よく考えてみたら、"人生の裏側"にあった時、私は考えることも、分かろうとすることも、疑うことも出来なかったのだ
それで、何かが...究極の真理だとかが分かったとか、理解出来たとか、悟ったとか目覚めたなどと言える訳が無い
それで何かをエラそうに宣うとしたら...すべて真しやかなご託だろう...
何という身の程知らずなことかi
非二元とか二元とか多次元とか高次元とか...
"私は無い"とか"全体しか無い"とか"時間は無い"とか"今しか無い"とか"死は無い"とか..."すべて有る"とか...
分かったような物言いで、何かがワカたれる...切り離される
一体何が分かったのだろう...
これが分かったら、信じたら、救われるとか悟れるとか...
あるいは...流行りに乗り遅れる...主義とかステータスとかアイデンティティとか...
信奉する教師がそう言ったから...信じないと救われないから...
ワカるとは"分別心"...
ちっとも得心し、腑に落ちてる訳でもないのに、何とか"ストン"といかないものかと頭を捻ってみても...
身はちっとも頷いてくれない...
いつの間にか頭の中に悟ったような自分i
神サマに取って代わったような自分i
胴体とも、迷った、救われてない衆生とも切り離された自分i
ワカったものなど何も無い
何かが落ちてきたような、私のすべてが落ちたような...
腑に落ちるなんてどころでない、"そのまんま"...
この"まんまのこと"は他には代えられない
何が正しかろうと、間違っていようと"まんま"照らされるのを受け入れるのみ...
そこを正しそうな神の声で誤魔化して...
"そのまんま"からワカたれる
正しい神に従ったつもりでも、身はちっともついてこない
私が丸ごとまんまで居られるものを
異なる、アダシ神に代えることは出来ない
私には、私の...あなたにはあなたの門が開かれなければならない
そしてそこから私の、あなたの神なるものが顕れてすべてを物語る
真しやかなご託も、ヒマ人の言葉遊びもやむだろう...
何が正しいのかはワカらないけれど...
私やあなたが"まんま"で楽しければ...それはゼッタイ正しいこと
ワカっても、ワカらなくても...
それで、何かが...究極の真理だとかが分かったとか、理解出来たとか、悟ったとか目覚めたなどと言える訳が無い
それで何かをエラそうに宣うとしたら...すべて真しやかなご託だろう...
何という身の程知らずなことかi
非二元とか二元とか多次元とか高次元とか...
"私は無い"とか"全体しか無い"とか"時間は無い"とか"今しか無い"とか"死は無い"とか..."すべて有る"とか...
分かったような物言いで、何かがワカたれる...切り離される
一体何が分かったのだろう...
これが分かったら、信じたら、救われるとか悟れるとか...
あるいは...流行りに乗り遅れる...主義とかステータスとかアイデンティティとか...
信奉する教師がそう言ったから...信じないと救われないから...
ワカるとは"分別心"...
ちっとも得心し、腑に落ちてる訳でもないのに、何とか"ストン"といかないものかと頭を捻ってみても...
身はちっとも頷いてくれない...
いつの間にか頭の中に悟ったような自分i
神サマに取って代わったような自分i
胴体とも、迷った、救われてない衆生とも切り離された自分i
ワカったものなど何も無い
何かが落ちてきたような、私のすべてが落ちたような...
腑に落ちるなんてどころでない、"そのまんま"...
この"まんまのこと"は他には代えられない
何が正しかろうと、間違っていようと"まんま"照らされるのを受け入れるのみ...
そこを正しそうな神の声で誤魔化して...
"そのまんま"からワカたれる
正しい神に従ったつもりでも、身はちっともついてこない
私が丸ごとまんまで居られるものを
異なる、アダシ神に代えることは出来ない
私には、私の...あなたにはあなたの門が開かれなければならない
そしてそこから私の、あなたの神なるものが顕れてすべてを物語る
真しやかなご託も、ヒマ人の言葉遊びもやむだろう...
何が正しいのかはワカらないけれど...
私やあなたが"まんま"で楽しければ...それはゼッタイ正しいこと
ワカっても、ワカらなくても...