本稿の副副題を“飛蓬”として書き進めています。その由来の解説を兼ねて、“お酒”にも関連のある李白の詩を読みます。
宮廷から追われて放浪中の李白と未だ官職を得ていない杜甫が、現山東省曲阜市近郊の石門山に登ってお酒を酌み交わしている情況です。李白45歳、杜甫34歳のころで、2年近くこの辺りを放浪していたようです。
下記の詩をご参照下さい。結聯の二首:“飛蓬各自遠し、且く林中の盃を尽くさん”と別れに臨んで、お酒を酌み交わしている様子が目に浮かびます。“飛蓬”とは、“ヨモギ”の一種で、詩中では、“あてどなく彷徨う旅人”に喩えられています。
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魯郡東石門 魯郡(ログン)の東(ヒガシ)石門(セキモン)にて
送杜二甫 杜二甫(トニホ)を送る
酔別復幾日、酔別(スイベツ) 復(マ)た幾日(イクニチ)ぞ、
登臨徧池台。登臨(トウリン) 池台(チダイ)に徧(アマネ)し。
何言石門路、何ぞ言わん 石門の路、
重有金樽開。重(カサ)ねて金樽(キンソン)を開く有らんと。
秋波落泗水、秋波(シュウハ) 泗水(シスイ)に落ち、
海色明徂徠。海色(カイショク) 徂徠(ソライ)に明らかなり。
飛蓬各自遠、飛蓬(ヒホウ) 各自(カクジ)遠し、
且尽林中盃。且(シバラ)く林中(リンチュウ)の盃(ハイ)を尽くさん。
註]
石門:石門山、中国山東省曲阜市の東にある山
杜二甫:杜甫のこと、杜氏の同世代一族(兄弟や従兄弟)の中で上から二番目のという意味
登臨:山にのぼったり、水に臨んだりして遊覧すること
池台:池のほとりの高楼(タカドノ)
泗水:山東省曲阜を貫く川
徂徠:山東省曲阜市の東北にある山
<現代語訳>
別れに臨んで酒を酌み交わすこともう幾日過ぎたであろうか、
周りを見渡そうと池のほとりの高楼も登りつくした。
今別れてしまえば、この石門の道で、
いつかまた一緒に酒樽を開いて酌み交わす機会があるであろうか。
水嵩の減った泗水で秋風に立つ波は低く広がり、
徂徠山の向こうでは海の輝きがはっきりと見える。
お互い根無し草のような風来坊で遠く離れ離れになるのだ、
しばらくこの林の中で盃を干すことにしよう。
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ビデオ撮影機を片手に旅に出て、撮ったビデオ映像の編集・作業を進めることは筆者の大きな楽しみの一つです。かつては旅の様子を“ビデオ紀行”としてブログに纏めたいと考えたことがありましたが、容易でないことを悟り断念しました。
最近、奇縁があって漢詩を作ることを教わった。それを機に、旅行先での見聞や体験、感想等々を漢詩に詠い込み、「……紀行」としてブログに纏めてみるか と思い立ち、目下試行中です。
実際の副副題は、「……紀行」ではなく、“飛蓬”にしました。その基は、上に挙げた李白の詩が頭にあって、拝借することとしたのです。この“飛蓬”は先に“ヨモギ”の一種と書きましたが、少々解説が要りそうです。
まず“蓬”の字。訓読みでは“よもぎ”ですが、いわゆる、わが国で言う、“ヨモギ餅”などとして使われる“ヨモギ”ではありません。日本で言う“ヨモギ”の漢字は“艾”です。
“蓬”とは、「一年草。葉はヤナギに似て細長く、周囲はこまかい鋸状である。冬に枯れると根が切れ、茎や枝部は風に吹かれて球状にまとまって地面をころがる。ムカシヨモギの類。」(全訳『漢辞海』:第四版、戸川芳郎監修、三省堂;2017)とあります。
