ドラマの展開を見ます。今回の主人公は、差し詰め第十三皇子で、なるほど“命知らず”と言われているわけだ、と納得させられます。
先に紫禁城での‘中秋の宴’において、若曦が毛沢東の詩を詠じて、危うく難を逃れ、逆に康熙帝から褒美を賜る場面を見ました(閑話休題32)。その後、宴の中で、康熙帝は、第十皇子に対して、「歳の頃もよし、明玉を嫡福晋に」とのお勧めがあった。
胸中に若曦への強い想いがある第十皇子は、言を左右にして何とか断ろうとする。宴の場が険悪な空気に包まれる中、第八皇子らのとりなしで不承不承ながら「お受け致します」と。皇帝の言葉は絶対で、逆らえば反逆罪に問われるのです。
第十皇子と明玉の婚約成立の機を境にして、若曦と第十三皇子は一見暗鬱な日々を送っているように見えた。特に、若曦は、以後、数日間は床に伏してしまうほどである。
周りの人々は、若曦が第十皇子を、第十三皇子が明玉をひそかに想っていたのではないかと訝る。若曦と第十三皇子の当人同志でさえ、お互いに相手に対して同様の疑念を抱いている。実際は、彼ら二人は、それぞれ別の悩みを抱えていたのである。
後日、第十皇子と明玉の婚儀の披露宴の折、「ともに傷心か!付き合え!」と、第十三皇子は、若曦を抱えて、馬に跨り、山中に入り、焚火を焚き、酒を酌み交わしつつ、飲み明かす。二人して婚儀の披露宴をドタキャンしたのである。
酔うほどに、若曦は、「私はこの時代の人ではありません。300年後の現代人です」と告白する。第十三皇子は「???」。話は弾み、第十三皇子は、若曦の話に完全に感化、洗脳(?)されたようである。
後ほど、第十三皇子が第十四皇子に向かって、「“自由と平等”という思想を知っているか?人間は生まれながらに身分の貴賤や民族の区別はなく、思うがまゝに人生を送れる。天子でさえ運命を決める権利はない。」と、語る。
対して、第十四皇子は、「有り得ない!儒教の教えに反する。反逆罪で、斬首に値する。すべては天子が決めるのだ」と一蹴する。第十四皇子のこの考えは、当時(清代)の、恐らく、絶対的な“思想”であったろう。
第十三皇子が、同時代人に対して吹聴することができる程度に、“自由平等”の思想を理解できた、という事実は、彼が“命知らず”と言われる所以の一面を表しているように思われる。
別の機会に、「楚の襄王に夢あれど神女に心なし」、と若曦が第十三皇子をからかう場面があった。対して、皇子:「自分が明玉を好きだと思っていたのか?」。若曦:「では何故婚儀の夜、つらそうにしていた?」;皇子:「母の命日だった。古いことで、陛下は忘れていた」と。第十三皇子が暗鬱な日々を送っていた理由である。
この若曦の引用句「楚の襄王に夢あれど神女に心なし」には解説が要る。この句は、戦国時代末期の楚の国の詩人、宋玉(ソウギョク)(BC290~BC223)の作品『神女賦』に拠る。この賦の内容は概略次の様である。
楚の襄王(第21代;BC298~BC263)と宋玉が“雲夢(ウンボウ)の裏”で遊んだ折、襄王が昼寝をした。そこで夢の中に、非常に美しく、身のこなしが雅やかで、高貴な感じの一女性・神女が現れる。襄王はすっかり虜になり、誘いをかけるが、神女からそっぽを向かれる。
つまり、先の句は、俗に“片思い”という意味で使われているようである。勿論、宋玉の『神女賦』の意味するところは別にあるようですが、その点は後に触れます。なお“賦”とは、“韻を踏む文”で、屈原以来発展した文学形式で、宋玉はその大家である由。
実は、宋玉には『高唐赋』と呼ばれる作品があり、これは『神女賦』に先立って作られたようです。この作品の内容は、後世の漢詩と深い関連があるので、少し詳しく見て行きます。
