人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

今日の空はリアルに灰色だった...

2019-09-29 11:34:16 | 雑感
一昨日、阿部敏郎さんのブログを拝見しましたが、いつになく(?)リアルなものが伝わってきました。
あんな生活感が希薄な生き方をしてる(?)くせに、いつも生活が不安なのだとか、すぐカッとなる性格で、無理に追い抜こうとした車の運転手にエアガンをぶっ放したくなったとか...そうそう、自分は矛盾した性格で人を愛したいという気持ちがある一方で、人のことがうっとおしくなることもあるんだとか...要するに自分のありのままの姿らしいことを、"ぐだぐだ"と書き連ねていたのです。(こういうことを正直に書けるあんちゃんには好感が持てますが...)
これが何故リアルに感じられるかというと...その大きな理由の一つは、じっつに"私のことでありすぎるようなこと"を言い表していたからでしょう。
そこで多くの方が"同様に感じた"というコメントをフォローしていたように..
私は人様に何かを教え導くような身分でも何でもないですが、こうしてメッセージらしきことを他に向けて発信していると、つい自分を一歩高いところに置きたがることをしてしまいます。
だけど...どうしても持って生まれたサガに、ガンとして動かない現実へと連れ戻されてしまうのです。
この現実感こそがリアルなものを呼び起こさずにおれないことなのですi
"私はずっと業生のままを生きている"...それがありのままの現実なんです...。
ところが...一夜明けて又そのブログを読んでみると..."不安、不信、分離感...そういう思いというのは、あなた独自のものじゃないんです、"あなた個人というものはなくて、あなたは全体そのものなのです"、といつものように戻ってしまいました。
誰しもが思っている、感じているこの業的現実は、全体意識みたいなものの表れという風にスリ代わってしまったみたいです。
うーん...私にはそこに全くリアリティは感じられませんi いつものように...
で、"そういう現実に囚われていないで、ははーん、全体てーのは、そういうものを見させることもあるんだなあ、と気楽に思いましょう..."て、そうなるかi
全体が"この世界は終わりにしよう"と言ったらどうなるんでしょうか?
業的現実の前には我々は無力である...それは如何ともし難いものです。
そう感じるものであれ、私はそれが全くそのままであり続けるとは言いません。
この現実の裏には、それを超えた、もう一つの現実が隠れているからです。
真のリアリティの出どころはそこにあるi 個人から来るのか、全体から来るのか知らないけど、こちらから思い方を変えようとしなくても、縺れた思いを解き放つものがその現実を割って臨んでくる...
どこまでも、"変わったi、変えられたi"という事態は、この思いを超えたリアリティの中で起こることなのです。
そうでなければ、現実をどうにか出来る、変えられるという自分がこの世界の主に成り代わったままでしょう。
どこまでも、私は主に取って代わることは出来ないのです。
人間は本当に危うい生き物なのです。この世界は全くこの我々一人一人の現実を写し出しているようではありませんかi
今日の空は、明日は晴れるとも嵐になるとも分からない、灰色をくっきりと写し出しているのではないか?
それはしかし、それをもたらす、あの超現実的な光にあってのものなのです...。
(一昨日の件の記事はそういうことを伝えていたのでは無かったか? 気のせいかな?)
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霊界物語の裏読み

