Twitterの投稿でお薦め本として紹介されていたので手に取ってみました。
ちょっと前に出版された本ですが、その時には「データ分析の入門書」としてかなり評判が良かったようです。
まずは、この手の入門書としては定番の「因果関係と相関関係とは違う」という点の解説から始まります。
(p38より引用) 2つのデータの動きに関係性があることを、統計学では「相関関係がある」と呼びます。・・・
問題は、XとYに相関関係があることがわかっても、その結果を用いて因果関係があるとは言えないことです。・・・「XとYに相関関係がある場合に起こり得る3つの可能性」を示してみました。
① XがYに影響を与えている可能性
② YがXに影響を与えている可能性
③ VがXとYの両方に影響を与えている可能性
データ分析者にとって非常に厄介なのは、この3つの可能性の全てが・・・データの動きと整合的であることです。
このイントロダクションの後に、「因果関係の存在の有無」を確認するための分析手法の解説が続きます。
具体的には、ランダム化比較試験(RCT)、RDデザイン、集積分析、パネル・データ分析といった方法ですが、それらを用いた分析は、企業や行政機関でも「科学的エビデンス」として活用されています。
(p234より引用) RCTなどの科学的な方法で因果関係を示すことの実務的な利点は、イデオロギーなどを超えた、データ分析の結果に基づく政策議論ができることだと考えられます。
つまり「定量的な根拠」をベースとした政策効果の議論を可能にするのです。ともかく、こういったニュートラルな根拠(因果関係分析)に基づいた意思決定は当然のプロセスですし、もっとなされるべきですね。
ただ、その場合にも熟慮すべき課題があります。
ある調査の分析結果を活用する場合は、その分析自体の妥当性(方法・結果)に加え、その結果を一般化して適用できるか(他の環境下においても同様の結果となるか)という検証が必須になるという点です。
(p260より引用) データ分析の結果が分析で対象とされた主体以外へも適用可能なのか、という「外的妥当性」の問題は非常に重要であり、外的妥当性と内的妥当性の両方を加味した場合、どの分析手法が優れているかは状況によって異なってくる
合理的な根拠にもとづく意思決定を進展させることは間違いなく望ましいことです。そのためにも、私たち一人ひとりが意思決定の適否を判断するうえで、示された数字に騙されない「統計リテラシー」をしっかりと高める必要があります。
数字は、正しい事実を示す証左であり、望ましい結論に導く標のはずですが、敵もさるもの、逆に尤もらしく見せて“判断をミスリードさせる手段”としても使われますから。
タイトルに惹かれて手に取った本です。
著者は、「東京」&「大阪」、「国鉄」&「私鉄」を対置しつつ論を組み上げていきますが、その内容は日本思想史的な色合いで、ちょっと予想外のものでした。
「はじめに」の章で、著者は、人文思想的側面から、鉄道を “シンボリックな装置” として位置付けています。
それは、東京にとっては「国民(臣民)統合の装置」としてでした。
(p20より引用) 明治以来の「帝都」東京を中心とする鉄道の発達は、日本資本主義の発展という経済的次元だけでなく、人びとによる国家意識の形成という思想的次元とも密接にリンクしていたのである。
他方、大阪にとっては「民衆文化の装置」としてであり、主役は「私鉄」でした。
(p21より引用) 大阪を中心として発達する関西私鉄は、・・・国鉄に対抗する思想をもとに、それぞれの沿線に独自の文化を築いていったという点で際立っていた。国鉄が前述したような国民統合の装置であったとすれば、当時の関西私鉄には「官」から独立して地域住民の新しいライフスタイルを生み出す文化装置としての側面があったのである。
大阪を中心とした関西圏には、東京に先立って私鉄沿線を中心にした「民の文化」が生まれたのです。沿線に開発された分譲住宅地にはじまり、動物園・温泉保養地・歌劇団劇場、さらには百貨店を併設したターミナル駅等々。
(p124より引用) 大正末期までに大阪を中心とする関西地域では、私鉄が発達するとともに、それぞれの沿線に多様な生活文化や余暇文化が花開くことになった。大正期の大阪では、同じくこの時期に発達した新聞とも連携しつつ、同時代の東京には見られない「私鉄王国」が作られていったのである。
こうして日本最大の都市として成長した「民都大阪」ですが、その中にも地域によって大きな風土の違いがあり、それは私鉄各社の沿線の土地柄にも影響を与えました。
(p90より引用) あえて図式的な言い方をするなら、キタを中心とする旧淀川以北の地域の風土が「合理主義」と親和性をもっていたのに対して、ミナミを中心とする旧淀川以南の地域の風土は「浪漫主義」と親和性をもっていたということになろう。