漢詩の中で“あてどなく彷徨う旅人”に喩えられることが頷けます。また漢詩中では、“飛蓬”のほか“転蓬”、“飄蓬”などとして出てきます。これら三者を比べ、語感を勘案して、“紀行”に代わって、“飛蓬”を選んだ次第です。
改めてこれら三者を、『漢辞海』に当たってみると、かなり意味あいは異なるようです。まず“飛蓬”とは:「①風に飛ばされて転がる蓬(=ムカシヨモギ類);②ふらふらと行方定まらぬ境遇のたとえ」とあります。
一方、“転蓬”とは:「風に吹かれて転がり行く蓬(=ムカシヨモギ類);②落ちぶれて当てもなくさまよう。」“飄蓬”とは:「風に吹かれて転がり行く蓬(=ムカシヨモギ類);②落ちぶれて流浪する身のたとえ」と。
というわけで、後の二者を選ばずによかったな!と胸をなで下ろしています。現在までのところ、“落ちぶれてさまよい、流浪している”状態ではないと言えそうだからです。これら語句の意味あいの違いが、反映されていると思われる漢詩について、稿を改めて何首か読んでみたいと考えています。
ところで“蓬(=ムカシヨモギの類)”の記載中、“ムカシヨモギ”とはいったい如何なる植物なのでしょう? ”ムカシ……”とは、何か曰くがありそうです。少々理屈っぽいようですが、その辺を探ってみます。
昔、異国間で交易が始まった頃は、実物を持ち寄ってあるいは記憶に頼ってそれぞれの国の“対象とする物”の名称を持ち寄り、経験を重ねて、異国間で互いに通じ合う“翻訳語”ができていったと考えてよいでしょう。
想像するに、この当初の段階では、漢語“蓬”は、日本の“艾(ヨモギ)”に当たると理解されたようです。そこで“蓬”を日本で“よもぎ”と読むようになった と。しかし後に日本の“艾”と同一ではなく、誤訳であることが判ってきた。
それで漢語の“蓬”に当たる植物を“ムカシヨモギ”と翻訳しなおした。つまり“昔はヨモギと呼んでいたんですよ”と、非常に率直に告白する名称にしたわけです。これは今に生きる事実と言えるでしょう。
この変遷の時間経過は詳らかではありませんが、学問の進歩、特にラテン語学名による植物名称の世界統一的な記載方法の確立・発展があって、不適切な名称であることが明らかになったものと想像されます。
因みに日本の“艾(ヨモギ)”は、キク科“ヨモギ属(Artemisia)”の一種であり、勿論中国にも同種の植物はあり、漢語では“蒿hāo”と言われています。
一方、中国語では“蓬”に当たる植物は、キク科“飛蓬属(Erigeron)”と呼ばれており、この属に属する植物は200種ほどあるとのことです。つまりこの日本語訳も“ムカシヨモギ属”となったのです。
さて、興味の対象である、件の“飛蓬”とは、どのような植物で、日本のどの植物に相当するのか?先に記したように、“蓬”は、“飛蓬属(Erigeron)”に属していて、冬には枯れる一年生植物であることを基に探ってみました。
まず、『中国植物志』の“加拿大(カナダ)白酒草”の項で、「俗名:加拿大蓬、飛蓬、小飛蓬と言う」と言う記載があるらしい。この植物の学名は、Erigeron canadensisであり、それに相当する日本名の植物は、“ヒメムカシヨモギ”です。
第2の候補は、中国で“一年蓬(野蒿)”と呼ばれる植物。この学名は、Erigeron annuus L. pers.であり、日本のヒメジョオン(姫女菀)です。ヒメシオン(姫紫苑)とは異なるので要注意。
つまり、“飛蓬”とは、我々の身の周りにある“ヒメムカシヨモギ”又はヒメジョオン(姫女菀)であると考えられます。ただ風に吹かれて飛んでいく様子を目撃した経験はありません。機会を設けて専門家に確認したいものと思っています。
