愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 178 飛蓬-85 小倉百人一首:(壬生忠岑)有明の

2020-11-20 10:03:50 | 漢詩を読む
30番 有明の つれなく見えし 別れより
暁(アカツキ)ばかり 憂(ウ)きものはなし (『古今和歌集』恋・625) 
壬生忠岑(ミブノタダミネ) 

<訳> 有明の月はひややかでそっけなく見えた。相手の女にも冷たく帰りをせかされた。その時から私には、夜明け前の暁ほど憂欝でつらく感じる時はないのだ。(小倉山荘氏)

ooooooooooooooo 
時節は今頃でしょうか。冴えた暁の空に残る月も寒々と感じられる。語らう時もなく追ったてられて、トボトボと家路に着いているようです。それがトラウマとなり、暁の頃は憂鬱でつらい と。なんともわびしい歌ではある。

作者・壬生忠岑は、生没年未詳ですが、平安前期に活躍した歌人である。三十六歌仙の一人で、『古今和歌集』の撰者の一人でもある。特記すべきは、上掲の歌は、後世、藤原定家や家隆が“『古今集』中最もすぐれた歌”と評したと伝えられていることである。

漢詩では、「元気なく打ちしおれている男性」という趣旨の」詩題をつけました。

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<漢字原文および読み下し文>  [下平声十一尤韻] 
 没精打采的男子 没精打采(ムセイダサイ)な男子  
季秋寂寂四山幽, 季秋(キシュウ) 寂寂(セキセキ)として四山は幽(ユウ)なり,
催促辞别步池頭。 辞别(ジベツ)を催促(サイソク)されて池の頭(ホトリ)を步む。
黎明残月同冷淡, 黎明(レイメイ)の残月 同じく冷淡なり,
後没比暁更憂愁。 後は暁に比して更に憂愁なるものなし。 
 註] 
  没精打采:(成語) 打ちしおれて元気がない。 
  寂寂:物寂しいさま。     四山:周り四方の山々。 
  辞别:別れを告げる、いとまごい。 
  黎明(的)残月:有明の月。   憂愁:気がふさぐ、憂欝である。 

<現代語訳> 
 元気なく打ちしおれている男性 
晩秋の季節、もの寂しく四方の山々はひっそりとしている、 
(訪ねた女性からは)つれなく追い返されて、庭園の池のほとりを歩む。 
(見上げれば)有明の月も同じく白々と冷たくそっけなし、 
それ以来、暁ほど物憂く感じられる時はないのだ。 

<簡体字およびピンイン> 
 没精打采的男子 Méijīng dǎcǎi de nánzǐ 
季秋寂寂四山幽, Jìqiū jì jì sì shān yōu,  
催促辞别步池头。 cuīcù cíbié bù chí tóu. 
黎明残月同冷淡, Límíng cányuè tóng lěngdàn, 
后没比晓更忧愁。 hòu méi bǐ xiǎo gèng yōuchóu. 
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作者・壬生忠岑は、身分の低い下級武官であったが、歌人としては一流と評されている。三十六歌仙の一人であり、『古今和歌集』の撰者の一人でもある。後鳥羽院(院1198~1239)に『古今集』中、最も優れた歌は?と問われて、藤原定家(百人一首 97番、閑話休題-156)は上掲の忠岑の歌を挙げたという。

また同様に問われた藤原家隆(同 98番)も、奇しくも上掲の歌を挙げたという。勿論、定家と家隆が示し合わせて答えたわけではない と。壬生忠岑の歌の素晴らしさを示す例証として語られている逸話の一つと言えよう。

更に藤原公任(同 55番、閑話休題-148)は、和歌を九段階にランク付けした『和歌九品(クホン)』を著しているが、その中に上品上(ジョウボンジョウ)、つまり最高位の歌の例証として忠岑の歌を挙げている。

加わるに、忠岑の歌が第三の勅撰和歌集・『拾遺和歌集』(撰者不詳、1005~07頃)の巻頭歌に撰ばれている と。勅撰和歌集の巻頭歌には、天皇や皇族の歌を置いて儀礼的意義を高めるのが通例であるというが。彼の歌の評価が非常に高かった証でもあろう。

忠岑の歌は、『古今和歌集』(34首)以下の勅撰和歌集に81首入集されており、家集に『忠岑集』が残されている。子息には先に紹介した壬生忠見(同 41番、閑話休題-133)がおり、父子揃って三十六歌仙に撰ばれている。

忠岑の官位について定かなことは知られていないようである。また直系のご先祖についても推測はなされているが、『三十六歌仙伝』では「先祖不見」とあるようで、直系の先祖は不明とするのが穏当とされている。

壬生氏は、律令制の成立以前、皇子の養育料を負担するために置かれた壬生部から生じた氏族とのこと。後世、その庶流は臣(オミ)、連(ムラジ)、公(キミ)、直(アタイ)、等々の姓(カバネ)を得て、それぞれ諸国に広く広がっている。

忠岑は甲斐国造(クニノミヤツコ)家の壬生直の一族との記載も見える。一方、畿内の壬生氏の末裔であることも想像に難くはない。畿内でも壬生臣、壬生部公などの記録が見え、また宮城門の一つ“美福門(ビフクモン)”は、以前は“壬生門”と称されており、壬生氏が守衛の任に当たっていたことを示している。

忠岑は、宮中の警護に当たる左近衛府(サコンエフ)の番長を務めていた折、曽て宮城を守る精鋭であった氏族の子孫である自分が長官職に就けず、長官に随身する下級幹部である事に不満を抱いていた。

さらに、内裏の天皇の御座所まわりを担当する左近衛府から、外側を警護する兵衛府(ヒョウエフ)、中でも最も外側を担当する衛門府(エモンフ)に転任させられている。忠岑にとっては、こもごも不満を抱える状況にあったようである。

紀貫之(同35番、閑話休題-140)は、ともに『古今和歌集』の編者ということもあり、忠岑と深い交わりを持っていた。忠岑の不満の訴えに、貫之は、今は不遇なまま時は経ったけれど これが過ぎればよいことがあるだろう と忠岑を励ます下記の歌を残している。

降りぬとて いたくな侘びそ 春雨の 
  ただに止むべき ものならなくに(『後撰和歌集』春 紀貫之) 
 [降ったからといってひどく思い悩みなさるな 春雨はただ止むものでは 
 ないのだから(止んでからはよいことがあるだろうさ)(小倉山荘氏) 
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