OMOI-KOMI - 我流の作法 -

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小林秀雄の「見ること」 (人生の鍛錬-小林秀雄の言葉(新潮社編))

2007-08-06 22:44:06 | 本と雑誌

Kobayashi_hideo_1  小林秀雄氏の評論は、私たちの時代では、高校から大学のころ多くの人が一度は触れているのではと思います。

 私にとっても、本当に久しぶりの「小林秀雄」です。

 本書は、小林氏が1929年文壇に登場して以来の時間を14の期に分け、その時々の作品からの「言葉」を精選して並べています。
 前後の文脈を捨象した抜粋という形式には賛否があろうかと思いますが、刺激になることは確かです。

 まず、1期。27歳の作「志賀直哉」から「ものを見る」ことについてです。

(p16より引用) 私は所謂慧眼というものを恐れない。ある眼があるものを唯一つの側からしか眺められない処を、様々な角度から眺められる眼がある、そういう眼を世人は慧眼と言っている。・・・私が恐ろしいのは決して見ようとはしないで見ている眼である。物を見るのに、どんな角度から眺めるかという事を必要としない眼、吾々がその眼の視点の自由度を定める事が出来ない態の眼である。

 「複眼的にものを見る」とか、「別の視点で」「視座を変えて」とかと言われますが、小林氏は、そういった次元を超えた「眼」を捉えています。

 「見る」ことの対象が芸術であった場合、それは「鑑賞」という言葉と近似します。

 32歳の作「文学鑑賞の精神と方法」からの小林氏の言葉です。

(p43より引用) ただ鑑賞しているという事が何となく頼りなく不安になって来て、何か確とした意見が欲しくなる、そういう時に人は一番注意しなければならない。・・・生じっか意見がある為に広くものを味う心が衰弱して了うのです。意見に準じて凡てを鑑賞しようとして知らず知らずのうちに、自分の意見にあったものしか鑑賞出来なくなって来るのです。・・・こうなるともう鑑賞とは言えません。ただ自分の狭い心の姿を豊富な対象のなかに探し廻っているだけで、而も当人は立派に鑑賞していると思い込んでいるというだらしのない事になって了います。

 だとすると「鑑賞」とはどんなものでしょうか。

 どうやら、何かによることなく、素直に対象に対しそのものとして広く味わう・・・ということのように思われますが、人は、何らかの判断軸や価値観をもって、それに照らして対象を位置づけるものでしょう・・・。

 これと似たような「見る」ということについて、47歳の作「私の人生観」のなかでは以下のように語っています。

(p136より引用) 大切な事は、真理に頼って現実を限定することではない、在るがままの現実体験の純化である。見るところを、考える事によって抽象化するのではない、見る事が考える事と同じになるまで、視力を純化するのが問題なのである。

 また、その後の文脈でも宮本武蔵の「五輪書」に触れた以下のような言及があります。

(p139より引用) 「意は目に付き、心は付かざるもの也」、常の目は見ようとするが、見ようとしない心にも目はあるのである。言わば心眼です。見ようとする意が目を曇らせる。だから見の目を弱く観の目を強くせよと言う。

 この点は、以前、このBlogで「五輪書」を紹介した際、「目付け」についての「観の目」でお話した点と一脈通じています。

人生の鍛錬―小林秀雄の言葉 人生の鍛錬―小林秀雄の言葉
価格:¥ 756(税込)
発売日:2007-04


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地球の果てへ-世界秘境の旅82 (ロムインターナショナル)

2007-08-05 15:06:41 | 本と雑誌

Bhutan  時折、本選びの参考にさせていただいている「ぶっく1026」さんが紹介していた本です。

 収録されている土地や事物は、最近流行の「世界遺産」的なものもありますが、もっと素朴であったりワイルドであったりしています。

  • 第1章 一度は行きたい異郷の果て
  • 第2章 聖なる地を求めて
  • 第3章 未知なる文化との出会い
  • 第4章 人類の遺産を歩く
  • 第5章 知られざる都市、地域
  • 第6章 動植物の聖域

