雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

太宰治 情死行 ① 桜桃忌に寄せて

2021-07-08 06:30:00 | つれづれに……

太宰治 情死行 ① 桜桃忌に寄せて 

 死に急いだ無頼派作家 太宰治
    
           写真1                    写真2
      (写真1)  昭和21年秋、東京銀座のバー・ルパンにて  (撮影・林忠彦) 
      (写真2)
 昭和23年4月、三鷹の自宅にて。左より長女園子、太宰、次女里子。                                   
             太宰の多くの写真が、神経質で太宰の苦悩が表情に現れているような写真で
     私は好きになれなかった。
     この二枚は例外的な写真だ。
     新潮日本文学アルバムに掲載された写真で、
     私が好きな写真である(見つけるのに苦労した二枚である)。
     
                      小説家水上勉はエッセイ『苦悩の年鑑』で二枚の写真について次のように書いている。
      酒房ルパンでの、太宰さんの屈託のない明るいお顔を拝見していると、それから一年半た
      って、太宰さんにあんな死が訪れようとは、誰も思っていまい。ルパンの写真には、まっ
      たく、その後一年半の無茶苦茶な酒びたりの修羅は想像できないのである。(…略…)
      縁先ににわとり二羽を入れた金網の四角い鶏舎があって、六歳の園子さんがおかっぱで立
      ち、太宰さんはいっさいの里子さんを抱いて、園子さんの方を向いて笑っておられる。二
      十三年四月とあるから、亡くなる二カ月半前だろう。
      エッセイの最後は再びこの二枚の写真に触れて次のように結んでいる。
      ルパンの木椅子にあぐらをかいておられる写真と、二羽のにわとりの入った金あみ籠のあ
      る縁先で、ふたりのお嬢さんと笑顔でしゃがむ太宰さんの写真を見ていると、太宰さんの
      つかのまの平穏と安息が想像されて、眼がうるむ思いのするの私だけではあるまい。


 昨年も雨だった「桜桃忌」。
 今日6月19日は「桜桃忌」。
 梅雨のさなかの年に一度の「桜桃忌」は雨に降られる日が多いとか。

桜桃忌と誕生祭
 
 
1948年のこの日、6月13日に自殺した作家・太宰治の遺体が発見された。
  13日に失踪した日も、遺体が発見された日も雨が降っていて、
  玉川上水は水かさを増し、水流は激しく濁流となって流れていた。

  6月13日、太宰治が戦争未亡人の愛人・山崎富栄と玉川上水に入水心中し、
 6日後の19日に遺体が発見された。
 また、19日が太宰の誕生日でもあることから、6月19日は「桜桃忌」と呼ばれ、
 三鷹市の禅林寺で供養が行われる。
 その名前は桜桃(サクランボ)の時期であることと晩年の作品『桜桃』に由来している。

  太宰治の出身地・青森県金木町では、
 生誕90周年となる1999年から「生誕祭」に名称を改めた。
 親族にとって太宰の情死は「痛ましい事件」であり、
 6月19日を遺体発見に由来する「桜桃忌」として偲ぶよりも、
 同じこの日を「太宰が生まれた日」として在りし日の太宰を偲びたい、
 という思いが親族にあったのではないか。


     6月13日の午後、二人は太宰が仕事部屋にしていた小料理屋「千草」の2階の6畳間から、
    筋向いにある山崎富栄の下宿先に移る。
 遺書をしたため、死出の旅支度を終わったのはその日の深夜だった。
 太宰は愛人山崎富栄と共に、二人の住まいから5分ほどの玉川上水に身を投げる。

 梶原悌子の記録文学『玉川上水情死行』から引用します。
 太宰と富栄の家出を最初に知ったのは野川アヤノであった。
 アヤノは富栄が部屋を借りていた家主で、
 14日の昼近くなっても富栄が起きてこないのを不審に思った。
 二カ所の雨戸も閉じられたままだった。
 声を掛けても返事がないので二階に上がり部屋の戸を開けると、
 整理された室内には線香の匂いがこもっていた。
  部屋の隅にある本棚の上に和服姿の富栄の写真と、
 バーのスタンドで足を組んだ太宰の写真が並べられていた。
 驚いたアヤノは筋向いの小料理屋「千草」に走り、店の女主人増田静江に様子を伝えた。

 
 発見された二通の遺書は、太宰の妻あての封書と、
 二人連名の小料理店「千草」宛の便せんだった。

 翌朝15日は朝日新聞だけが「太宰氏家出か」と第一報を奉じた。
 なぜ、朝日新聞のスクープ(?)なのか。
 梶原悌子氏によれば、14日午後引用で示した騒ぎの最中に朝日新聞学芸部の部員が
 新聞連載小説「グッド・バイ」の打ち合わせに偶然来ていて、太宰の失踪騒ぎに遭遇した、とある。
 しかし、この時点で太宰自殺を報じるには、遺書という状況証拠があるのみで確証に乏しい。
 当時、すでに売れっ子作家だった太宰を14日時点で、
 「自殺」「心中」という内容で報じるにはあまりにセンセーショナルな出来事だった。
 記事はたった15行ほどで、「…家出か」と、憶測記事にせざるを得なかった。
 しかも同行者と思われる女性の名前を山崎晴子と間違えている。
 15日朝刊の締め切り間際だったのか、いずれにしても偶然に立ち会えた太宰氏失踪に、
 新聞社側の動揺ぶりが推測されます。
 朝日新聞1948年6月15日朝刊の記事
    北多摩郡三鷹
   町下連雀一三作
   家太宰治氏(本名
   津島修二(四〇)は
   十三日夜同町内の
   山崎晴子さん(三
   〇)方に美知子夫
   人と友人にあてた
   遺書らしいものを
   残して晴子さんと
   二人で行方をくら
   ませていることが
   十四日わかり、同
   日夫人が三鷹署へ
   捜索願いを出した。(梶原悌子著 玉川上水情死行より引用)

     記事は15行というので、再現してみた。(実際の記事は縦書き)

 当時の玉川上水は現在とは違い、水かさもあり、水深も深かった。
2年ぐらい前に私が訪れた時、水勢は弱く、浅瀬を流れる水を眺めながら
太宰はなぜこんなところに身を投げたのかと不思議に思った。

 玉川上水は江戸の人口増加に伴い、多摩川から江戸に水を供給するための上水路で、
多摩川羽村市取水口から四谷まで高低差92.3メートル、
全長43㎞に及ぶ距離を1年で完成したというから、
近辺住民の労力負担を思うと、大変な事業だった。
新聞記事によると、
当時の玉川上水路は水深2メートル、幅2メートルの急流だった、とある。
昭和40(1965)年に利根川の水が東京に引かれると、
その役割も終わり、現在の流れになったようです。

 二人を呑み込んだ急流で、五日間も大勢の人々が捜索に関わったことなど、
現在の流れからは想像できません。濁り水が流れ梅雨時の玉川上水は水量が増し、
捜査は難航し、遺体発見は19日を待たなければならなかった。
                                (つづく)
  
(次回はシリーズ「三陸日記」⑦「新しい命」をアップします)


    (2021.7.7記)               (つれづれに……心もよう№116)

 

 

 


 

コメント (2)
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