宋玉は、楚の国の政治家で詩人の屈原(BC343?~BC277?)の弟子と言われている。屈原は、王族出身の人で、外交の才に勝れていて、懐王(第20代;BC328~BC299)の信任が厚かったが、誹謗する者がいて、国から放逐された。
国を追われた屈原は、南方をさまよったあげく、洞庭湖に注ぐ湘江の支流、汨羅(ベキラ)川の淵に身を投じた。その命日は、旧歴5月5日、屈原を祀る行事で、わが国でも“端午の節句”として今日名残をとどめている。
宋玉の “高唐赋”は、かなり長い作品であるが、後の世ではその“序の部”が有名になっています。その概要は以下の通りです。
襄王が宋玉を伴って雲夢の裏の高唐(コウトウ)の館に遊んだことがあった。巫山の楼台の上を見上げると不思議な雲が掛かっていて、立ち昇るかと思うと、急に姿を変え、変幻極まりない。そこで襄王は宋玉に
「これは如何なる雲か?」 と訊ねると、宋玉は、
「これは朝雲(チョウウン)と申します。」と言った。さらに襄王は、「朝雲とはどういうことか」と問うと、宋玉は以下のように解説した:
『昔、先王が高唐に遊んだ時のことである。饗宴のはて、少々疲れたので、しばらく横になって昼寝をした。うとうととまどろんで、夢とも現(うつつ)ともつかぬうちに艶(あで)やかな一人の女性・神女が現れた。
神女は、「私は巫山(フザン)に住む者ですが、高唐に来てみると、貴方様もここに いらっしゃると聞きましたので、参りました。 どうか枕をともにさせてください。そこで先王は、同衾してその女性を寵愛した。
やがて別れの時が来ると、その女性は、「私は巫山の南の嶮に住んでいますが、朝(アシタ)には雲となって山にかかり、 夕には雨となって山に降り、朝な夕なあなたの傍にまいります」 と言って、姿を消した。』
不思議な夢から醒めた王が、翌早朝に巫山の方を眺めてみると、夢の中の神女が言った通り、巫山には美しい光をうけた朝雲が漂っていた。王はその神女を偲んで廟を建てさせてこれを「朝雲廟(チョウウンビョウ)」と名付けた、と。
興味を引くのは、夢見る王が、“高唐赋”では“先王”であり、『神女賦』では“襄王”となっている点です。宋玉は、「先王は、子孫繁栄、五穀豊穣で国を富ませ、一方、襄王は、その逆である」と批判する意図があったものと解釈されています。
後世、この“高唐赋”の序文を基にして、“巫山の夢”、“高唐の夢”、“朝雲暮雨”などの四字術語、または“朝雲”、さらには“朝”や“雲”、“雨”などの一字で、男女の親しい関係や情交を表現するようになっているのです。(本文はつづく)
上記の『 』で囲んだ部分の原文と読み下し文を参考までに下に示した。
xxxxxxxxxx
高唐赋 并序(抄) 宋玉
<原文(部分)>
昔者先王嘗遊高唐、怠而昼寝。夢見一婦人、曰、
「妾巫山之女也。為高唐之客。聞君遊高唐,願薦枕席。」
王因幸之。
去而辞曰、
「妾在巫山之陽,高丘之阻。旦為朝雲,暮為行雨。朝朝暮暮,陽台之下。
<読み下し文>
昔(ムカシ) 先王 嘗(カツ)て高唐に遊び、怠(オコタ)りて 昼寝す。夢に一婦人見えて、曰(イワ)く、
「妾(ショウ)は巫山の女也。高唐の客と為(ナ)る。君 高唐に遊ぶを聞く,願わくは枕席(チンセキ)を薦(スス)めん。」
王 因(ヨ)って之を幸とす。
去るに辞(ジ)して 曰く、
「妾 巫山の陽,高丘の阻(ソ)に在り。旦(タン)に朝雲(チョウウン)と為(ナ)り,暮に行雨(コウウ)と為る。朝朝暮暮(チョウチョウボボ),陽台の下。
