愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題276 陶淵明(4) 園田の居に帰る 五首 其三 

2022-08-22 09:36:33 | 漢詩を読む

「わが家が目に入ると、うれしさの余り 思わず駆け出した。僮僕も喜んで迎えてくれたし、子供たちは門で待っていた。……、幼子を抱っこして、部屋に入ると、樽に満杯のお酒が用意されているではないか!」(帰去来兮辞)

 

意を決して官職を辞し 、“園田の居”に帰りついた時の様子です。心弾むさまが目に浮かびます。廬山の秀峰を南に眺めつつ、その麓での農耕生活が始まりました。気になるのはやはり天機自然の移ろい、期待が裏切られることのないようにと、祈る日々である。

 

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<漢詩および読み下し文> 

 帰園田居 五首 其三 

1種豆南山下、 豆を種(ウ)う 南山の下(モト)、

2草盛豆苗稀。 草 盛んにして 豆苗(トウビョウ)稀(マレ)なり。

3晨興理荒穢、 晨(アシタ)に興(オ)きて 荒穢(コウワイ)を理(オサ)め、

4帯月荷鋤帰。 月を帯びて鋤(スキ)を荷(ニナ)って帰る。

5道狭草木長、 道 狭(セマ)くして草木(ソウモク)長(ノ)び、

6夕露沾我衣。 夕露(セキロ) 我が衣(コロモ)を沾(ヌ)らす。

7衣沾不足惜、 衣の沾るるは惜(オ)しむに足(タ)らず、

8但使願無違。 但(タ)だ 願いを使(シ)て 違(タガ)うこと無からしめよ。

  註] 〇南山:廬山を指す、彼の住む村は廬山の北にあるから南山と言う。彼の生まれ

   育った所は潯陽郡柴桑(サイソウ)県(蕭統伝)、廬山の南麓である、その間に廬山の南から北へ

   転居(?)があったようである; 〇荒穢:雑草が生い茂って荒れ果てたさま。 

<現代語訳> 

1南山のふもとに豆を植えたが、

2畑には雑草がはびこり、豆の苗は情けない状態になってしまった。

3朝早く起きて雑草を抜いてまわり、

4月の光を帯びながら、鋤をかついで帰路につく。

5狭い道には雑草がしげり、

6着物は、夜露でぐっしょり濡れてしまった。

7着物が濡れるのは別段惜しいとは思わないが、

8どうか期待が裏切られることなく、豆が育ってくれますよう願うのみだ。

        [松枝茂夫・和田武司 訳註 『陶淵明全集(上)』岩波文庫に拠る] 

<簡体字およびピンイン>  

   帰园田居 其三   Guī yuántián jū  qí sān [上平声五微韻]  

 1种豆南山下、 Zhòng dòu nán shān xià,  

 2草盛豆苗稀。 cǎo shèng dòu miáo xī.    

 3晨兴理荒秽、 Chén xīng lǐ huāng huì,

 4带月荷锄归。 dài yuè hè chú guī. 

 5道狭草木长、 Dào xiá cǎo mù zhǎng、 

 6夕露沾我衣。 xī lù zhān wǒ . 

 7衣沾不足惜、 Yī zhān bù zú xī. 

 8但使愿无违。 dàn shǐ yuàn wú wéi.      

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「“おれはいつも酒を飲んで酔えたら満足だ”と言って、下吏に、公田には悉く酒の製造原料となる糯粟(モチアワ)を作るよう命じた。ところが妻子が“秔(ウルチ、粳)を作って下さい”と強って頼むので、やむなく2頃(ケイ)50畝(ホ)に糯粟を作らせ、あとの50畝に秔を作らせた。」(蕭統伝) 

 

此処でちょっと道草を。陶淵明家の“農家”としての生産性を垣間見てみます。まず耕作地 3頃の公田(官有の耕作地)について。一頃は100畝、1畝は約5アール強(陶淵明全集上)とされており、3頃は概算15ヘクタール(=150km2)となる。かなりの広さである。

 

公田では、下吏(下役人)が耕作に当たっている。他に伝来の開墾地がいかほどかあるに違いなく、その部は家族や下僕が担当したのであろう。耕作に携わる家族は、主に淵明自身および妻・翟(テキ)と従弟敬遠であり、5人の子供たちは、まだ手足まといの年頃であろう。

 

淵明は事あるごとに「貧しく……」とぼやいているが、公田の広さから推して、決して“貧農”の類ではないようだ。幼い頃に父が亡くなり、働き手の不足は“貧しさ”の一因ではあろう。しかし若い淵明の胸の内では諸々の葛藤があり、胸中、常に、必ずしも経済的意味ではない “貧しさ”を感じていたのではなかろうか。その心の内に分け入ってみたい。

 

人に抜きん出て渙発する自らの才に対する自負、家庭環境や江南地域の影響を受けて身に着けた儒教的教養に基づく理想の追求と信念を貫徹したいという強い意志、また寒門ながら身を興した曽祖父・陶侃を想い、自らも一時、大志を抱いていたであろうこと、一方、上に門閥の高級士族を肌に感じながら、下級士族の立場に甘んじなければならないという現実への苛立ち。

 

生まれ育ったところは江州潯陽郡柴桑県、廬山の南麓である。北東には長江に沿い、鄱陽湖が広がる田園地帯である。廬山の景勝と周りの田園風景は、淵明の精神的拠り所であり、自然に親しみ、閑静な生活への憧れを育んでいったに違いない。

 

これら諸々の思いが淵明の胸の内で常に去来していたであろうと想像されます。結局、園田の居に帰るよう決意するに至った。41歳 (405)、“帰去来兮辞”を書き、故郷に帰った。以後、再度出仕することなく、酒を友として、農耕と詩作に没頭する隠遁の生活を続けることになる。

 

ここで淵明が生活の糧を求めて右往左往した頃の政情を見ておきます。戦乱から江南に逃れた司馬睿(初代皇帝・元帝)は建康(現南京)に都して東晋を興した(318)。第10代安帝(在位396~403)当時、軍部は江陵に拠る西府軍と京口(現鎮江)に拠る北府軍と対抗していた。

 

西府軍では桓玄が、荊州刺史として一大勢力を築いている。399年五斗米道の指導者孫恩による反乱が起こり、建康は危機的状況に陥る。この乱は、一応北府軍の劉牢之と劉裕により鎮圧された。しかし桓玄は、孫恩の乱鎮圧を名目に建康に迫った。淵明が参軍として桓玄に仕えたのはその頃であるが、淵明は間もなく辞職して故郷に帰っている。

 

桓玄は、首都に入城して政敵を排除し、安帝を排して帝位を簒奪、自ら皇帝に即位し、国号を楚とした(桓楚、403)。クーデターである。同時に北府軍を圧迫して実力者劉牢之を追放して自殺に追い込むなど、北府軍の反感を買う。

 

劉牢之の死後、北府軍のリーダーとなった劉裕が挙兵、桓玄軍を破り、桓玄を殺害して首都を奪回した(404)。桓玄は三日天下に終わったのである。劉裕は、安帝を復位させて東晋を再興する。淵明が参軍として劉裕に仕えたのはその頃である。淵明が桓玄のクーデターに、偶然にも、参加していなかったことは、劉裕の心証によく映ったであろう。

 

東晋が再興されたとはいえ、もはや皇帝に権力はなく、再興の功労者である劉裕が政・軍を掌握していた。以後、各地で起こった乱を平定し、その武勲により強大な権力を得た劉裕は、安帝を殺害、その弟の恭帝を擁立した。次いで恭帝から禅譲を受けて南朝宋(劉宋)を興した(420、淵明56歳)。東晋は滅亡した。

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