の6つのセクションに分けて4ページ1セットで写真・解説が続きます。

 写真のクリアさがいまひとつなのが残念ですが、むしろそれゆえに希少な雰囲気がでているかもしれません。

 世界各地、秘境と銘打っているので当然ですが、ほとんど観光地化されていない興味深い地域ばかりです。

 が、唯一私も訪れたことがある場所が載っていました。
 ドイツ南部の「ノイシュヴァンシュタイン城」です。ただ、ここは「秘境」というにはちょっと違うような気がします。

 本書で紹介されているところは日本以外の場所が対象になっていますが、日本国内にも大事にしたい素晴らしいところは数多く残っていると思います。

 私も、はるか昔学生時代に西表島に行ったとき、マングローブの林の中をかき分け、ピナイサーラの滝上に登ったことを思い出しました。

 眼下にひろがる亜熱帯林の緑と珊瑚礁の海、それはもう素晴らしい景色でした。

地球の果てへ―世界秘境の旅82 地球の果てへ―世界秘境の旅82
価格:¥ 1,785(税込)
発売日:2002-04


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アラビアンナイトの進化 (アラビアンナイト-文明のはざまに生まれた物語(西尾 哲夫))

2007-08-04 15:08:12 | 本と雑誌

Sindbad  「こどもの読み物」としてのアラビアンナイトは、オリジナルに囚われず、様々な国で様々な変容を遂げました。

(p90より引用) 児童文学としてのアラビアンナイトは本来の民俗的コードを喪失し、近代西欧型市民社会のニーズにあわせて自在に変身することができたのである。
 児童文学としてのアラビアンナイトが日本や中国に紹介される際にもこのような可塑性が存分に発揮された。・・・中国語版の翻訳者も中国人読者にあわせて恣意的な改変を加えているそうだ。

 ファンタジックなストーリーの中で活躍していたアラビアンナイトのヒーローたちは、その物語から飛び出していきました。

(p90より引用) 児童文学としての定着に付随してはもう一つの大きな動きがあった。キャラクターや小道具のパーツ化である。つまりアラジンやアリババ、空飛ぶ絨毯や魔法のランプが本来のストーリーとは関係のない設定でも自在に活躍し、パーツ単位の組みあわせによって新たな物語を生産できるようになったのである。キャラクターのパーツ化は娯楽産業の発達にともなって加速していく。

 このあたり、ディズニーは、アラビアンナイトをはじめ世界各地のファンタジーを非常に上手にキャラクター化し自らのものにしています。

(p193より引用) アラビアンナイトは移植先の文化にあわせて自らを変形させ、新しいメディアにもたくみに入りこんできた。これからもその時々の時代的文化的、あるいは技術的状況に適合しながら、次々と新しい形をとり、新しい物語を生み出していくことになるだろう。アラビアンナイトは、物語というものの「進化」を体現しているのである。

 アラビアンナイトは、まさにダーウィンの「進化の木」のように、新たな変化を取り込み、適応放散を遂げていったのです。

 ただ、その変化をつかむ視座は基本的には「ヨーロッパ」にあり、そこから見た「オリエント観」「中東観」を映し出したものでした。

 オリジナルは「オリエント」生まれですが、それがその地で育ち、様々に進化していったわけではありません。
 ヨーロッパでも育ち、日本でも育ちました。

アラビアンナイト―文明のはざまに生まれた物語 アラビアンナイト―文明のはざまに生まれた物語
価格:¥ 819(税込)
発売日:2007-04


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アラビアンナイトの生い立ち (アラビアンナイト-文明のはざまに生まれた物語(西尾 哲夫))

2007-08-02 23:34:35 | 本と雑誌

Arabian_nights  アラビアンナイトの成立事情を辿りながら、その文明史的意味を考える本です。

 日本でも老若男女に御馴染みのアラビアンナイトは、ペルシャ、インド、エジプトなどから数百年の間にあつめられた物語集です。
 その成り立ちですが、エジプト系写本やシリア系写本等々、様々な写本の合体が今に伝わる「アラビアンナイト」の総体になったようです。

