小説「逆軍の旗」(藤沢周平著)から明智光秀の胸中を探る
さて、私の大好きな小説家・藤沢周平は、その著書「逆軍の旗」で光秀の心境を次のように描写している。
藤沢氏は(1)であげた「怨恨説」や「野望説」、「黒幕説」のどの説にも属せず、主君信長の人間性に視点を置き、謀反(逆軍)にいたった光秀の胸中を描いている。
『信長との間に、ひそやかな乖離(かいり)が始まったのはいつのころだったろうか』と光秀の回想が始まり、以後信長の狂気ともいえる残虐無道が、光秀の視点で述べられる。
信長は叡山の焼き打ちでは、三千の寺社、僧坊を焼き、経巻を焼きつくし、僧俗数千の首を切った。
『そういう殺伐ができる信長という人物に、一瞬戦慄を感じた』光秀であった。
叡山焼き打ち(元亀二年・1571年)の時に感じた違和感は、その後身近に起こったいくつかの出来事の中で、微妙に屈折し、信長と光秀の間の裂け目を広げていったようだ。
本願寺・一向一揆を武力で鎮圧したときは、二万の男女を、城の周りに幾重にも柵をめぐらして閉じ込めた後で、四方から火を放ち焼き殺した。
「そこまですることはない」と光秀は思う。
正月朔日(ついたち)の岐阜城で、主君信長の狂気の兆候を、光秀は見てしまう。
『信長は身内衆の酒宴の席に、薄濃(はくたみ)にした首三つを檜の白木で作った折敷(おしき)に乗せて出し、酒の肴にして興じた。(薄濃とは髑髏(どくろ)を漆で下地に塗って、その上に金泥(きんでい)で塗り固めたものであり、この時の首三つとは、前年に滅ぼした朝倉義景、浅井長政と長政の父久政の首であり、長政は信長の妹「お市」の夫でもあった)。
薄濃の話は、一級資料といわれている『信長公記』に記載された一件であるが、大河ドラマで描かれたような、信長が光秀に向かって、この薄濃を盃代わりにして酒を飲むよう強要したというのは、シナリオ作者の創作である。
(つづく)