愛情を注いでいた妃の武恵妃は、40余歳で亡くなって(737)いて、玄宗にあっては、新しい妃を迎える状況にあった。
楊貴妃は、“羞花美人”と称される中国四大美女の一人とされる。なお、クレオパトラ・小野小町と共に世界三大美女とも称されている。また音楽をこよなく愛し、琵琶、笛や磬(ケイ、打楽器)をこなすばかりか、踊りにも長けていた人で、玄宗と共通の趣向を持ち合わせていた。結びつきが一層強くなることも頷けることである。
楊貴妃作とされる詩(下記)が遺されており、その多才ぶりが伺える。清代に編集された唐詩全集・『全唐詩』に採りあげられていて、華清宮で侍女の張雲容に「霓裳(ゲイショウ)羽衣(ウイ)の曲」を舞わせて、それを題材にして詠んだ詩である。以下、その詩・七言絶句を読みます。なお、漢詩部は、「Wikipedia楊貴妃」に拠った。
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<楊貴妃の詩>
阿那曲(贈張雲容舞) [上声四紙韻]
羅袖動香香不已、 羅袖(らしゅう)香を動すも 香已まず
紅蕖裊裊秋煙裏。 紅蕖(こうきょ)裊裊(じょうじょう)たり 秋煙の裏
輕雲嶺上乍搖風、 軽雲 嶺上 乍(たちま)ち風に揺らぎ
嫩柳池辺初拂水。 嫩柳(ドンリュウ) 池辺 初めて水を払う
註] 阿那曲:「霓裳羽衣の曲」のこと; 羅:きめの細かい絹織物、薄絹;
蕖:芙蓉(ハス)の花; 裊裊:ゆらゆらと揺れるさま; 嫩:若い。
※ 「霓裳羽衣の曲」:玄宗が、夢の中で見た天上の月宮殿での天人の舞楽に
ならって作ったと伝えられる楽曲。
<現代語訳>
霓裳羽衣の曲 (張雲容の舞に贈る)
薄絹の袖の動きに合わせてまわりに香気が揺らぎ、香りは消えることがなく、
秋の煙霧の内に紅の芙蓉の花がゆらゆらと揺れている。
山上の千切れ雲が忽ち風に揺らぎ、
池のほとりの若柳の葉が初めて水を払う。
<簡体字およびピンイン>
阿那曲(赠张云容舞) Ā nà qǔ (zèng ZhāngYúnróng wǔ)
罗袖动香香不已、 Luó xiù dòng xiāng xiāng bù yǐ,
红蕖袅袅秋烟里。 hóng qú niǎoniǎo qiū yān lǐ.
轻云岭上乍摇风、 Qīng yún lǐng shàng zhà yáo fēng,
嫩柳池边初拂水。 nèn liǔ chí biān chū fú shuǐ.
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「霓裳羽衣の曲」と踊りがどのようなものであるか、定かではありません。中国歌舞でよく目にする「10m前後の長さの白布を両手にして、曲に合わせて上下・左右・時計方向、反時計方向に と自在に操り、波打たせる」踊り、を筆者は想像しています。
漢詩について: 詩の“作り”の上では、脚韻、平仄等々、七言絶句の規則はしっかりと踏まえた唐詩である。その内容は、踊り手の腕の動きで起こされた微風が、大気を動かし、布に染み込ませた芳香を撒き広げ、また天地周囲の諸々の事物を揺るがしている と。
ひいては、楊貴妃自身、さらに踊りを見ている人々にも少なからぬ感動を呼び起こさせているよ と、「霓裳羽衣の曲」と踊り手の踊りの出来栄えを賞賛していることを言外に仄めかしているように思える。
音楽、舞芸、詩作…と、楊貴妃の多才ぶりを知ると、彼女が、非常に教養豊かで、比較的恵まれた生活環境の中で育てられたように思える。現代流で言えば、“中流の上位”階級の人と言えようか?また詩から推して、心豊かで、明るく鷹揚な気性の人であったように思える。
句題和歌: 長恨歌の第20句 “三千寵愛在一身”に関連した、藤原高遠(閑話休題247、長恨歌(1))の “句題和歌”を読みます。
我ひとりと 思ふ心も 世の中の
はかなき身こそ うたがはれけれ (『大弐高遠集』)
<大意> 帝の愛は私一人にだけ…… と思いつつも、なお、はかない女の身であることに 不安の念がよぎるのである。
[蛇足] 百人一首54番(儀同三司母、閑話休題165):「…いつ心変わりされるか不安で、最も幸せに浸っていられる今この時、あなたの傍で命が絶えてしまえばよいと思うのよ」との趣旨の歌がありました。高遠の心配ごと、楊貴妃にもあったのでしょうか?
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