お酒の話はちょっと置いて、張継の「楓橋夜泊」を読みながら、日本との因縁浅からぬ蘇州・寒山寺の鐘について触れます。
今日、“寒山寺”と言えば、“張継”、あるいは“張継”と言えば、“寒山寺”と、切り離せない関係で語られます。小さな仏教寺院であった寒山寺が、名刹となるには、この名作「楓橋夜泊」の力が大きに関わっていると考えられています。
この詩では、まず夕方の月と烏、江上の漁火に照らし出された岸辺の楓、と川辺の色彩豊かな秋の情景が思い浮かびます。塒(ネグラ)に帰る烏の声が遥かに去って、寝付かれぬ中で、やがてお寺の鐘がボーンと船に届いて、夜半であることを知る。何となく物憂い念に駆られます。
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楓橋夜泊 張継
<原文> <読み下し文>
月落烏啼霜満天、 月(ツキ)落ち 烏(カラス)啼(ナ)いて 霜 天に満(ミ)つ、
江楓漁火対愁眠。 江楓(コウフウ)漁火(ギョカ) 愁眠(シュウミン)に対す。
姑蘇城外寒山寺、 姑蘇(コソ)城外(ジョウガイ)の寒山寺(カンザンジ)、
夜半鐘声到客船。 夜半(ヤハン)の鐘声(ショウセイ) 客船(カクセン)に到(イタ)る。
註]
漁火:夜間、魚を集めるために漁船で焚くかがり火
<現代語訳>
月が沈み、烏が啼いて、霜の降りる気配が天に満ちており、
岸辺には楓、水面には漁火が浮かび、旅の夜の寝付かれぬ目に映る。
そこへ蘇州の町はずれの寒山寺から、
夜半を告げる鐘の音が、我が乗る小船に聞こえてきた。
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日本でも古くからよく読まれていた唐時代の詩を集めた詩選集に、南宋時代の『三体詩』(周弼編)と明時代の『唐詩選』(李攀竜編)がある。「楓橋夜泊」はこれら両書に選ばれた数少ない詩の一つの様で、名作たる所以であろう。
以下、この詩の背景を覗いて見たいと思います。
作者の張継について伝記は、残念ながら、非常に少ない。出身は湖北省襄州(現襄陽市)ですが、生没年は定かではありません。ただ753年進士に合格、官職に就き、鎮戎軍幕府の属官や塩鉄判官などの官職を得ています。
進士に合格後間もなく、安史の乱(755~763)に逢っており、伝記資料が少ない理由の一つでしょうか。
安史の乱の折、江南に逃れて、現在の紹興や杭州、蘇州などを歴遊したようです。「楓橋夜泊」は、この歴遊中に作られた作品なのでしょうか?
一方、張継が一介の科挙の受験生であったころ、試験に落ちて、江南地方を歴遊し、寒山寺近くを訪れて船中で一夜を過ごす機会があった。その折、旅愁と失意で眠れぬ中で詠まれた詩であるとも言われています。
戦乱を逃れて、国の乱れを憂える心境で詠った と言うよりは、科挙に落第した失意を胸に、船中に届いた夜半の鐘の音に促されて作った との想像がピッタリ来るように思われます。
766年に官職に復帰して、検校祠部郎中となる。770年洪州(現江西省南昌)に地方官として転出。そこで亡くなった由(779年?)。博識で議論好きな性格で、政治に明るく、公正な政治家であったとの評判があった由。
この詩の結句に関して、宋代に欧陽脩から、‘真夜中に鐘を突くか?’という疑問が提示されて、以後、議論が沸騰した様です。文献上や、他の詩人の詩中などに記載があるようで、当時には‘夜半の鐘’はあったもののようです。
張継の詩集に『張祠部詩集』1巻があり、47首の詩が収められているとのことである。
寒山寺については、特に“鐘”をめぐって、日本と関りが深いようですので、稿を改めて触れることにます。
今日、“寒山寺”と言えば、“張継”、あるいは“張継”と言えば、“寒山寺”と、切り離せない関係で語られます。小さな仏教寺院であった寒山寺が、名刹となるには、この名作「楓橋夜泊」の力が大きに関わっていると考えられています。
この詩では、まず夕方の月と烏、江上の漁火に照らし出された岸辺の楓、と川辺の色彩豊かな秋の情景が思い浮かびます。塒(ネグラ)に帰る烏の声が遥かに去って、寝付かれぬ中で、やがてお寺の鐘がボーンと船に届いて、夜半であることを知る。何となく物憂い念に駆られます。
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楓橋夜泊 張継
<原文> <読み下し文>
月落烏啼霜満天、 月(ツキ)落ち 烏(カラス)啼(ナ)いて 霜 天に満(ミ)つ、
江楓漁火対愁眠。 江楓(コウフウ)漁火(ギョカ) 愁眠(シュウミン)に対す。
姑蘇城外寒山寺、 姑蘇(コソ)城外(ジョウガイ)の寒山寺(カンザンジ)、
夜半鐘声到客船。 夜半(ヤハン)の鐘声(ショウセイ) 客船(カクセン)に到(イタ)る。
註]
漁火:夜間、魚を集めるために漁船で焚くかがり火
<現代語訳>
月が沈み、烏が啼いて、霜の降りる気配が天に満ちており、
岸辺には楓、水面には漁火が浮かび、旅の夜の寝付かれぬ目に映る。
そこへ蘇州の町はずれの寒山寺から、
夜半を告げる鐘の音が、我が乗る小船に聞こえてきた。
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日本でも古くからよく読まれていた唐時代の詩を集めた詩選集に、南宋時代の『三体詩』(周弼編)と明時代の『唐詩選』(李攀竜編)がある。「楓橋夜泊」はこれら両書に選ばれた数少ない詩の一つの様で、名作たる所以であろう。
以下、この詩の背景を覗いて見たいと思います。
作者の張継について伝記は、残念ながら、非常に少ない。出身は湖北省襄州(現襄陽市)ですが、生没年は定かではありません。ただ753年進士に合格、官職に就き、鎮戎軍幕府の属官や塩鉄判官などの官職を得ています。
進士に合格後間もなく、安史の乱(755~763)に逢っており、伝記資料が少ない理由の一つでしょうか。
安史の乱の折、江南に逃れて、現在の紹興や杭州、蘇州などを歴遊したようです。「楓橋夜泊」は、この歴遊中に作られた作品なのでしょうか?
一方、張継が一介の科挙の受験生であったころ、試験に落ちて、江南地方を歴遊し、寒山寺近くを訪れて船中で一夜を過ごす機会があった。その折、旅愁と失意で眠れぬ中で詠まれた詩であるとも言われています。
戦乱を逃れて、国の乱れを憂える心境で詠った と言うよりは、科挙に落第した失意を胸に、船中に届いた夜半の鐘の音に促されて作った との想像がピッタリ来るように思われます。
766年に官職に復帰して、検校祠部郎中となる。770年洪州(現江西省南昌)に地方官として転出。そこで亡くなった由(779年?)。博識で議論好きな性格で、政治に明るく、公正な政治家であったとの評判があった由。
この詩の結句に関して、宋代に欧陽脩から、‘真夜中に鐘を突くか?’という疑問が提示されて、以後、議論が沸騰した様です。文献上や、他の詩人の詩中などに記載があるようで、当時には‘夜半の鐘’はあったもののようです。
張継の詩集に『張祠部詩集』1巻があり、47首の詩が収められているとのことである。
寒山寺については、特に“鐘”をめぐって、日本と関りが深いようですので、稿を改めて触れることにます。
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