人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

どおってことない夏休みの最後の日

2020-08-30 11:22:40 | 回想
まだまだ時間はたっぷりあると思っていたが...
"明日があるさ"、と毎日思い続けているうち...ついに来てしまったi
もう、今日しかないi
今日出来なかったら、どうなる?
死んじゃうのか? 世界が終わってしまうのか?
その最後の日に、こんなことで一日中追われなきゃならないなんて...
もう、死にたいよi
バカバカしい...もう、ヤメた、ヤメたi...

忘れもしない、中3の夏休みの最後の日のことです。
溜まっていた宿題をやりかけてはすぐ手につかない状態で、一日中そんなことばかり考えていて、結局いくつかあった宿題をほとんどクリアすることが出来ず、諦めて寝ることにしたのでした。もう夜が開けて、外が明るくなり始めていました。
"担任の先生からは、たんまり怒られるなあ...クラスの連中からはヤイの、ヤイの言われるなあ...しかし、そんなこた、死んじゃったり、世界が滅亡することに比べたら全くどおってこたないi"
この諦めた時の、あの頭の中に絡まっていたものが解かれ、何かが突き抜けていった感じを今でも覚えています。
"何で折角の夏休みなのに、こんな宿題だか宿業を背負い込まされなきゃならないのか?"...そういうの、他にも沢山あるでしょ?
やらなきゃならないこと、やらされること...
"出来なかったら、やらなかったらどうなるってんだよおi"...別にどおってことなかったりして?
実際に...そんな私は寝不足でふらふらしてはいましたが、何となくサバサバした気持ちで教室に入り...宿題の話に当然なって、先生は怒りを通り越して、呆れてしまったのか、さほど激しく叱責はされなかったのです。別にどおってことなかったのです。
ただ、"他の課題はいいから自由研究だけは、何が何でもやるようにi"、と厳しく言い渡されたのでした。
私は先生がそう言われる道理、というか自由研究の意味を初めて理解出来た感じがして、その2学期の初日1日かけて苦にするどころか、(好きな東京の河川のことをノートに図を交えて好きなこと書いただけでしたが)、割りと楽しく遂行出来たのでした。
何しろ自由研究なのですからね。夏休みはこうでなきゃいけないi
こういうことならもっと熱心に着手すべきだったなあ、と後悔もしました。
ともあれ、夏休み最後の日、諦めたことから、やりたくないこと、自ずとやりたくなること、こういうことが他人の眼を意識する(そうなると、どおってこたないことが生死に関わる一大事にも思えてくる)でなしに、自分自身のこととして知らされたのでした。
諦めるとは、自ずと考えることから離れるということです。諦めることで開かれることもあるのです。
もう最後、後がない、と追い込まれてしまうので、諦められるのです。といっても、8月31日だろうと9月1日だろうと、同じように日が上り、朝が開けるんだから、全くどおってことありません...。



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朝の目覚め

2020-08-29 08:18:56 | 詩的文章
朝の目覚め...
これでよしi これでいいんだi
すべては完璧i
このものと共にあれば...
他に何を望もうか...

すべてに同調するかのように、秋の虫が鳴いている...
外が青みがかってくると、セミが鳴き始めた...
又、暑い日が始まろうとしている...
イヤだなあ...うっとおしいなあ...
急に忙しくなってきた...
仕事休みなのに一体何があるというのか?
何をしようというのか、何を考えているのか?
すべては完璧だったんじゃないのか?
安らぎ...
安んでいるもう一人の私は下の方で休んでいるよう...
そいつを分けちゃもらえないだろうか?
でも...寝てる子を起こしちゃいけないi
彼は朝になると目覚めることになっているんだ
あの善き音信とともに...

どうか、善き目覚めがありますように...