2019-09-27 11:50:59 | 人生の裏側の図書室
私はいつもスピ界隈に蔓延している、短絡的なオカルト的言説に迎合してしまう、思考停止の事態をいつも嘆かわしく思っています。
ここに見られるのは、精神的に他を支配せんとする者と、されようとする者との共依存というものでしょう。
こういう精神の貧困さ、その自由の欠如した在り方においては、人生の裏側のあの愛.平安.リアリティに導かれることは望むべくもありません。
こういうものは狂信と結び付くもので、大なり小なり宗教、スピの世界には付いて回るものなのでしょう。それは"信じること"に端を発しているものだから...
私が何故こういうことに言及しているのかと言えば、私自身がかつて新宗教M教団と関わっていたことで、その愚かしさ、恐ろしさを心底味わされて来たからに他ならないのです。
この自覚、その免疫が無ければ、本格的に精神の道を求めることも、人生の裏側を垣間見ることも無かったでしょう。
だから...前世だの霊界だのアセンションだののご託はすべて捨て去るべしi
とは言いません...。だって面白いじゃん。それなりに楽しめるし、タメにもなります。
私がそうしたものに対して否定的に言う場合、そうした思念に囚われたままでは、思いを超えた世界は開かれないからなのです。要するに囚われないということが肝心なのです。
そうでなければ...何を隠そう、私の図書室(狭い部屋にところ狭しと本の山が積んであるだけ)の一角には燦然と、霊界情報のマストアイテム?出口王仁三郎聖師の「霊界物語」80数巻が並んでいるのです。
これは本当に、すべての霊界情報のエキスがここに集約されてある、と言ってもいいほどの"代物"に違いありません。
これを紐解けば、あらゆるその種の書き物...例えばH.P.ブラバッキーの「シークレット.ドクトリン」、R.シュタイナーの「アーカーシャ年代記」などの宇宙的人類史や「竹ノ内文書」「ホツマツタエ」などの異伝古事記?、スエーデンボルグ、宮地水位などの一連の異界探訪ものなど、すべてが霊界物語に思えてくるでしょう。
どういうことかと言うと、そこで記されたものはすべて文字通りのものでなくて、それを借(仮)りてある象徴、表徴を表しているということ...見えるものを型(依代)として、見えないものを語るという"物型理"である、ということです。
"そこで書かれていることは本当なのか、どうか?"...なんちゅうヤボな論議だろうかi
これは、そこで出口聖師が示した道は、その大本教の分派として発祥した先のM教団が、強固な教条主義に傾いていった在り方と正反対だったと言っていいでしょう。
私が如何なるこの種の書き物に接しても、短絡的に信じ込んでしまうことが無くなったのは、この霊界物語に親しんでいたことが大きな要因だったと思います。(これは実はすべての形を持って表される文字、言葉についても言えるでしょう)
"真の神、元の神が現れる..."私の精神を呪縛した同じような言葉に接しながら、私は精神の自由を取り戻すことが出来たのです。
真の神、元の神とは私に直々の、元から生き通しの神のことではないでしょうか?
かつての私のように大マジメに、あっちの世界を夢想ばかりしている信者、井戸の中の蛙のような狂信者には、(そうでないテキトーな人にも)この霊界物語の拝読をおすすめします。
もっとも全巻読むには、何年かかるか、何十年かかるか、この世が終わってしまうかも分からないので、一巻だけでもそこに盛られている、けっして大マジメでない(?)精神に触れられるでしょう。
これは古事記の真解書ということらしいですけれど、案外「スサノオのオリジナル古事記(ダンテス.ダイジの命名)」の消息をうんと膨らませて記されているのかもしれないし、古事記は元々こういう、物語調で書かれた(古代文字でか?)ものなのか、あるいは言葉にも文字にも表せないことが記されている(それは我々の深層にあるのか?)のかもしれません。
いや、本当は言葉に呪縛されたバカマジメな頭を"真解"させるものなのかもわかりません。
まあ、「こんなん、アホ臭くて読んでられるか」って人も居るでしょうし、ミタマ相応に分かれるでしょうけど...
この書は最後の審判の書でもあるらしいですから...。
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どうでもよくなる

