雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

太宰治 情死行 ② 最期の太宰治・玉川上水

2021-07-26 06:30:00 | つれづれに……

太宰治 情死行 ② 最期の太宰治・玉川上水
玉川上水
 前回にも触れたが私が東京近郊を走る玉川上水を歩いたのは、
 およそ2年前のことだった。玉川上水路散策が目的ではなく、
 三鷹の禅林寺にある太宰の墓を訪ねるためだった。
 禅林寺と玉川上水は近く墓参の帰りに、玉川上水に行った経緯があった。
   
  閑静な三鷹の住宅地を縫うようにして流れる上水路は、川沿いに木々が生え緑地の散歩道として
  近隣の住民の散策路でもあった。
  木陰の道を歩きながら、水かさの少ない浅い流れの水路を眺め、
  どうしてこんな浅い水路を太宰は死出の旅路の情死行に選んだのか、私は理解できなかった。
   疑問の解消は、事件当時の新聞記事を読ん時だった。


  13日の深夜、もしくは未明に太宰と愛人富栄が行方をくらまし、
  騒ぎが大きくなったのは14日の午後だった(①を参照) 。
  
新聞各社が報道したのは、16日だった。
  
             (朝日新聞 昭和23年6月16日付)
     上段中央 遺体捜索風景、その左 富栄の部屋に飾られた二人の写真(和服姿の富栄とバーのス
    タンドで足を組んでいる太宰)。 
              左二段目 捜索願に提供された富栄、その下しかめ面をした太宰。
    死出の旅路の支度をした富栄の部屋に残された写真や、遺書の一部まで朝日が掲載できたのは、
    「14日午後引用で示した騒ぎの最中に朝日新聞学芸部の部員が、新聞連載小説「グッド・バイ」の
    打ち合わせに偶然来ていて、太宰の失踪騒ぎに遭遇した」(①参照)からだと思う。

    作為のない嘘
     記事のサブタイトルに「梶原悌子氏によれば、14日午後引用で示した騒ぎの最中に朝日新聞学芸
     
部の部員が新聞連載小説「グッド・バイ」の打ち合わせに偶然来ていて、
     太宰の失踪騒ぎに遭遇した、
」、とあるがこういう記事の書き方は誤解を招くもとにな
     る。いかにも太宰が「書けなくなった」と遺書を残したように読者は解釈するだろう。
     だが、記事の全文を読んでみると、記事の最後に、絶筆「グッドバイ」という小見出しがあり、
     ドンファンの主人公・田島が妻あての遺書の中で、
     「小説が書けなくなった。人の知らぬところに行ってしまいたい」と書く場面があり、
     太宰が自分の遺書として書いたわけではない。
     また、太宰の遺書の中には具体的な情死行の理由も見当たらない。
     もうひとつ、記事の大見出しには『太宰治氏情死』とある。
     16日発行の新聞だから、記事内容は15日の締め切り時間前の出来事を記載した
     ものであるが、遺書が発見され、捜索願が出されたにせよ、15日の時点で「太
     宰治氏情死」というタイトルはいかがなものだろう。
     人の生死にかかわることであり、道行きの女性がいたと思われる状況で、
     断定的なタイトルは性急に過ぎる。
     三鷹署が入水自殺と断定したのは16日。
     状況証拠のみで断定記事を書くことの危険性を、私たちは過去の報道から容易に抽
     出することができる。
     読者が読んで誤解するような記事は許されない。このような記事を「作為のない嘘」という。
     週刊誌などがしばしば使う「常套手段」だ。

    話を本題に戻します。
                   私が玉川上水を訪れた時に抱いた疑問を、ノンフィクション作家・梶原悌子も
     次のように述べている。
     『いま玉川上水は雑草に覆われ、その流れはわずかでしかない。
     二人を呑み込んで多数の人々による捜索が五日間も続けられたとは想像もできない』
     当時の玉川上水の状態を新聞記事から抽出してみよう。

     『二人が入水したとみられる現場は、川幅はせまいがひどい急流で深いところは一丈五尺もあ
     り、落ちると死体も上がらぬ魔の淵』(読売)

     『(玉川上水は水深二メートル幅十二メートルの急流で、川壁に洞穴が無数にあり死体発見は
                  相当困難なものとみられる)』(毎日)

    十六日には三鷹署も二人が上水に入水自殺したものと断定し、捜査のために浄水場水門をしめ、減
    水してくれるように水道局に依頼したほどだったが、朝から雨は激しく降り続き、水は濁って捜索
    は難航した。

    また、作家・野原一夫氏は
     『回想・太宰治』の著書の中で捜索の日のことを次のように述べている
   『「この川は人喰い川というんだ、入ったらさいご、もう死体は絶対に揚がらないんだ」と
    太宰さんは散歩の途中、上水の流れを見ながら言っていた。「川のなかが、両側に大きく
    えぐれていてね、死体はそのなかに引き込まれてしまう、おまけに水底には大木の切り株
    なんかがごろごろしていてそれに引っかかる」』
    この散歩がいつの頃の出来事なのかわからないが、回想が本当だとすれば太宰の死への願
    望が如実にわかる一文であり、太宰は偶然にもこの上水を死での旅路に場所に選んだこと
    になる。
     はたして、偶然に選ばれた「死に場所」だったのだろうか。
    二度にわたる心中未遂事件を経て、三度目の富栄との情死行で、
    太宰は玉川上水の水底に沈んだ。
    作家として世間的な名声を得た現実とは裏腹に、太宰の私生活はすさんだ生活の連続だった。
                                       (つづく)
       次回 太宰治 情死行 ③ 最期の願い
       (つれづれに……心もよう№117)            (2021.7.25記)
 
 

コメント (2)
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