宮廷から追われて放浪中の李白と未だ官職を得ていない杜甫が、現山東省曲阜市近郊の石門山に登ってお酒を酌み交わしている情況です。李白45歳、杜甫34歳のころで、2年近くこの辺りを放浪していたようです。
下記の詩をご参照下さい。結聯の二首:“飛蓬各自遠し、且く林中の盃を尽くさん”と別れに臨んで、お酒を酌み交わしている様子が目に浮かびます。“飛蓬”とは、“ヨモギ”の一種で、詩中では、“あてどなく彷徨う旅人”に喩えられています。
xxxxxxxxx
魯郡東石門 魯郡(ログン)の東(ヒガシ)石門(セキモン)にて
送杜二甫 杜二甫(トニホ)を送る
酔別復幾日、酔別(スイベツ) 復(マ)た幾日(イクニチ)ぞ、
登臨徧池台。登臨(トウリン) 池台(チダイ)に徧(アマネ)し。
何言石門路、何ぞ言わん 石門の路、
重有金樽開。重(カサ)ねて金樽(キンソン)を開く有らんと。
秋波落泗水、秋波(シュウハ) 泗水(シスイ)に落ち、
海色明徂徠。海色(カイショク) 徂徠(ソライ)に明らかなり。
飛蓬各自遠、飛蓬(ヒホウ) 各自(カクジ)遠し、
且尽林中盃。且(シバラ)く林中(リンチュウ)の盃(ハイ)を尽くさん。
註]
石門:石門山、中国山東省曲阜市の東にある山
杜二甫:杜甫のこと、杜氏の同世代一族(兄弟や従兄弟)の中で上から二番目のという意味
登臨:山にのぼったり、水に臨んだりして遊覧すること
池台:池のほとりの高楼(タカドノ)
泗水:山東省曲阜を貫く川
徂徠:山東省曲阜市の東北にある山
<現代語訳>
別れに臨んで酒を酌み交わすこともう幾日過ぎたであろうか、
周りを見渡そうと池のほとりの高楼も登りつくした。
今別れてしまえば、この石門の道で、
いつかまた一緒に酒樽を開いて酌み交わす機会があるであろうか。
水嵩の減った泗水で秋風に立つ波は低く広がり、
徂徠山の向こうでは海の輝きがはっきりと見える。
お互い根無し草のような風来坊で遠く離れ離れになるのだ、
しばらくこの林の中で盃を干すことにしよう。
xxxxxxxxx
ビデオ撮影機を片手に旅に出て、撮ったビデオ映像の編集・作業を進めることは筆者の大きな楽しみの一つです。かつては旅の様子を“ビデオ紀行”としてブログに纏めたいと考えたことがありましたが、容易でないことを悟り断念しました。
最近、奇縁があって漢詩を作ることを教わった。それを機に、旅行先での見聞や体験、感想等々を漢詩に詠い込み、「……紀行」としてブログに纏めてみるか と思い立ち、目下試行中です。
実際の副副題は、「……紀行」ではなく、“飛蓬”にしました。その基は、上に挙げた李白の詩が頭にあって、拝借することとしたのです。この“飛蓬”は先に“ヨモギ”の一種と書きましたが、少々解説が要りそうです。
まず“蓬”の字。訓読みでは“よもぎ”ですが、いわゆる、わが国で言う、“ヨモギ餅”などとして使われる“ヨモギ”ではありません。日本で言う“ヨモギ”の漢字は“艾”です。
“蓬”とは、「一年草。葉はヤナギに似て細長く、周囲はこまかい鋸状である。冬に枯れると根が切れ、茎や枝部は風に吹かれて球状にまとまって地面をころがる。ムカシヨモギの類。」(全訳『漢辞海』:第四版、戸川芳郎監修、三省堂;2017)とあります。
漢詩の中で“あてどなく彷徨う旅人”に喩えられることが頷けます。また漢詩中では、“飛蓬”のほか“転蓬”、“飄蓬”などとして出てきます。これら三者を比べ、語感を勘案して、“紀行”に代わって、“飛蓬”を選んだ次第です。
