海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 ③
学童疎開船『対馬丸』 撃沈に至る経緯
1941(昭和16)年12月8日未明、日本は真珠湾を奇襲した。
第二次世界大戦の始まりだ。
日本軍の真珠湾攻撃から数時間後、アメリカ海軍省は、
無制限潜水艦戦の命令を出した。
当時、潜水艦や飛行機で無差別に商船を攻撃することは、国際法で禁止されていた。
しかし、命と命のやり取りの戦争が始まれば、
国際法や条約は戦争を前にして無視されてしまった。
結果として、宣戦布告なしの『奇襲』という攻撃になってしまったことに対し、
アメリカはその報復として、「無制限潜水艦戦」を発令したと思われる。
「パールハーバー リメンバー」をスローガンに、
ミッドウェイ開戦でアメリカは劣勢を回復していった。
日本軍の暗号はアメリカ軍によって解読されていた。
戦争が終わるまでに撃沈された日本の商船は、全部で890万総トン、2534隻になる。
記録によれば、商船を最も多く沈めたのは空母艦載機等の飛行機ではなく、潜水艦だった。
広い太平洋の海域を、敵の船を求めて潜行しても発見することはなかなかできない。
アメリカ潜水艦は自分の担当の海域をパトロールしながら、ハワイに拠点を置く「太平洋艦隊
潜水艦司令部」の指示を受け、攻撃目標を決めていた。
潜水艦によって一番必要なのは、敵の船がどんな船団を組んで、何時、
何処の海域を通過し、何処へ向かうかということだ。
圧倒的な資源に基づく戦力を有効に実践に結びつけるために、
アメリカには暗号を解読する通信解析部隊があります。
当時、ハワイの潜水艦司令部には、
1000人を超えるスタッフが、
傍受した日本海軍や商船の暗号を解読・翻訳していたと言われている。
1943(昭和18)年の春、戦況を左右することが起きた。
沈没した日本輸送船から、船舶暗号書を米軍がひきあげ、
暗号解読に成功すると、
沈められる船の数が急増したと言われている。
(つづく)
(語り継ぐ戦争の証言№27) (2020.7.12記)