先に紫禁城での‘中秋の宴’において、若曦が毛沢東の詩を詠じて、危うく難を逃れ、逆に康熙帝から褒美を賜る場面を見ました(閑話休題32)。その後、宴の中で、康熙帝は、第十皇子に対して、「歳の頃もよし、明玉を嫡福晋に」とのお勧めがあった。
胸中に若曦への強い想いがある第十皇子は、言を左右にして何とか断ろうとする。宴の場が険悪な空気に包まれる中、第八皇子らのとりなしで不承不承ながら「お受け致します」と。皇帝の言葉は絶対で、逆らえば反逆罪に問われるのです。
第十皇子と明玉の婚約成立の機を境にして、若曦と第十三皇子は一見暗鬱な日々を送っているように見えた。特に、若曦は、以後、数日間は床に伏してしまうほどである。
周りの人々は、若曦が第十皇子を、第十三皇子が明玉をひそかに想っていたのではないかと訝る。若曦と第十三皇子の当人同志でさえ、お互いに相手に対して同様の疑念を抱いている。実際は、彼ら二人は、それぞれ別の悩みを抱えていたのである。
後日、第十皇子と明玉の婚儀の披露宴の折、「ともに傷心か!付き合え!」と、第十三皇子は、若曦を抱えて、馬に跨り、山中に入り、焚火を焚き、酒を酌み交わしつつ、飲み明かす。二人して婚儀の披露宴をドタキャンしたのである。
酔うほどに、若曦は、「私はこの時代の人ではありません。300年後の現代人です」と告白する。第十三皇子は「???」。話は弾み、第十三皇子は、若曦の話に完全に感化、洗脳(?)されたようである。
後ほど、第十三皇子が第十四皇子に向かって、「“自由と平等”という思想を知っているか?人間は生まれながらに身分の貴賤や民族の区別はなく、思うがまゝに人生を送れる。天子でさえ運命を決める権利はない。」と、語る。
対して、第十四皇子は、「有り得ない!儒教の教えに反する。反逆罪で、斬首に値する。すべては天子が決めるのだ」と一蹴する。第十四皇子のこの考えは、当時(清代)の、恐らく、絶対的な“思想”であったろう。
第十三皇子が、同時代人に対して吹聴することができる程度に、“自由平等”の思想を理解できた、という事実は、彼が“命知らず”と言われる所以の一面を表しているように思われる。
別の機会に、「楚の襄王に夢あれど神女に心なし」、と若曦が第十三皇子をからかう場面があった。対して、皇子:「自分が明玉を好きだと思っていたのか?」。若曦:「では何故婚儀の夜、つらそうにしていた?」;皇子:「母の命日だった。古いことで、陛下は忘れていた」と。第十三皇子が暗鬱な日々を送っていた理由である。
この若曦の引用句「楚の襄王に夢あれど神女に心なし」には解説が要る。この句は、戦国時代末期の楚の国の詩人、宋玉(ソウギョク)(BC290~BC223)の作品『神女賦』に拠る。この賦の内容は概略次の様である。
楚の襄王(第21代;BC298~BC263)と宋玉が“雲夢(ウンボウ)の裏”で遊んだ折、襄王が昼寝をした。そこで夢の中に、非常に美しく、身のこなしが雅やかで、高貴な感じの一女性・神女が現れる。襄王はすっかり虜になり、誘いをかけるが、神女からそっぽを向かれる。
つまり、先の句は、俗に“片思い”という意味で使われているようである。勿論、宋玉の『神女賦』の意味するところは別にあるようですが、その点は後に触れます。なお“賦”とは、“韻を踏む文”で、屈原以来発展した文学形式で、宋玉はその大家である由。
実は、宋玉には『高唐赋』と呼ばれる作品があり、これは『神女賦』に先立って作られたようです。この作品の内容は、後世の漢詩と深い関連があるので、少し詳しく見て行きます。