したがって大袈裟にいえば、私鉄のターミナルを大阪のキタに属する梅田におくか、ミナミに属する難波におくかによって、その私鉄が築き上げる文化の中身には大きな違いが生じてくるのである。
そういった私鉄各社の動きの中で、キタの代表選手として隆盛を誇ったのが小林一三率いる阪急電鉄でした。その勢力の象徴が国鉄の線路を跨ぐ形で建設された「梅田跨線橋」です。
しかしながら、昭和大礼(1928年)に続く大阪行幸を契機に、関西にも「官」の力が誇示されていき、大阪の風土の力関係にも動きが生じました。
(p211より引用) 天皇の登場と時を同じくして起こったクロス問題は、大阪にもともとあった二つの風土の違いをあらわにしてゆくことになる。いささか象徴論的に述べれば、一九三三年八月のクロス問題の解決とともに、近代的な合理精神や反官の思想を貫く旧淀川以北のキタの風土、すなわち阪急沿線の風土が後退し、それに代わって古代以来の王権の歴史に彩られた旧淀川以南のミナミの風土、すなわち南海や大軌沿線の風土が、急速に浮上してゆくのである。
さて本書を読み通しての感想です。
メインタイトルにあるように、“鉄道”創世記を舞台にした「大阪vs東京」「民vs官」の図式の(社会学的)解説も大変興味深いものがありましたが、むしろサブタイトル「思想としての関西私鉄」という視点の方が刺激的でした。
「官」が定めた規定(軌道条例)の拡大解釈を強引に推し進めて路線拡大を実現した関西私鉄の経営者たち。
その中でも特に際立った活躍を見せたのが阪急電鉄の総帥小林一三でした。「官」を相手に腹を括って徹底抗戦していく彼の姿勢は強烈な印象を残しました。とても魅力的な人物ですね。
ちょっと前に読んだ手嶋龍一さんの本(汝の名はスパイ、裏切り者、あるいは詐欺師)で紹介されたので手に取ってみました。
海外のスパイ小説としては、以前、フレデリック・フォーサイスあたりは何冊か読んだことがあるのですが、恥ずかしながら、このジャンルの巨匠ジョン・ル・カレの作品はこれが初めてです。なので、最初の代表作のこの作品を選んでみたというわけです。
この手の小説なのでネタバレになるようなコメントは避けるとして、印象に残ったフレーズをひとつだけ書き留めておきます。
(p316より引用) 平気でいられるわけがない。恥と怒りで、胸がむかむかしてくる……だが、おれは世間とは別種の人間だ。そんなふうに仕立てあげられている。どんなことにも、信頼できない男になっている。
今の流行りからいえば、派手なアクションシーンもなく、また話の展開にスピード感も乏しく、かなり地味な作品ですね。その分、重厚なリアリティを醸し出していますが、“現実のインテリジェンスの世界”はこういうものなのかもしれません。
立花隆さんの著作は久しぶりです。
タイトルもシンプルで直截的ですね。1971年が初版の立花さんのデビュー作とのこと。
本書を手に取ると、ある種「古典」に向き合うようなピリッとした心持ちになります。
さて、読み終えてみての素直な感想ですが、驚くべきことに、書かれている内容についていえば、その本旨は現代にもそのまま通用するものでした。
本書に採録されている「文庫版あとがき」は1990年に記されていますが、その中で立花氏自身、こう書いています。
(p241より引用) 今回、中央公論社から、これを中公文庫におさめたいとの申し出があり、有難いプロポーザルとは思ったものの、何しろ二〇年前に書いた本であるから、内容的に少し古くなってはいないかと心配だったので、あらためて初めから終りまで読み直してみた。し かし、幸いなことに、引用されているデータこそ古くなっているものの、内容的にはいささかも古くなっていないことが確認できて、安堵した。
そして、上記に記されたこの著作の1990年時点の評価は、今、2021年においても同じです。
これは、立花氏の“類まれな先見性”を証明していると同時に、半世紀経っても人間社会における根本的課題が解決していないという“社会の後進性”の表れでもあるということです。
(p172より引用) これから文明のたどるべき方向は、より複雑で、より多様なシステムを、効率とスピードを落としても安全性を重視して作っていく方向にあるのではないだろうか。 自然にとっては、人間も生物システムの一つのチャネルにすぎない。人間が自滅しても自然は困らない。自然のシステムには、いつでもそれにとって代わるべきチャネルが用意されているからである。人間は自然なしではやっていけないが、自然は人間なしでやっていけるのである。
この1971年当時の立花氏からの「警句」を、私たちは、まさに今、改めて本気で受け止めなくてはならないのです。