我れと他と何の相違があるか、皆なこれこの生を天の一方地の一角に享けて悠々たる行動を辿り、相携えて無窮の点に帰る者ではないか、というような感が心の底から起って来て我知らず涙が頬をつたうことがある。
☆画(はかりごと)は多い。
化(教え導く)総ての意(考え)の解(さとり)を展(ひらく)。
逸(隠した)法(神仏の教え)は、字に逸(隠れている)。
覚(感知する)教(神仏のおしえ)は幽(死者の世界)が有(ある)という講(話)が漏れてくる。
点(小さいしるし)は、総て系(つながる)謀(はかりごと)である。
究めると、転(ひっくり返る)記である。
視野(思考見解観察などの及ぶ範囲)を勘(調べ)審(正しいかどうかを明らかにする)記である。
磊(小さなことにこだわらない)画(はかりごと)の質(内容)の塁(より所)は、教(神仏のおしえ)である。
そうでない、これ等の人々を見た時の周囲の光景の裡に立つこれ等の人々である。
☆問い、認(見分けること)が腎(重要)である。
現れる字を修(繕う)意(考え)を継(つなぐ)理(すじみち)の律
色々の古い事や友の上を考えだす。その時悠然として僕の心に浮かんで来るのは即ちこれ等の人々である。
☆嘱(委ねた)私記は個(一つ一つ)の字で幽(死者の世界)の状(ありさま)を構(組み立てている)。
字で幽(死者の世界)と漸(しだいに)の睦(仲よくする)。
普く磊(小さなことにはこだわらない)。
審(正しいかどうかを明らかにする)は、即ち問うことであり、認(見分けること)が腎(重要)である。
その時僕の主我の角がぽきり折れて了った、何だか人懐かしくなって来る。
☆弐(二つ)の目(観点)の趣(考え)がある。
我(わたくし)が書く説(話)は霊(死者の魂)を化(教え導くこと)であり、腎(重要)なのは、皆(すべて)磊(小さな事にこだわらないこと)である。
「そこで僕は今夜のような晩に独り夜更けて燈に向かっているとこの生の孤立を感じて耐え難いほどの哀情を催して来る。
☆目(観点)は魂也。番(組み合わせて)読む也。
講(話)を套(被う)考えの章(文章)である。
故に、律は換(入れ替える)譚(話)である。
納めたものは相(二つのものは同じ関係にある)。
状(ありさま)は差異に頼る。
「要するに僕は絶えず人生の問題に苦しんでいながら又た自己将来の大望に圧せられて自分で苦しんでいる不幸な男である。
☆庸(一定不変)の目(ねらい/観点)は舌(言葉)である。
忍ばせる章(文章)に悶(思いなやむ)。
内(秘密)の句(言葉)は、幽(死者の世界)の事である。
故に章(文章)に頼る謀(図りごと)は、往(人が死ぬ/そののち)である。
弐(二つ)の文は句(言葉)で普く考える談(話)である。
なぜ僕が憶い起すだろうか。僕はそれを君に話して見たいがね。
☆目(ねらい/観点)は往(人が死ぬ/そののち)の鬼(死者/亡霊)である。
目(ねらい/観点)は訓(字句を解釈し)和(調合すること)で現れる。
未だ幾らもある。北海道歌志内の鉱夫、大連湾頭の青年漁夫、番匠川の瘤のある舟子など僕が一々この原稿にあるだけを詳わしく話すなら夜が明けて了まうよ。とにかく、僕がなぜこれ等の人々を忘るることが出来ないかという、それは憶い起すからである。
☆目(ねらい)は皆(すべて)祷(いのり)である。
化(教え導く)詞(言葉)が代える講(話)は普く諦(真理)である。
聯(並べてつなげ)One(一つ)にし、問う。
章(文章)の念(考え)は霊(死者の魂)を普く目(観点)としている。
套(おおうこと)を腎(かなめ)として認(見分ける)詞(言葉)を推しはかる。
磊(小さなことにこだわらず)憶(思いを巡らせる)記である。
戸外の雨風の響は少しも衰えない。秋山は起き直って、
「それから」
「もう止そう、余り更けるから。
☆己(わたくし)の我意である。
有(存在)は普く胸(心の中)にあり、章(文章)を推しはかる。
修(整えて)算(見当をつける)奇(珍しい)自記である。
詞(言葉)は予(あらかじめ)考えてある味(内容)である。
此処まで話して来て大津は静かにその原稿を下に置て暫時く考え込んでいた。
☆詞(言葉)の諸(もろもろ)で和(調整する)記である。
他意を新しく整えると現れる講(話)がある。
解(わかり)致(いきつかせる)のは、竄(文字や文章を入れ替えること)である。
弐(二つ)の講(話)の拠(よりどころ)である。