 当初の「アラビアンナイト」は、物語の数も「千一夜」分に足る量ではなかったようですし、今では「アラビアンナイト」の代表作である「アラジン」や「アリババ」の物語も含まれてはいなかったとのことです。

(p43より引用) アラビアンナイト研究者の一人、ミア・ゲルハルトはこれらの物語のうち、原写本が確認されていないものをまとめて「孤児の物語」と呼んでいる。少なくとも現在のところ、ガラン版が出版される以前に書かれたと思われるアラビア語写本の中には、「アラジン」も「アリババ」も「アフメッド王子と妖精パリ・バヌー」も見つかっていないのだ。

 アラビアンナイトは、ヨーロッパに移植されて以来、多様な変容をとげました。
 そのひとつの方向が「子どもの読み物」であり、今ひとつが「大人?の文学」でした。

(p74より引用) 十八世紀初期にガランによって初めてヨーロッパに紹介されたアラビアンナイトは、新たな移植先であるヨーロッパでの文化事情にあわせてさまざまな役割を演じ分けてきた。当初は東方への関心を喚起するとともに新鮮かつ刺激的なファンタジー文学の世界を提示するのみだったが、やがてはその普及度に比例してヨーロッパでの受容形式が枝分かれしていく。
 つまり一方では児童文学の題材を提供し、もう一方では成人向け好色文学としての性格を明確にし、さらには植民地となって支配されるべき東方世界についての情報源としても利用されるようになっていったのである。

アラビアンナイト―文明のはざまに生まれた物語 アラビアンナイト―文明のはざまに生まれた物語
価格:¥ 819(税込)
発売日:2007-04

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四字熟語ひとくち話 (岩波書店辞典編集部)

2007-08-01 01:01:43 | 本と雑誌

 以前、白川静氏の「漢字―生い立ちとその背景」を読んだりして、「漢字」には少々興味をもっていました。
 そういった流れで読んでみた本です。

 内容は「四字熟語」の意味や由来の紹介が中心ですが、著者の説明は単なる薀蓄に止まらず、ウィットの効いたコラムのようなノリで、なかなか楽しい本です。

 1ページにひとつの「四字熟語」が紹介されていますから、およそ160~170ほどの「四字熟語」が並んでいることになります。
 これだけあると、ひとつやふたつは気に入ったものが出てくるでしょう。

 強いてその中でひとつ選ぶとすると、私は「一刻千金」を挙げたいと思います。

 「時は金なり」とは違います。むしろ精神的には逆のニュアンスかもしれません。

(p6より引用) 世の中には大金を払ってでも時間を買いたいという人がいるかも知れない。しかし、この「一刻千金」、ただ時間が貴重だというのとは違う。もとは北宋の詩人蘇軾(蘇東坡)の「春夜詩」の一句、「春宵一刻値千金」である。花のかおりがただよい、月はおぼろに霞んでいる、そんな春の宵のひとときは千金の価値がある、というのである。

 心のゆとりの描写です。
 ゆったりとした自然の中で過ごすたおやかな時間の流れには憧れます。

 「音」は似ていますが「一攫千金」とは大違いの精神です。

 その他、この本を読んでの「いまさら」という(情けない)気づきをいくつか恥ずかしながらご紹介します。

 まずは、「拱手傍観」の項での気づきです。

 「てをこまねく」と入力して「変換」しても「手を拱く」を表示してくれます。ただ、本当の読みは「手を拱く(こまぬく)」だと知っていますか?
 恥ずかしながら、私は本書を読んで知りました。

 もうひとつ、「因循姑息」の項です。

 「姑息」とは、「ずるいこと・卑怯なこと」の意だと思っていませんか?
 本来は「その場しのぎの間に合わせ」という意味だそうです。

 「四字熟語」に係る薀蓄以外に、漢字・熟語の知識の欠如も思い知らされました。
 情けない限りです。

四字熟語ひとくち話 四字熟語ひとくち話
価格:¥ 714(税込)
発売日:2007-04

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