宋玉は、楚の国の政治家で詩人の屈原(BC343?~BC277?)の弟子と言われている。屈原は、王族出身の人で、外交の才に勝れていて、懐王(第20代;BC328~BC299)の信任が厚かったが、誹謗する者がいて、国から放逐された。
国を追われた屈原は、南方をさまよったあげく、洞庭湖に注ぐ湘江の支流、汨羅(ベキラ)川の淵に身を投じた。その命日は、旧歴5月5日、屈原を祀る行事で、わが国でも“端午の節句”として今日名残をとどめている。
宋玉の “高唐赋”は、かなり長い作品であるが、後の世ではその“序の部”が有名になっています。その概要は以下の通りです。
襄王が宋玉を伴って雲夢の裏の高唐(コウトウ)の館に遊んだことがあった。巫山の楼台の上を見上げると不思議な雲が掛かっていて、立ち昇るかと思うと、急に姿を変え、変幻極まりない。そこで襄王は宋玉に
「これは如何なる雲か?」 と訊ねると、宋玉は、
「これは朝雲(チョウウン)と申します。」と言った。さらに襄王は、「朝雲とはどういうことか」と問うと、宋玉は以下のように解説した:
『昔、先王が高唐に遊んだ時のことである。饗宴のはて、少々疲れたので、しばらく横になって昼寝をした。うとうととまどろんで、夢とも現(うつつ)ともつかぬうちに艶(あで)やかな一人の女性・神女が現れた。
神女は、「私は巫山(フザン)に住む者ですが、高唐に来てみると、貴方様もここに いらっしゃると聞きましたので、参りました。 どうか枕をともにさせてください。そこで先王は、同衾してその女性を寵愛した。
やがて別れの時が来ると、その女性は、「私は巫山の南の嶮に住んでいますが、朝(アシタ)には雲となって山にかかり、 夕には雨となって山に降り、朝な夕なあなたの傍にまいります」 と言って、姿を消した。』
不思議な夢から醒めた王が、翌早朝に巫山の方を眺めてみると、夢の中の神女が言った通り、巫山には美しい光をうけた朝雲が漂っていた。王はその神女を偲んで廟を建てさせてこれを「朝雲廟(チョウウンビョウ)」と名付けた、と。
興味を引くのは、夢見る王が、“高唐赋”では“先王”であり、『神女賦』では“襄王”となっている点です。宋玉は、「先王は、子孫繁栄、五穀豊穣で国を富ませ、一方、襄王は、その逆である」と批判する意図があったものと解釈されています。
後世、この“高唐赋”の序文を基にして、“巫山の夢”、“高唐の夢”、“朝雲暮雨”などの四字術語、または“朝雲”、さらには“朝”や“雲”、“雨”などの一字で、男女の親しい関係や情交を表現するようになっているのです。(本文はつづく)
上記の『 』で囲んだ部分の原文と読み下し文を参考までに下に示した。
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高唐赋 并序(抄) 宋玉
<原文(部分)>
昔者先王嘗遊高唐、怠而昼寝。夢見一婦人、曰、
「妾巫山之女也。為高唐之客。聞君遊高唐,願薦枕席。」
王因幸之。
去而辞曰、
「妾在巫山之陽,高丘之阻。旦為朝雲,暮為行雨。朝朝暮暮,陽台之下。
<読み下し文>
昔(ムカシ) 先王 嘗(カツ)て高唐に遊び、怠(オコタ)りて 昼寝す。夢に一婦人見えて、曰(イワ)く、
「妾(ショウ)は巫山の女也。高唐の客と為(ナ)る。君 高唐に遊ぶを聞く,願わくは枕席(チンセキ)を薦(スス)めん。」
王 因(ヨ)って之を幸とす。
去るに辞(ジ)して 曰く、
「妾 巫山の陽,高丘の阻(ソ)に在り。旦(タン)に朝雲(チョウウン)と為(ナ)り,暮に行雨(コウウ)と為る。朝朝暮暮(チョウチョウボボ),陽台の下。
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