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源流 (人間と国家―ある政治学徒の回想(下)(坂本 義和))

2011-11-04 22:35:30 | 本と雑誌

United_nations_hq__new_york_city  さて、少年時代から現在に至るまでの坂本氏の半生を顧みたあと、本書下巻の後半「第15章 日本社会への訴え」の章では、坂本氏の政治的思想の底を貫く流れの源を確認することができます。

 たとえば、坂本氏の考える「理想主義」について。対立概念である「現実主義」と対比してこう説いています。

(p193より引用) 「現実主義」は、国家という抽象的な実体の視点に立つのに対して、「理想主義」は、身体を持った市民の視点で「最悪事態」を具体的にとらえるのです。原爆を高空から投下して相手国を降伏させるのを「現実主義」は排除しませんが、市民つまり被爆者の立場に立つ「理想主義」は、戦争の「現実」を、自分が焼き殺される立場で見て抗議の声をあげ、平和を追求するのです。ですから私は「ヒロシマ・リアリズム」「オキナワ・リアリズム」という言葉を使ってきました。

 現実主義者といわれる論者は、しばしば「国益」を論拠とします。坂本氏は、この「国益」の実体は何かを問います。

(p195より引用) 「現実主義者」も「理想主義者」も、国際紛争解決の手段として「外交」の重要性を認めます。しかし、前者は、「国益」という、誰の利益か曖昧にされたフィクションを目的として掲げる外交を指すのに対して、後者は、具体的な市民の利益である「民益」の擁護を目的とします。そして「民益」を定義するルールが民主主義です。

  「国益」の定義は、語る人の規定によるいわば主観的なものだとの論です。その意味では、「国益」とは、誰かの頭の中に作られたフィクションだというのです。
 これに対しては、「民主主義のルールに則って選ばれた政治家」のいう「国益」は、民意を反映したものであり恣意的ではないとの反論が聞こえそうです。しかし、私は、「政治家」というフィルタが介在し「国」という言葉を使った瞬間に、人間ひとり一人の顔が消えてしまうような気がします。そこに、擁護すべき客体のすり替えが起こる隙が生じるのだと思います。

 現実主義の代表的論客であった高坂正堯氏との面談後の言葉は象徴的です。

(p192より引用) 話していて、この人は「戦争の傷」を骨身にしみて経験していないという印象を禁じえませんでした。

 坂本氏にとって「理想の追求」はまさに「現実」そのものだったのです。


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