私は性懲りもなく願い続ける...
私が私だけで目覚めたためしなど一度もないのだから...
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忘れようったって、忘れられないi

2020-08-26 12:08:09 | スピリチュアル
前回に書いた私の知り合いの女性との会話で、私が「"人生の裏側"に足を踏み入れると、そこはたとえようの無い至福感に満ちており...」ってなこと話したら...「それは忘れることが出来ないのでしょうね?」と訊かれたので、私は当然のごとく「そi、そりゃ忘れようったって、忘れられませんよi」とフツーに返したのでした。
だけど、私が言ったことにはフツーの意味以外の含みを持たせていたのです。
フツーはそういう忘れられない記憶のことを言うものですね。体験として覚えられているものとかはそうですね。
だけど、そういうものは脳裏から離れることだってありますよ。
しかし、頭から消えたって、在るんだからしょうがありません。体の一部のように...しかし、こういうことを言い表す言葉が無いとキテるので、"身が覚えている"とか言うしかないのです。
身といっても、単純に肉体のことじゃないから、ああ、もうヤヤコシi...だけど、それは頭の記憶よりはるかに具体的で、恒常的に覚えられているのですi
その会話でも話したのですが、その歓喜溢れる体験も数日して元の木阿弥になり、それから何度も"ああ...あの歓喜の瞬間をもう一度i"と、望んでみたものの、どうしてそうなったかも分からないので、その術も見つけられないでいたのでした。
この間は身に覚えられておらず、先のような含みで言い表すことは、到底不可能だったのです。
ところが...皮肉なことに、もうそのような追体験を望むことを断念したことから、頭の中のことが溶けて、五臓六腑に染み渡るようにも身に覚えられるようになったのです。
こういうことは、自分自身からはそうならないもので、玉城康四郎先生の「目覚めの事態は全く個人のレベルを超えている、個人的意識に囚われたらその事態から外れることになる」という意味の言葉に触れたことが大きかったのです。
捉えよう、捉えようとすることは、即ち思いに囚われることに他なりません。
とらわれは自分からは中々離れられないものですが、自分を超えたものに捉えられて、自ずと落ちたりすることもあります。
そういうことに気付かされていたにも関わらず、尚も私は"究極の悟り"を目指そうなどと性懲りもなく囚われていたのでした。
それもこうしてブログを書いているうち、自ずと意識的にさせられるからなのか、いつの間にかどうでもよくなってしまったのでした。
よく悟り系スピなどでは、個我的思いから離れるために、"体験のことなど忘れた方がいい"、などと言うのですが..."在るもの"については無理だと思います。
"忘れようったって、忘れられないi"ものはどうしようもないでしょう。
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それは...分からないのですi

2020-08-25 10:04:55 | スピリチュアル?
こないだある集まりで、どういう経緯でか、共に女性の私の知り合いとその友人とで、死後の世界の話で盛り上がっておりました。
その友人は、そっち方面への興味が強く、いくらか霊感もあるようで「死んだらね、自分が会いたいと思っていた故人と会えるのよ、会いたいって思えば会えるのi」と、自信たっぷりに知り合いに語り、彼女も「そうなのi、母に会ってみたいわあi」とテンションが上がっていたのでした。
私は...「死んだ後のことは、死んでみなきゃ分からないですねえ...」とそれを下げるよなこと言ったかもしれませんが、「ま、そりゃそうだわ」ってことでその場は落ち着いたのです。
その後友人の方が帰って、知り合いと二人になった時、「こう、毎日暑いと意識がトビそうになって、あの世に足を踏み入れそうになるよ...あん時のようにねi...」と、今度は先の話が頭にあったのか、私の方からつい、そのあの世?(人生の裏側)を垣間見た時のことを話してみたくなったのでした。ホントはそれはあの世だか霊界だか分からないのですけど...
それで先の話の続きのように「あなたもお母さんに会いたいでしょ?」と訊かれたので、「いや、特に無いですねえ...最愛のものと会うことが出来れば、母ともそれはつながっているでしょうから...」と、数十年前のことも交えて話したのでした。
こういう話になると私は相手に"とらわれ"を持たせないように、言葉を選んだりして注意を払うのですが、瞑界のようなところで巡り会うという"最愛なるもの"について話が及べば、どうしたって聞き手は、"それは一体誰?、何i、ご先祖様?、守護霊様、神様..."と探りたくなってこようというもの...
私は例によって..."それは...分からないのですi"、と答えるしかありません。
世の人はどうしても、"然して、その実体は?"とそれが何であるか知りたくてしょうがないようなのです。
その心理は分からないでもありません。得体が知れないってのも確かでしょうし...それにこういう話だとどうしても彼女のように、何らかの"霊的存在"という固定観念を持ち勝ちになってしまうのもやむを得ないのでしょう。
ヘンな霊に惑わされるって例もあります(そういうものを感じたら徹底的に疑った方がいいです!)
「その"霊"は見えるんですか、聞こえるんですか?」「いや、見えも聞こえもしませんi」と言うんだから、余計そりゃ何だ?ってことになってしまうでしょう。
「それが何か知りたいと思わないのですか?」「思いませんi」
それが何かは分からないけど、疑いようのない、現存感というものがあります。リアリティ感...そして今生で味わったことの無い愛、平安...導かれ、守られているという感じ...
こういうことが感じられるということが、ホントにホントーに大きいことなのですi 本当の安心がある...だからそれが何なのか...知ろう、探ろうという気が起きてこないのです。
第一、もし、それが見えたり、聞こえたりするものだったら...それはそれだけ"とらわれ"を持ってしまうということになるじゃないですか?
おそらく、その愛、平安、リアリティといったものは、別様の自由を欠いたもののように感じられるでしょう。
だから...分からないものは分からなくていいのですi
考えてみれば、思考がマヒしてしまうんだから分からないのが当たり前なんです。けれども感じることは出来る...今生では味わうことが出来ないものを...
"今生では決して味わうことが出来ないi"
それは、世の多くの人が"考えている"ようなことなんですけどね...ホントは心の底ではみんな知っている...かもしれない?

