1945年3月9日の夕刻、
マリアナの米軍基地を飛び立ったB29爆撃機は、
3月10日午前0時8分東京上空に現れました。
その数334機。
500ポンド(225㌕)の焼夷弾24個を搭載したB29爆撃機が
低空飛行で東京の街を襲いました。
この無差別爆撃は、たった2時間で終了しました。
ご承知のように、東京の街は阿鼻叫喚の地獄となったことを、
私たちは映画や文学作品、絵画等で知ることができます。
3月10日の東京大空襲の被害が具体的にどのくらいのものだったのか
数字で示してみましょう。
一つでも多くの焼夷弾を積み込むために
4基の機関銃をすべて取り外してあったそうです。
その上、空中衝突を避けるために、
編隊を組まずに高度8500㍍以下の低空飛行で東京上空に現れたといわれています。
空襲の犠牲者は、
死者83,793名
負傷者40,918名
傷者合計124,711名
戦災家屋268,000戸。
小さな地方の市が一つ消えてなくなってもまだ足りないぐらいの大きな被害です。
3月10日は陸軍記念日で、334機のB29はまさにこの日を狙い、首都東京を襲ったのです。
この時落とされた「焼夷弾」は、
親爆弾に子爆弾19発が2段に、計38発が組込まれ、空中で分解して落下する。
1機のB―29が1520発の子爆弾を投下した。
爆発の威力は少ないが、燃焼力があり、水では消化できない。
無差別に投下された焼夷弾はあまりにも非人道的ということで、
1983年、「特定通常兵器使用禁止制限条約」により使用禁止されました。
こんな爆弾を作り非戦闘員を無差別に攻撃し、
核爆弾を広島、長崎に落とした非人道的行為について、
その責任有無について、何ら問われていないのは、
戦勝国とは言えおかしな話です。
話を本題に戻します。
圧倒的な物量と戦闘能力を備えたB29ですが、
太平洋戦争で墜落したB29は、米軍資料によると327機と言われていますが、
墜落場所、時刻、戦死者数、生存者数、住民の対応、
憲兵や警察の対応など全容が明らかになっているもは、ほとんど見当たらないようです。
どうしてなのか。
(つづく)
(2018.8.21記) (語り継ぐ戦争の証言№17)
「墜ちたB29」は、「語り継ごう太平洋戦争の記憶」で講演した原稿を加筆、訂正したものです。 |