読書案内「春の血」松本清張著
つかの間の幸せ
新原田恵子は48歳。
5年前に医師だった夫を亡くしている。
積極的で聡明な田恵子の友人・海瀬良子とは違い、何事にも控えめで消極的である。
良子より2歳上なのに積極的な良子に甘えるような友人関係だ。
以下重要な部分を引用します。
田恵子は良子の耳にささやいた。
「ねえ、あなた、まだあれあるの?」
声にはならずほとんどささやきだつた。
「あるわよ。どうして?」
「あがったらしいわ、もう」田恵子は微笑していたが、予期せぬ狼狽はかくれもなかった。
「そうかしら?五十四、五にならないと来ない筈だけどね」
良子は疑るようにいった。
「早い人だと四十五、六からそうなんですってよ」
田恵子は悲しそうに反駁した。
女性の月のものがなくなって3カ月たつという。
女の役割を終わるということは、故人の差こそあれ、ショックに違いない。
人によってはホルモンのバランスを崩し、体調を崩す場合もある。
やがて田恵子は再婚する。
亡くなった夫の財産で十分生活できるだけの財産を持っているはずの田恵子が再婚を決意したのは、子どものいない寂しさがあったのだろう。
金持ちだが無骨な男と田恵子は結婚した。
お嬢様育ちの田恵子の相手としては不釣り合いな夫婦だ。
三カ月後、遊びに来た田恵子は夫にも可愛がられ、幸せそうだった。
「ご心配かけたけどね、あれ、あったのよ」と田恵子は嬉しそうに言う。清張はここの情景を次のように描写する。
奇跡が起こったのだ。
田恵子の精神が遂に身体の生理をねじ伏せたのであろうか。
すすみよる老敗の浸食を押し戻したのである。…(略)…
「子供が欲しいわ。この年齢になって笑われるかもわかんないけど」田恵子の陶酔は、果てしがなかった。
だが清張はこれで終わりにしない。(ここから先はネタバレになります)
1.年後、田恵子の夫から良子宛に一通の死亡通知が届いた。
田恵子が子宮筋腫で亡くなった知らせだった。
「あれ、あったのよ」と喜んでいた言葉が良子によみがえってくる。
青春を奪い返した兆(しるし)ではなかった。
彼女の喜びの血は、彼女の生命を奪う前触れの出血であった。
最後の数行で田恵子を哀れな女に突き落とし、
無邪気な友を失った良子の悲しみを描いて見せる清張の手腕が光る好短編だ。
作品にまつわる裏話
清張が小倉市に居たころ家裁調停委員の丸橋静子さん(故人) から聞いた話を文藝春秋に発表したところ、「春の血」は「魔の山」の作者トーマス・マンの「欺かれた女」をそのまま取った、いわゆる盗作だといわれた。(この話は松本清張全集42巻の「着想ばなし(7)」に載っているが、清張はこのことがあって何の弁明もせず、「全集」(第一期)からも削除してしまった。時を経て清張の生前最後に刊行された角川文庫の「延命の負債」(短編集)に収録した。丸橋静子さんが故人となられた時点で、上記の経緯を発表した。
短編集角川文庫 1987(昭和62)年刊行
短編集 表題作他に、湖畔の人 ひとり旅 九十九里浜 賞 春の血 生き物の殻
津ノ国屋 子連れ 余生の幅 三味線 月を含む。
(2017.6.3記) (読書案内№100)