2019-09-25 12:33:13 | スピリチュアル
あるスピ的な世界に関わることを言い表す時、私はしばしば"人生の裏側に踏み入れる"などと言っているのですが、どうしても"ここで生きている現実"から離れた、別の世界に飛躍してしまうという印象を読み手に与えてしまうようです。
例えば...霊界とか神界、アストラル界、メンタル界...そういう世界があるらしいことは私も知識としては知っていますけど、"現実的な意味で"それらがどういう有り様で、この現実世界と、又その各々の世界がどのように違うのか、ということなど私には全く分かりません。
というよりも...そのように違う世界に移行したように感じられることがあったとしても、矛盾した言い方ですが"ここで生きている現実"と離れたものなど何も感じられませんi
空、雲、花...見ている世界はそれまでと何も変わらないのですから...
ただ、感じ方は全くそれまでとは違う...そこで感じることは、むしろそうした"現実感覚"というものは、そうなった時に初めて鮮明に実感されるということです。
言い換えれば、思われた現実からますます疑うことの出来ない、リアルな現実が開かれるのです。
思念に任せて霊界、異次元について夢想するのも結構でしょうが、このリアリティの前ではそういうものを思い描くことは出来なくなります。
このように人生の裏側に近づくことは、だんだん現実に近づくということなのかもしれません。
そうなると、だんだん私とその現実世界とを隔てていたものが無くなってゆく感じもしてきます。
主観と客観の境界が薄れ、だんだんあらゆるものがある中心に収斂されてゆくように...そう分離感が無くなってくる感じです。
そして又、だんだんと思われた私から本当の私らしきものが顕わになってゆく...
そうそう、業生の自分から真我にだんだん近づいてゆく...
だんだん現実そのものに感じられ、だんだん一如な感じになってゆく...
そーれが、真我に目覚める道のバロメーターと言える?...
いいや...言えないi がちょーんi
わたしゃ、そんなこた言いません。"言うなi"という促しを受けてます。
そういうのは、だんだん、かくあるべき自分、高きに達した、悟った自分...そういうものを思い描いているということではありませんか?
それは、だんだん"ここの現実"から離れることと同じではありませんか?
一体、"こちらの思いで思いを超えられない"ということほどの現実というものはあるでしょうか?
ここから離れてしまうことから、この思われた、業生の"私が"何かを超え、何かに達したりするという、妄想が忍び込むのでしょう。
そういうバロメーターとか"はかりごと"がだんだん無くなってゆくのが、逆説的バロメーターになるかもしれません。
つまり、だんだん悟りに近づくとか、高きに上がるとかなどどっちでもよくなるということです。
これはあの御方にゆだねるしかありませんi ゆだねるということは、"私が"のことはどうでもいいということです。
業生の自分はそのままで、"私が"の思いは勝手に離れてゆく...
"私は私でないほど、私になってゆく..."
夏から秋へと化してゆくように、私もあの御方へと化してゆくのか...それはあの御方の思し召し次第でしょう。
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私のものでなく...

2019-09-23 10:30:31 | 独語
「愛する時は"神はわが心の中にあり"と言ってはいけない。
"われは、神の心の中にあり"というべきである」
(カリール.ジブラーン「預言者」)

"神はあなたの中に居るのです"
"あなたはすでに神と一つなのです"
こんな教えを聞いて、一度もそんな気になったことなどない!
そう信じようと心が動く...
心を動かそうとする
そういう心になろうとする
そういう自分が居続ける
神と一つになろうとする自分...

"以前は些細なことで心を乱したりしたが、最近は平静を保てるようになった"
"瞑想で雑念に煩わされることが無くなり、無念夢想の境地になった"
だんだん自分は"いい方"に進んでいるらしい..."そう思いたいi"
いつもいつもそういう境地で居られたらと...心が動く
再び心が乱れ、雑念に覆われだすと...心は暗い方に動いて、そこで固まる...
"こんなはずじゃ無かったのに..."
どっかの神サマが自分を責め立てる...
そして、ますますそうなろうとする自分が居座り続ける...
心は動き続ける...

ムシムシとした淀んだ空気は、ただ秋の涼風に運ばれてゆくだけ
ただただ、心地よい
私の心が何を思おうと、どんなにバカをやっていようと...
この息吹の中に包まれているだけ
何かを掴もうとする手は勝手に離れてゆく...
私のことなどどっかへ行ってしまった...
それは私のものでないほど、ここに一つとされてゆく...

