人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

霊性の導き

2025-01-19 06:27:32 | ガイダンス
心霊学などでは、人それぞれにいわゆる守護霊、守護神という存在がついていると言われていますが、私はそのように実体のあるものとして、言い表したことはほとんどありません。
理由は単純でそれを見たこともないし、分からないからです。
しかし、そういう何らかの導きというものはいつも感じていて、疑うことは出来ません。
いつも言っている、神的な現臨と呼んでいるもの自体が見えない導きと言ってもいいのです。
ただ、それは普通守護霊として理解されているように、日常の例えば危機的な状況から自分を守ってくれるとか、自分に益することをもたらすように導くとか...そういうことも勿論無い訳ではありませんが、特に言えることは霊性の道に関連しているということなのです。
それは、本来の意味でスピリチュアルな道なのだから当然のことでしょう?
又、その自分に益する、御利益じゃないけど、必ず平安、幸福感を伴うものなのだから、その意味ではそれも当然あることなのです。
これはしかし、その幸福感に与る“実物“が得られる、それを通して、ということじゃなくて、その導き自体が直接的に幸福感をもたらすということであり、つまりこの世的に、いいことがあろうとなかろうとそれで幸福になれるということなのです。
霊性の道というのは、こちらの霊性が開かれるということに他なりません。それは、神や霊的存在というものを対象にして、知識的に知るということではなくて、自己そのもの、実存と深く関わるものなのです。
だから、そういう導きを受けるということは、段々神的なことと真我的なものは、切り離されなくなるはずなのです。
そして、それがこちらに臨むこと自体が導きだと言いました。具体的にどういう感じなのかと言うと...それは、“じん、じん“と、こちらに迫り、浸透して来るような感じです。
といっても、何だか分からないでしょう?...純粋に感覚的なものなんだからしょうがないのです。
それは、ですから何か霊聴のような形で、“あーしなさい、こーしなさい!“という言葉が聞こえて来る訳では勿論無いのです。そんなものに振り回されてたら、日常生活に混乱を来してしまうでしょう。
ただ、これは思慮分別で、というよりも、意識的にこちらからその導きにあることを問いかけることようなことを自然にやることがあるのです。
例えば、直感的にこう、こう、こういう道を行きたいと感じて、“これでいいですか?“みたいな問いかけをする。
すると、その“じん、じん“が“ずん、ずん“とより強く感じられるようになるのです。
これが、“そうだ、そうだ、それでよい!“、という合図のように感じるようになるのです。私の場合。
何も感じない時はおそらくどうでもいいことなのでしょう?
おっと...“あまりそういうことは書かんでよい!“、という示しがあったので、もう大概にしますが(こういう否定的な感じというのは滅多に無いのです!)...
いつもは、そういう肯定的な感じで示されるものなのです。
しかし、これはどうも、私だけが知っていたらいいことだったみたいです。
心霊学では、知らんでいいことをやたらと説いたりするでしょ?
私の守護霊さん(?)は、いわゆる心霊学はお気に召さないようです。
スピリチュアルな道は、本来の霊性の道に帰らなければならないのです!
“ずん、ずん“(?)...




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸福と導き

2024-09-15 09:25:56 | ガイダンス
先日、ラジオの深夜番組で脳内物質ドーパミンについて語られていました。
それは、なにか幸福を感じた時に分泌されるものらしいのですが、新たな研究によると、それはその感覚に基づいてある行動へと導くという性質があるとのことです。
それを聞いて私は、その二つのことは分けられないものではないか、とどうしても思わざるを得ないのでした。
つまり、人間の行動を促すものは、幸福感であり、それを感じる方に赴くということ、生来から、本能的機能からして人間は幸福を求めるように出来ているということなのでしょう?
このことに対し、自分の幸福ばかり追求したりするのは、自己中心的な在り方ではないのか?、とか倫理的なことを持ち出すのは、別の問題であり、第一それが本能のレベルとなっては如何ともし難いことと言わねばなりません。
これに照らせば、人間が幸福を追求すること自体悪かろうはずなどない、と言えるでしょう。
しかし、そもそも幸福とは何か?、それが肝心なことなのです。
先の、自分の幸福ばかり追い求めてみて、人生の常道から言っても、その通りにならないのが普通でしょう。
幸福というものが自分の利益、快楽と結びつけられるならば、これが正に自己中心の欲望の充足ということになるでしょう。これを促すものがそのドーパミン効果なのでしょうか?
何か油ぎったようなものが分泌されるのを感じこそすれ、それが幸福の実現にはつながらないと私には感じられます。何故ならば、それは何らかの不都合が生じて自滅の道を辿るだろうから!...
要するに、その根本的幸福感と自分のみに偏りがちな利益、快楽とは異なるものだ、ということなのです。そのことは、それらを追求することで、心の底から、自己の内奥から幸福を感じられるかどうかで分かることです。
幸福というものは、さも”これを得れば、こうなったら...”という幸福を思い描いている状態とむすびつくものでは無いのです。それを得ずとも、そうならなくても、それは感じられる!...それが根本的幸福なのです。
現に今、特別なことは無くとも私にはハッキリと感じられます。”幸福だなあ!”、と。
そして、明らかになるそういう状態に導くものがあるのが!
私は、ずっとここで、見えない導きについて触れて来ました。それは、愛、平安、リアリティ(これらが幸福そのものでなくて何であろう!)をもって導くのだ、と。
それは、自然とそういうものが現前している方に、すべての私が赴かざるを得ないということなのです。
これはね、もう本能からして脳内にそういう風にプログラミングされてることなんですよ!...って、それは、専門の科学者がナントカ、カントカとか言ってるだけなんであって、そんなこた、知らないですよ!
仮にもし、こういうことが、脳内物質だけのことで説明されることが実証されたとしたら!
すべての宗教は、ドーパミン信仰に統一されるであろう!
いや、とにかくこれは、科学では見えない領域のことなんだ!
科学者は、幸福そのものと行動とは、分析的に分けて理解するのだろうけど、これは、行動とか思考とかのことでなくて、より根本的には意識と関わることなんです!
このことは、肉体とか精神に分けられる部分的な私でなくて、すべての私、私の神にしか分からないことでしょう!...