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生きがいとは?

2020-08-23 09:46:51 | 雑感
このブログの一番最初の記事にも関連したことを書いたのですが、これから書くようなことは言わば当ブログの基調と言ってもいいのです。
人は誰しも生きる上で、"生きがい"というものに肖ろうとし、それを求めるものですね。
しかし、何と多くの人はそれに"何を為すか、成すか"ということと結びつけていまうことでしょうi
そして、何らかの理由で、為そうとしたことが出来なくなると、生きがいの喪失を感じてしまったりするのでしょう。
又"使命感"といったものにとらわれ出すと、さらに"為さねばならないi"という思いも加わり、為せなければ、"自分は何のために生きているのか?"と自責の念に駆られたりします。
そういうことが悪いと言っているのではないですよ。今為していること、成したことで生きがいを感じることも勿論あるでしょう。だけど、そうでないことだってありますよi
"これをやるのが生きがいなんだi"、と思ってはいても、いざそれを為していても、心の底からそう感じられないこともあるのです。
その理由は、為すこと以前に、"自分自身の在り方"がどっかズレているためだったりするのです。それは、その生きがいを感じるというその具体的な行いと、生の根本的な在り方とのズレと言っていいかもしれません。
生きがいというものは、幸福と共にあるものでしょう。しかし、為すことで必ずしもそうならないとしたら...おまけに為せなければ、何か"重し"がのしかかってしまうとしたら...
もし、根本的なところで幸福に感じられなければ、何をやってもそう感じられなくなるはずです。逆も又真なり。
自分自身で在ることで幸福なら、何をやってもそう感じられるはずなんですi そして自分自身で在ることで幸福でない訳が無いのですi
それは生かされていることと言い換えてもいいでしょう。
大きく、深い人生の中で、"何を為すか"、"成したか"ということはごく一部分のことに過ぎません。人生に見切りなど自分ではつけられないのですi
私は人生の裏側へ足を踏み入れてしまった人間...そこでは何も考えられず、何も為し得なかった...しかし、そこには到底今生で味わえないような生の充足感があったのですi
だけど、私はそういうことになる以前から、そのことは何となく知らされていましたよ。(思われたままでないということは、何と思った通りのものであることかi)
自分本来の在り方のことは、小鳥の囀ずり、縁側で"ねこ"ろんでいる猫などに触れてみれば、何か感じてこないでしょうか?
何もしなくても幸福に感じられたなら、そのことに意識を向けてみる...すると自然と向けられちゃうということが分かってくるでしょう。それが自然な在り方なのだから...
これは、人生そのものの基調なのですi
そういうことにこそ、"ああ、生きていた甲斐があったi"、と感じるのではないでしょうか?
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