秋の虫はただ鳴いている...花はただ咲いているだけ...
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波動が上がるとか下がるとか...

2019-09-22 11:06:19 | 雑感
このブログは何かのためになるのかどうか分かりませんが、あまり波動の高いことは書いてないと思います。
私が書いているのですから...俗っ気が抜けきれない...俗な人間なもんで...悪いか?
昔から自分をどんどん高めよう、なーんてことは考えて生きてきませんでした。
自分が高きに達するとか、自分の波動が上がるとか下がるとか...一体どういうことなんでしょうか?
上がり下がりの激しい、ここ最近の気温の変動とか考えてたら、イチイチそんなこと気にしてられるかってんですi
世の中には波動に良いもの...音楽、映画、食べ物とかがあるらしい..."知らんわi"
(年のせいか血圧、血糖値の上がる食べ物は気を付けていますが...)
そういうものを選別しているだけで日が暮れる、人生が終わってしまうような話ではないかi
昔から私が好きなものと言えば...流血沙汰が付き物のプロレス(八百長が売り物)、ボクシング、スプラッターなどのグロ系とか、マジでコワイ(実話とか)のは苦手だけど、フランケンとかドラキュラとかが出てくるホラー映画、"くねくね"、"ウーッ、マンボi"とか非常に肉感をそそられるラテン音楽、勿論"あはん"の境地の"H"なのとか..."おお、趣味悪っi"...波動を下げたくない人、さっさと退場した方がいいですよi
私は要するに、好きなことに惹かれるままに生きてきたのですi あなたもそうなんじゃないの?
それとも、誰かが、世の中がそう言っている、あなたを高めるであろう、波動の上がること、モノを追い求めているのですか?
それがホントに自分がそうしたい、好きなことなのならともかく、そのために自分の感情を押し殺し、ホントは好きになれないのに無理にそっちに合わせようとして...ああ、ツカレる、ご苦労さんなことです。
いくら自分の波動が上がり、高きに達したとしても木石、生きている仏像のようになってしまっては意味がないではありませんか?
多分、それでは本当に自分の"最愛の人"、惹かれてやまないものに出会うことは出来ないでしょう。
私がそのようなものに出くわしたのは、多分好きなことが高じた、ということだと思います。
波動を高めよう、上げようとする人というのは、そうしないと自分が下がると思っているのでしょう。
だけど、あなたの頭の中の"より高いもの"は、あなたの足下であなたを支えている、あなたの土台、基礎よりも高きにあると言えるのでしょうか?
私にはずっと、見えざる私の最愛の人は、低きに降ってくるからこそ、あい見えることが出来るということが心象に焼き付いています。
この逆説の奥にあることは、"あの御方"はけっして上がったり、下がったり、増えたり、減ったり、弱まったり、強くなったりしないということです。
エレベーターのように上がったり、下がったりするのは我々の都合に過ぎないのです。
こっちがどうなったり、どうにかなろうとするのでなく、このものと共にあることが肝心なことなのではないでしょうか?
これは我々の本性のようなものであり、理屈抜きにそうならざるを得ないことなのです。
こう言ったからといって、私は、何でもかんでも自分の欲望の赴くままに自分の好きなことを追い求め、し続けたらいい、などと言うつもりはありません。
"自分にとっての適度"ということもあの御方がご存じなことなのです。
"愛、平安にある"という戒律ならぬ戒律により、無軌道に流れることは押さえられるのです。

私がいくら趣味が悪いと言っても、結構自分で言うのも可笑しいけど、哲学とか文学とか高踏そうな(?)こともかじっていて、貴族趣味なとこもあるのです。
それも好きでしていることなんですが...言えることは、こういう訳が分からん性向というのは、誰もマネが出来ないだろう、ということです。
あなたのことは誰もマネが出来ないように...。
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