人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

永遠の汝

2021-06-29 10:12:08 | 独語
「誰かがあの時、僕の魂を訪れたのです」
(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」/アリョーシャ.カラマーゾフの言葉)

誰かが居る...
いや、何かと言うべきか?
誰も、姿も見えやしない...
ただ、そこに私の何もかもを変えてしまう何かがあるのだi
これに出くわしたら、今までの私ではなくなる...
不可知なる、何かのエネルギー?
だけど...こんなにも私に真向かいに、私の中も外もまるごとそうなってしまうことなど...
何かのエネルギーが作用した、などで語られるだろうか?
私は私自身に出くわしたのか?
その私は全く今までの私の何もかもを超えているi
そして、何もかもが元々そうなっていたi
変えることは、帰ること...
私は神に出くわしたのか?
だったら...それは今まで神について知っていた神などではないi
神を信じる、など簡単に言えることじゃない
でも...神であっても、何であっても...
いや、誰かであるものなしに、この私はここには居ないi

誰かが居る...
私を超えた誰か?
それとも本当の私?
もはや、それは誰かじゃないi
三人称なんかじゃ語られないi
私であって、私じゃない...そして誰かでもない...
永遠の汝i...
コメント (2)
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言葉は諸刃の剣

2021-06-27 09:17:59 | 哲学・思想
人間の生活には言うまでもなく、言葉というものが不可欠です。
ことに社会生活においては、この言葉が如何に絶大な影響力を持っているかが知られるでしょう。
我々は、言葉に支配されていると言ってもいいでしょう。その本来の役割は、コミュニケーションのための道具であるにも関わらず...
言葉は、その伝えようとするものの象徴に過ぎないのです。
逆に言えば、その内実あっての象徴とも言えるのです。
"コトバは神と共にあった"(ヨハネ伝)
私は、この言葉が内面生活にあっても、いやそれにあってこそ、多大な啓発をもたらすものであることを感じざるを得ません。
例えば神という言葉。人が聞けば、"何だ神かi"で終わってしまうのかもしれませんが、パッと"神i"と意識されるだけで、"現臨"が降りて来て、思いが離れて"実存"が開かれるようなことに...
この文章だけで、どれだけ言葉に言い表せない象徴語が使われていることか...すべて"神"の一語に内包されているものの消息を伝えているものなのです。
何千、何万語をも費やされねばならないことを、この一語で言い表しているに他ならないのです。
これは、瞑想や祈りにあっての、ある種のマントラにもなり得るものでしょう。
単に神という言葉を思い浮かべ、発したとしてもそういうことにはなりません。これは"意識される"ということがミソなのです。
形としての言葉だけで、"言葉される"だけだったら、"神とは何ぞや?"、だの"どの神様のことか?"なんてことが取り交わされ、ずっとどこにも行き着かず、考えばかりが堂々巡りするだけでしょう。
ここで重要なことは、内実をもったものが内観されることなのであり、字義のことは二の次なのです。
この内実は、言葉を超えた意識の領域にある...私の最近の流行語(?)"実存開明"は、正しく意識の開明と結び付いていると言ってもいいでしょう。
言葉は実に思いを超えるか、否かということを巡り、我々の精神生活の決節点ともなるものと言えます。
言葉の奴隷となるか、言葉を超えた現存に与るか...諸刃の剣という他ないでしょう。
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予断と予見