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あなたの神の本願

2024-04-11 10:13:59 | ガイダンス
親鸞上人は、おそらくわが国の仏教宗祖の中でもっとも親しまれ、その歎異抄も仏教書の古典の中でもっと読まれているものと思われますが、その眼目であろう、“弥陀の本願“という教えは、果たしてどのくらい受け取られているでしょうか?
“法蔵菩薩が四十八願を成就した“、とかいうお話は、あくまで方便として説明的に説かれたものであり、いくらそれを観念的に信じていても、今、ここに生きている自分に受け取られていなければ何にもならないでしょう。
私はもう本願という言葉を思い浮かべるだけで、ひしひしと、“私でなく、あちらの方が私と一如となるべく働いて下さる“のを身に覚えて、喜びでたまらなくなりそうです。
しかし、私がこれに触れたのは、仏教の方面には疎かったためか、親鸞上人の教えではなく、小池辰雄先生の“キリストの本願“を通してのものだったのです。
いや、それにしても小池先生は(キリスト者だから当然なのでしょうが)、親鸞さんについてのまとまった論考のようなものは、私の知る限り残してないと思われますが、本当にこの日本の精神風土に息づいている、本願の消息を先生なりに体現されているなあ、と感じずにおれません。
それで、私などは逆に親鸞上人が伝えた本願というものがどういうものだったのかを学ばされるようなのです。
勿論、キリスト教には本願などという教えはありませんが、新約聖書のロマ書にある「御霊自ら言葉にあらわせるない切なるうめきをもって。私たちのために執り成して下さる」という使徒パウロの言葉に同質のものが伝わって来ます。
思い、為そうとする自分からは、神的なものにつながることは出来ない...それを超えて、つながろうと促してやまないものがある...
全託するという...これがあるから全託せざるを得なくなるということなのです。
もはや、そこでは神や仏は信じる対象ではありません。対象化していては本願というものは分からないでしょう。
これは、極めて実存的なことなのです。(この実存的という言葉も私は小池先生を通して初めて触れたのでしたが)...それはどこまでも私やあなたの問題であるはずでしょう。
本願というものは、弥陀のものでも、キリストのものであってもいい!...あなたの神の本願なのです。
この意味では、普遍的なものとも言えるでしょう。
要するに、すべての人のためのものが実は...“親鸞一人のため“(歎異抄)、という訳です。
ところで本願というのは、英語で何て言うのか?...アプリケーション?...(敢えて間違えそうだから英語で書かないが)“私が信じている神や仏の原初的な願い“?
何ともシステマチック、間延びしていて他人行儀だこと!
もう、本願の一言でその息吹きが伝わるではありませんか?
この国に生まれて幸福だなあ、とつくづく思います!...