改めてこれら三者を、『漢辞海』に当たってみると、かなり意味あいは異なるようです。まず“飛蓬”とは:「①風に飛ばされて転がる蓬(=ムカシヨモギ類);②ふらふらと行方定まらぬ境遇のたとえ」とあります。
一方、“転蓬”とは:「風に吹かれて転がり行く蓬(=ムカシヨモギ類);②落ちぶれて当てもなくさまよう。」“飄蓬”とは:「風に吹かれて転がり行く蓬(=ムカシヨモギ類);②落ちぶれて流浪する身のたとえ」と。
というわけで、後の二者を選ばずによかったな!と胸をなで下ろしています。現在までのところ、“落ちぶれてさまよい、流浪している”状態ではないと言えそうだからです。これら語句の意味あいの違いが、反映されていると思われる漢詩について、稿を改めて何首か読んでみたいと考えています。
ところで“蓬(=ムカシヨモギの類)”の記載中、“ムカシヨモギ”とはいったい如何なる植物なのでしょう? ”ムカシ……”とは、何か曰くがありそうです。少々理屈っぽいようですが、その辺を探ってみます。
昔、異国間で交易が始まった頃は、実物を持ち寄ってあるいは記憶に頼ってそれぞれの国の“対象とする物”の名称を持ち寄り、経験を重ねて、異国間で互いに通じ合う“翻訳語”ができていったと考えてよいでしょう。
想像するに、この当初の段階では、漢語“蓬”は、日本の“艾(ヨモギ)”に当たると理解されたようです。そこで“蓬”を日本で“よもぎ”と読むようになった と。しかし後に日本の“艾”と同一ではなく、誤訳であることが判ってきた。
それで漢語の“蓬”に当たる植物を“ムカシヨモギ”と翻訳しなおした。つまり“昔はヨモギと呼んでいたんですよ”と、非常に率直に告白する名称にしたわけです。これは今に生きる事実と言えるでしょう。
この変遷の時間経過は詳らかではありませんが、学問の進歩、特にラテン語学名による植物名称の世界統一的な記載方法の確立・発展があって、不適切な名称であることが明らかになったものと想像されます。
因みに日本の“艾(ヨモギ)”は、キク科“ヨモギ属(Artemisia)”の一種であり、勿論中国にも同種の植物はあり、漢語では“蒿hāo”と言われています。
一方、中国語では“蓬”に当たる植物は、キク科“飛蓬属(Erigeron)”と呼ばれており、この属に属する植物は200種ほどあるとのことです。つまりこの日本語訳も“ムカシヨモギ属”となったのです。
さて、興味の対象である、件の“飛蓬”とは、どのような植物で、日本のどの植物に相当するのか?先に記したように、“蓬”は、“飛蓬属(Erigeron)”に属していて、冬には枯れる一年生植物であることを基に探ってみました。
まず、『中国植物志』の“加拿大(カナダ)白酒草”の項で、「俗名:加拿大蓬、飛蓬、小飛蓬と言う」と言う記載があるらしい。この植物の学名は、Erigeron canadensisであり、それに相当する日本名の植物は、“ヒメムカシヨモギ”です。
第2の候補は、中国で“一年蓬(野蒿)”と呼ばれる植物。この学名は、Erigeron annuus L. pers.であり、日本のヒメジョオン(姫女菀)です。ヒメシオン(姫紫苑)とは異なるので要注意。
つまり、“飛蓬”とは、我々の身の周りにある“ヒメムカシヨモギ”又はヒメジョオン(姫女菀)であると考えられます。ただ風に吹かれて飛んでいく様子を目撃した経験はありません。機会を設けて専門家に確認したいものと思っています。
というか、「よもぎ」と「もぐさ」とは、同じものだった???
別々の植物と思ってました、、、。