2021-06-25 11:56:26 | 哲学・思想
私はどうも勉強不足のためか、"予断"と"予見"という言葉を区別することなく使っていたところがありました。
どちらも日常会話ではあまり使われない言葉なのでしょうが、これが哲学、宗教などあらゆる精神的な道を歩む上で、実に大事なことに触れてくると思われるのです。
予断というのは、例えば、多くの組織宗教などに蔓延しているような言辞、"神は全知全能であって、人間には自由意志は無い"、"使徒信条を信じない者はキリスト教徒ではない"、"誰それはシャカの生まれ変わりである"...といったような、予め、その言葉を信じ、受け入れることを前提にして、定められているような教えの在り方に対して言っているのです。
つまりそこでは予断を許しているということです。
しかし、一人一人のリアルな実存的局面にそんなことが当てはまる訳がないi...自己の外から、上からのどんな有り難き"お言葉"が降されようと、それを如何に奉っていようと、内側から根底から、全人格が、それに頷くことが出来るであろうか?
狂信こそすれ、共振するには至らないものでしょう。
予め、そうだとされるもの、定見、固定観念の突破無くして、実存に光が差し込み、開明されることは無いのです。
自己の実存に予断を許すことは、精神の枯渇を意味するものなのです。
私はしかし、予見という言葉もあるところで、予断と同じような意味合いで使っていたようなのでしたが(そういう意味もあるかもしれませんが)、ここでは(国語の勉強じゃないんだから)はっきり区別しておきたいのです。
"この教え以外に救いは無い"、という独善と予断に満ちた教えに接したら、マトモな精神の人なら、それ以外のもっと自由で、心から共感出来る教えの存在が"予見"出来るでしょう。
人間精神には、頭脳知による思考しかない、と世人は予断しても、ある人には思考とは別に、頭からではない、ハートからか、何かしらもっと心を揺さぶる何かがあるのが予見されるかもしれません。
予見とはこの場合、現状を超えて、その先にあるものを見透すということです。
これは、多く思考を超えた、感覚的なものからもたらされるものです。
この一寸曖昧にも感じとれる言葉の違いは、思いを超える、超えたものに与れるか、否かを巡る上でとても重要なことを示唆していると思います。
予見は、超越的なものを呼び込むこともあります。
人生は、世界はかくの如きもの、ということに疑念をいつも感じている人には、人間は思われたままでないものであること、この見える現実世界には、見えないさらにリアルな世界が隠れている、というようなことが予見されるでしょう。
本当にそこに自己の実存に照らされて、そう感じている者ならば、容易く他人がそう言っている、信じている言葉を鵜呑みになど出来ないはずです。
一人一人の創造的生には予断など許されないのだから...
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実存と象徴

2021-06-23 11:59:09 | 宗教
宗教などでは、確かその団体を設ける時には、法で定められていたかと思いましたが、教義というものを予め設え、それに信従することになっているようです。
まあ、何を信じているのかが明確になっていないと、何しに集まりに来てるのか分からん、ということになるのでしょうが...。
しかしながら、宗教、信仰というものは、一人一人の実存に即したものでなければ、生きたものになろうはずもなく、これほどこういう実情を無視した在り方というものは無いと言えるでしょう。
教義に縛られれば、縛られるほど実存が開かれることは不可能になってしまうのです。
"聖書に書かれてあることは逐一真実である、イエスを信じないと救われない..."
現実問題として(私の実存に即して)、私がかかる宗教の在り方に関わることはあり得ません。又他の何らかの思想統制に関わることについても同様です。(今の日本が戦時中のような、北朝鮮のような体制でないことに深く感謝を覚えずにいられません)
私は、かつて新宗教に関わっていたことで、このような精神的支配を受けていたのです。こういう思いは、その時受けた苦汁から来ているのです。
しかし、又現実(実存)に照らせば、その教義の言葉通りに事物が在り、展開していることなど分かりようもなく、そこでは正に言葉が絶大な支配力を持っていると言えるのです。
言葉というのは、本来それが指し示すものを伝える媒体であったにもかかわらず...。
要するに、そこでは形ある言葉が信仰されているのです。それは、形ある像を信仰することよりも、はるかに強固な偶像崇拝と言えるでしょう。
神、霊的なあるもの...それらは有るとも無いとも決めつけられるものではありませんが、言葉はそれを実体あるかのように思わせる道具として実に大きな役割をして来ました。
つまり神は、実体あるか無いかは分かりませんが、誰かエライ人が実在している、と言っているから信じちゃうのです。
それは、見えない、聞こえない...しかし時に、"言葉を超えて"実存的に感覚されることはあるものです。
それが自己を超えて、他者との関わりにおいて感覚されることもあります。宗教というものは、ここから生まれると言ってもいいでしょう。
この感覚は、勿論言葉以前のもので、それを伝えるには、宗教の原始形態に見るように、ある象徴~形あるもの~を借りるなどに依らなければなりません。
象徴...原始の言葉は象形文字であったように、言葉は本来象徴なのです。
言葉が何を伝えてようと、私の実存に即したものは、それを超えたところにある...
象徴が伝えるものに意識が向かわず、それ自体に囚われることは、本末転倒以外の何ものでもありません。
だったらそれを逆手に取って、神様は艮の金神だろうと、天理王の命だろうと何だって構わんではないか?...
"ほう、この神様には、そういう何かの由縁があるのですか?"...
"ひょっとすると、それは私の実存に関わる何かを象徴しているのかもしれない...だったらそういうことにしとけばいいんじゃないか?...何、信じなきゃいけないんだとi...イヤだねi"
私は、元々宗教的なことが好きな人間だったのか、先とは違う思いの在り方でいくつか宗教的な関わりもあったのですが、それは、過去のテツを踏まないように意識付けられたのか、このようなものだったのです。
ナニに従わなければ、カニを信じなきゃ救われないだの、ちゃんちゃらオカシイではないかi
私の神様(これ無しに私の実存は開かれない?)を離れた神信仰から、宗教はオカシクなってしまったのでしょう...。