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

導師と秘儀伝授

2024-02-08 09:30:14 | ガイダンス
仏教や道教など東洋の宗教的な道では、導師の存在が重要なものとされています。
あたかも導師無くして悟り、道の体得は不可能とされるが如くです。
取り分け、禅仏教にみる師子相伝による法の伝授はよく知られていますが、チベット仏教には“ゾクチェン“と呼ばれる、インドの非二元の道に通ずるような、余計な階程を通さずに直接経験に導く道が知られています。
ここでも導師の存在は不可欠で、そこから弟子にその経験に開かれる、秘儀?が伝授されるのです。
それは“リクパ“と呼ばれ、それに与ると純粋意識が開かれると言います。
純粋意識が開かれることは、思いを超えるということであり、神的な現臨感が深まることで開かれるものと同じと言っていいでしょう。
しかしながら、もしその導師が“自分自らがこの秘儀を授けよう!“、などという思いに囚われているとしたら、それは間違いなくエセ導師ですよ!
このことは、チベット仏教の教えをかなり取り入れていた、あのオウム真理教を思い起こすまでもないでしょう!
その導師は、空性とか無化のプロセスを通っておらず、自我意識を超えておらず、むしろ肥大化しているということなのです。
これを思うと、本当の師とは弟子によって見極められてこそのものであり、この意味で“相伝“のものと感じざるを得ません。子弟の関係は、支配し、盲従する道にはないということでしょう。
しかしそれは、そういう特定の導師とは縁が無かった(実際に弟子入りした訳ではないが、大調和協会の「命位様」との交流で、しばしば思いを超えたものに導かれたことはあります)私には関係ないことなの...でもありません!
私にはもう最初から“見えない導師“の存在が意識されていたのです!
ハッキリ覚えています。そこからリクパだか分からないが、あるものを伝授されたのです。そう純粋意識が開かれたのです。
見える人間導師という存在は、例外なく空性、無化の道を通っているはずなのです。そうでなければ私は信用出来ません!
ということは、見える導師と相まみえることは、いつもそこに見えない導師が見据えられているということになるでしょう。
この点、仏教でも浄土系のそれやキリスト教などでは、導師の役目は、本当の見えない導師を指し示し、その執りなしをするという、プリーチャーの性格が強いということが言えるでしょう。
というより、実質修行の道も帰依の道も変わりはない...いや、元より師も弟子も変わりはないのでしょう。
人間は、皆見えない、超越者あって在らしめられているということでしょう!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神の導きは純一

2023-12-24 09:40:36 | ガイダンス
「私はただラーマひとりだけしか、敬うことも愛することも出来ません。私の心も、魂もすべてラーマのものです。私の血の中にも、心にも、魂にもラーマの血が流れております。今も心の中にあるラーマを敬い、愛しているのです」(古代インドの叙事詩ラーマーヤナ)

多くの宗教では、神と一つになるには、敬虔な心を持たなければならない、心を純一に、信奉する神に専一に祈りを捧げねばならない、などと説いています。
だけど、絶えずあれこれ思いを巡らしていたり、何かに囚われている人間の側から中々そういう心境になれるものではありません。
第一どの神、どんな教えに従ったらいいか分かりません。そして諸々の宗教の中の一つを選んで、その奉ずる神に帰依してゆき、他の宗教の神は排し、否定されてしまうのでしょうか?
それで強固になってゆくものは、排他的な思念ばかりなのではないでしょうか?
そこには、思い、為そうとする自分ばかりが場を占めていて、肝心の神は全く思念の外におかれたままなのです。
神の導き無しには、何一つ良きことは始まってこないにも関わらず!...
祈るということは、勿論自分から始めるものではありますが、それはどこまでも宗教の人間の教えでなく、神そのものに向けられなければなりません。
だから、どの神に?って、だからだから、あれこれ思い描いてる人間に訊いてどうするのかってんです!
神は何次元の存在か、悟りには何段階あるかとか、幾つのチャクラを開かなければならない、とか...こんなのはすべて思い描いたものばかりではないか?
神の前ではすべて関係ありません!
敬虔になる、純一になる、専一になる、これすべて神の導きがどういうものかを物語っているのではないか!
あなたをそのようにしむけるもの無しには、そんな心境にはなれないものでしょう。
こう考えると、人を祈りに導くもの自体がそういうものだとも言えるでしょう。
純一に、専一、主一になるとは、そこに例えば宗教が、神がいくつあるように説かれていても、一なるものに貫かれているようなことです。
だから排他的狂信とはまるっきり違うことであり、むしろ広く、自由な心性が自ずから開かれて来るのが普通なのです。
この消息は、すべてで一つであるものとしか言いようがありません。
この帰一的な在り方ですが、そこに自ずから自分自身が諸々の思いから離れて、私という意識に収斂されてゆくものが感じられてきます。
つまり一なる神につながることは、真我の実現につながることでもあります。
これは、あたかも血のつながりのように、本来的に神と同質のものを自分の中に戴いているということを示しているのでしょう。
いや、これはもう親子の血のつながり以上のものではないか?!
意識しただけで、中から言い難きものが呼び覚まされて来るというのは!
だから、思われた自分からは中々始まってこないことも、信じられている神でなく、あなたの神だけに思いを向けることで、容易く開かれて来るのです!
何故ならば、神の方があなたを放っておかないでしょうから!...
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする