愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 151 飛蓬-58 小倉百人一首:(良暹法師) 寂しさに

2020-06-20 16:44:01 | 漢詩を読む
(70番) 寂しさに 宿を立ち出でて 眺むれば
       いづこも同じ 秋の夕暮れ
               良暹法師(リョウゼンホウシ)、(『後拾遺和歌集』)
<訳> あまりの寂しさに堪えかねて、自分の住まいを出てあたりを見渡してみると、結局どこも同じ、寂しい秋の夕暮れであることだ。(板野博行)

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一人でいてあまりの寂しさに庵を出て、外を見渡してみると、どこも同じように寂しい秋の夕暮れの情景であるな と独り言ちています。色づいた木の葉、風の音や虫の鳴き声等々、すっかり秋の気配の中にいる孤独な自分を感じたのでしょう。

作者は、修行の場・比叡山を降りて、京都・大原に庵を結んだ。その折の秋の夕暮れのひと時という。多くの僧と集団生活をしていただけに、修行中の身とは言え、一人でいることの寂しさが、ひしひしと胸に迫ってきたのでしょう。

庵を出て、遠くを望むと涼やかな秋の微風にススキの穂が揺れている。近くの庭の竹林の影では、漏れ出た夕日を浴びた草むらでコオロギが鳴き始めた。このような風景の中の庵を想像して、上の歌を五言絶句の漢詩にしました。下記ご参照。

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<漢字原文および読み下し文> [下平声十二侵韻]
秋夕片刻  秋の夕の片刻(ヒトトキ)
微風薄穗蕩、 微風(ソヨカゼ)に薄(ススキ)の穗(ホ)蕩(ユ)れ、
竹影促織吟。 竹影に促織(ソクショク)吟(ギン)ず。
因寂出庵眺、 寂(サビシサ)因(ユエ)に 庵を出でて眺(ナガ)むれば、
秋夕遍処深。 遍処(イズコ)も秋の夕(ユウ)の気配 深し。
 註]
薄:ススキ。         促織:コオロギ。
眺:見渡す。
  
<現代語訳>
 秋の夕暮れのひと時
そよ風が吹いて薄の穂が揺れ動き、
庭の竹の影では、コオロギの鳴き声が聞こえる。
寂しさゆえに、庵を出てあたりを見渡してみると、
いずこもすっかり寂しい秋の夕暮れの気配である。

<簡体字およびピンイン>
 秋夕片刻 Qiū xī piànkè
微风芒穗荡 Wéifēng máng suì dàng,
竹影促织吟 zhú yǐng cùzhī yín. 
因寂出庵眺 Yīn jì chū ān tiào,
秋夕遍处深 qiū xī biànchù shēn.
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冬の季節はとりわけ寂しさが増す。人や草木もすべて生き物の息吹が感じられなくなるから とする歌を、前回(閑話休題150)対象としました。今回は秋の季節、特に“秋の夕暮れ”を詠った歌を2,3取り上げ、読んでみます。

万葉集では、大部分の歌が何らかの形で季節を詠み込んでおり、中でも“秋”を詠った歌が最も多いという。その内容は多義に渡っていて、収穫、人恋しさ、旅情等々、秋ならではの情景を風、虫や動物、花や草木の変化などを通して詠っている と。

古来、秋の季節は日本人の感性に響く何かがあるということでしょうか。日が徐々に短くなる、草木は葉を落とし……と、諸々の事象が衰亡に向かうように見えて、ややもすると、“寂しい・わびしい”との“想い”に傾く傾向があります。日が落ちる“夕暮れ”はとくにその感が強いようです。

当然のことながら、“寂しい・わびしい”という思いだけに拘っていてはならないであろうことを“秋の夕暮れ” の歌を通して考えてみたいと思います。“秋の夕暮れ”が歌に登場するのは、今回取り上げた良暹法師の歌が最古らしい。

“秋の夕暮れ”の表現は、『古今和歌集』(913完、第一勅撰和歌集)以前の歌集では見当たらず。『後拾遺和歌集』(1086完、第四)に初めて今回話題の歌があり、『新古今和歌集』(1205完、第八)の頃、多く詠われるようになった と。

清少納言は、「秋は夕暮。……、いとおかし。 日入り果てて、風の音、虫の音など、はた いふべきにもあらず(改めて言うまでもない)」(枕草子、1000頃完)と述べている。以後の歌人たちはこの影響を受けたと言えるのでしょうか。但し“いとおかし(情趣深い)”であり、“寂しい”ではありません。

『新古今和歌集』に“秋の夕暮れ”を詠った百人一首歌人の歌3首が並んで載っており「三夕(サンセキ)」と呼ばれていて、有名である。それら3首が百人一首に取り上げられているわけではないが、“秋の夕暮れ”を語るには絶好の歌群と言えます。以下に示しました。

三石の歌(訳はいずれも小倉山荘氏に拠った):
さびしさは その色としも なかりけり まき立つ山の 秋の夕暮れ(寂連法師)
[寂しさを感じさせるのはどの色というものではなかったな 真木(=杉や桧)の立つ山の秋の夕暮れをみて気づいたよ]

心なき 身にもあはれは しられけり しぎたつ澤の 秋の夕暮れ(西行法師)
[世を捨てたこの身にも情緒は感じられるものだ 鴫(シギ)の飛び立つ川の秋の夕暮れには]

見渡せば 花も紅葉も なかりけり 裏のとまやの 秋の夕暮れ(藤原定家)
[見渡してみると春の花も秋の紅葉もないのだった 海辺の苫屋(=漁師の小屋)の秋の夕暮れは]

“秋の夕暮れ”に、良暹法師は、周りのあらゆる事物に“さびしさ”を感じています。寂連法師(百人一首87番)は、特にこの色だから秋を感ずるというのではなく、常緑樹の山を見て“さびしさ”を感じています。秋の“寂しさ”を感じるのは、人間自身の心の中にある“寂しさ”によるものであるとしているようです。

西行法師(同86番、閑話休題114参照)は、秋の夕暮れに、渓流から鴫鳥が飛び立つのを見て“あわれ”を覚えた と。世を捨てた身だからといって“あわれ”の情が失われるものではない と。寂しさとは異なる、ある種の“情趣”を詠っています。

定家(同97番)は、海辺で“花もない、紅葉もない”無彩色の世界で“感ずること”があったという。ただ“無彩色のように見えて、実は心の中では”花・紅葉“”を想像していることを忘れてはなるまい。如何なる感動であろうか?

本より花や紅葉の存在を期待できない海辺で、花や紅葉を心に想い描き、敢えて“花もない、紅葉もない”と訴えている、その心は? 花や紅葉、言い換えれば、“華やかさ”に対する非常な“こだわり”を感じます。背景のみすぼらしい漁師の苫屋がひと際引き立てているように思われます。

さて話題の歌の作者・良暹法師は、平安中期の僧・歌人。生没年不詳、出自、経歴も不明である。比叡山の僧で、祇園別当となり、その後大原に隠棲し、晩年は雲林院(京都・紫野)に住んだと言われている。1038年9月の「権大納言師房家歌合」などいくつかの歌合に出詠しているという。
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