愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題324 飛蓬-177  天の原 ふりさけみれば 三代将軍 源実朝

2023-03-20 10:01:17 | 漢詩を読む

“天の原 ふりさけみれば”の句は、万葉集に多くみられるという。最も身近に感じられるのは、遣唐使・阿部仲麿の歌で、百人一首にも撰されている歌が思い出されます。本歌は、一種の“本歌取り”の歌と言えようか。

 

実朝の歌では、澄み切った秋の夜空に皓皓と輝く月光の下、清澄な空気感に浸りつゝ、何事か思いに耽っていて、時の経つのを忘れ、気がつくと随分と夜も更けていることだよ と我に返った所を詠っているように思われる。

 

ooooooooooooo 

  [詞書] 月歌とて 

天の原 ふりさけみれば 月きよみ

  秋の夜いたく 更けにけるかな 

          (金槐集 秋・210; 新拾遺集 巻五 秋下 425) 

 (大意) 大空を仰ぎ見れば、月がさやかに照っていて、秋の夜がひどく

  更けてしまっているよ。

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<漢詩> 

  清澄月夜    清澄(セイチョウ)な月夜  [下平声八庚韻] 

仰望長天眼界清, 長天(チョウテン)を仰望(ギョウボウ)すれば 眼界(ガンカイ)清く,

月輪皓皓露晶晶。 月輪(ゲツリン)皓皓(コウコウ)として露 晶晶(ショウショウ)たり。

無声氣爽月光徹, 声無く 氣 爽やかにして月光徹(トオ)る,

知是素秋已深更。 知る是(コ)れ 素秋(ソシュウ) 已(スデ)に深更(シンコウ)。

 註] 〇仰望:仰ぎ見ること; ○長天:果てしなく広い空; ○眼界:視界; 

  〇月輪:まるい月; 〇皓皓:清く明らかなさま; 〇晶晶:きらきら輝

   くさま; 〇徹:射る、突き刺す; 〇素秋:秋。

<現代語訳> 

  澄んだ秋月夜 

澄み切った大空をふりさけ見れば視界は澄んで、

円い月は皓皓として輝き、草葉に置く露滴がキラキラと輝いている。

物音一切なく、外気は爽やかにして、月光が射しており、

秋の季節、すでに夜更けの頃であるよ。

<簡体字およびピンイン> 

   清澄秋月夜     Qīng chéng qiū yuè yè 

仰望长天眼界清, Yǎngwàng cháng tiān yǎnjiè qīng,  

月轮皓皓露晶晶。 yuè lún hào hào lù jīng jīng.

无声气爽月光彻, Wú shēng qì shuǎng yuèguāng chè,   

知是素秋已深更。 zhī shì sùqiū yǐ shēn gēng.

ooooooooooooo 

 

歌人・実朝の誕生 (18) 

 

歌人・実朝 総仕上げの師と言える藤原定家(1162~1239)の生涯を概観しておきます。定家は、和歌史における一時期を画した偉人の一人と言えよう。歌人・俊成の次男で、16歳の頃、和歌の学習を始めたようである。

 

20歳時(1181年)、『初学百首』、翌年、父の命により『堀河題百首』を詠んでいる。その折、両親は、息子の歌才を確信して感涙したという。なお、当時、歌百首を詠ずることが歌人としての出発宣言の意味もあったようである。

 

1186年(25歳)、西行法師の勧進により、伊勢神宮に奉納するために詠まれた歌集『二見浦百首』ができた。その中の一首に、定家作の次の歌がある。この歌は『新古今集』にも撰されている。

 

見渡せば 花も紅葉も なかりけり 

  浦の苫(トマ)屋の 秋の夕暮れ    (新古今集 秋上・363)

 (大意) 見渡してみると、美しく咲く花も見事な紅葉もない。海辺の粗末 

  な苫葺きの小屋だけが目に映る、秋の夕暮れであるよ。 

 

秋の夕暮れの寂寞とした情趣を詠ったものであるが、まず美しい情景を提示し、後にそれらを否定することにより、一層侘しさが強調されている。平安時代、和歌の常識が、美しい花鳥風月を見たままを中心に詠むことが当然であったが、それを否定しており、定家・新風提示の歌と言えます。 

 

その頃から、定家は、九条家に家司(ケイシ、家政の事務を司った職)として仕え、良経を中心に九条家歌壇で俊成、慈円、寂蓮、西行等々と交わり、活発に作歌活動を展開し、徐々に仲間も増え、新風も輪を広げていきます。

 

一方、後鳥羽院が和歌に執心するようになり、1200年、定家を含む23名に百首の詠歌を命じられた。以後、定家は、院の愛顧を承けるようになり、宮廷歌壇を中心に定家の歌風が世に受け入れられるようになっていく。

 

更に後鳥羽院は、定家を宮廷歌壇の首位に抜擢するに至ります。翌年、院は『新古今集』の編纂を下命し、定家も撰者の一人に撰ばれた。異端児から歌壇の権威へと躍り出ることになります。

 

その頃、将軍実朝との交流が始まり、1205年には未公開の『新古今集』を実朝に献上、1209年、実朝は歌30首定家に送る。一方、定家は『近代秀歌』を献上している。1213年には実朝の『金槐和歌集』が成立している。

 

1220年(59歳)、内裏歌会に提出した定家の歌が後鳥羽院の怒りに触れ、勅勘を被って、公の出座・出詠を禁ぜられる。異端児から歌壇の中心歌人へと 抜擢した院と袂を分かつことになった。

 

しかし1221年、承久の乱が勃発、院は隠岐に流刑となる。一方、院と袂を分かち謹慎していた定家は、西園寺家や九条家の引き立てによって、再び歌人として活動できるようになった。

 

1232年(71歳)、後堀河天皇の命で『新勅撰和歌集』を 一人で3年かけて編集。また1235年、宇都宮頼綱の求めにより嵯峨中印山荘の障子色紙形(小倉色紙)、後の「小倉百人一首」を撰している。後鳥羽院の崩御(1239) 2年後、80歳で薨御した。

 

定家は、六条家など旧派の歌人たちから「ヘンな歌を詠む」異端児とされ、その歌風は大論争を巻き起こした。さらに定家は、『源氏物語』や『白氏文集』などの古典に学び、想いを得て作る「本歌取り」の技法を確立した。

 

後世、定家は、巧緻・難解、耽美主義的・夢幻的で、代表的な新古今調の歌人と評されるようになる。著・編書には、2勅撰和歌集の撰進の他、秀歌撰、歌論書、家集、また『源氏物語』他古典の書写・注釈などがある。

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