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新たな黄金のバンタム

2021-06-22 10:29:43 | 雑記
"モンスター"井上尚弥が、大方の予想通り序盤KO勝ちで世界バンタム級王座を防衛しました。
相手ダスマリナス(比国)は、もっと出て来るのかと思いましたが、何も出来ませんでしたね。
解説の山中さんが言っていたように、試合開始直後、速い強打を相手の目の前に掠めるように放ったことで、警戒して出てこれなくなったのでしょう。
たまに反撃を試みても、当たらない...どうしようもない...強すぎるi
ところで、3階級で王者となり、階級を上げるという話も出ている井上ですが、現在のところ、今のバンタム級での活躍が一番面白みが持てるように感じています。
というのは、ここには唯一ライバルと言ってもいい、一年半前激戦を演じた相手、ノニト.ドネアが居ます(ただし、私の目にはあの試合の井上は、ようやくらしさが出たのは、10Rからで不調だったと思います)。
又、何かと井上を挑発し続けている、"因縁"の相手ジョンリル.カシメロが居ます。何と急遽その"善玉"(友達。日本びいき)ドネアと"悪玉"カシメロのフィリピーノ同士の試合が決まってしまいました。
ということは、カシメロ戦が決まっていた、もう一人の王者ギレルモ.リゴンドー(キューバ)は、この戦線から逃げたのか?...個人的には、技巧と強打の対決ということで、一番見たいカードの相手なんですが...
やっぱり、いくら強すぎても、歴史に残るボクサーというのは、名勝負と共にあると言ってもよく、好試合を期待出来るような相手に恵まれた方が、観ている方としてはいいですね。
といって、これまでの相手が弱いという訳ではけっしてありません。井上が強すぎるのですi
井上は、とにかく私が見てきた、これまでのボクシングの歴史を塗り替えてしまったボクサーです。
バンタム級だけを見ても、過去のどのボクサーをも凌駕してしまうように思えてなりません。
"黄金のバンタム"エデル.ジョフレ(ブラジル)、そのジョフレに唯一土をつけた、ファイティング原田、"元祖モンスター"ルーベン.オリバレス、"KOアーチスト"カルロス.サラテ(共メキシコ)...
これまで、バンタム級史上最強の声が高かったのは、ジョフレでしたが、他に長谷川穂積と山中慎介、ドネアは、一発必倒のパンチャーであり、井上を脅かす要素(彼に勝てるには、他にリゴンドーを上回る神業的防御の達人か、ルール無視のラフ.ファイターぐらいしか思い付きません)はあると言えるでしょう。しかし、その"速さ"、"防御の差"により、先に被弾してしまう可能性の方が高そうです。
いずれにしても、井上には、"全キャリアで最も光輝いていた階級は?"という問に、答えられるような歴史を作ってもらうべく、もうしばらくこの階級に留まっていて欲しいと願ってやみません。
彼こそは、新たな黄金のバンタムとなる日も近いでしょう...。



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