一昨日、阿部敏郎さんのブログを拝見しましたが、いつになく(?)リアルなものが伝わってきました。
あんな生活感が希薄な生き方をしてる(?)くせに、いつも生活が不安なのだとか、すぐカッとなる性格で、無理に追い抜こうとした車の運転手にエアガンをぶっ放したくなったとか...そうそう、自分は矛盾した性格で人を愛したいという気持ちがある一方で、人のことがうっとおしくなることもあるんだとか...要するに自分のありのままの姿らしいことを、"ぐだぐだ"と書き連ねていたのです。(こういうことを正直に書けるあんちゃんには好感が持てますが...)
これが何故リアルに感じられるかというと...その大きな理由の一つは、じっつに"私のことでありすぎるようなこと"を言い表していたからでしょう。
そこで多くの方が"同様に感じた"というコメントをフォローしていたように..
私は人様に何かを教え導くような身分でも何でもないですが、こうしてメッセージらしきことを他に向けて発信していると、つい自分を一歩高いところに置きたがることをしてしまいます。
だけど...どうしても持って生まれたサガに、ガンとして動かない現実へと連れ戻されてしまうのです。
この現実感こそがリアルなものを呼び起こさずにおれないことなのですi
"私はずっと業生のままを生きている"...それがありのままの現実なんです...。
ところが...一夜明けて又そのブログを読んでみると..."不安、不信、分離感...そういう思いというのは、あなた独自のものじゃないんです、"あなた個人というものはなくて、あなたは全体そのものなのです"、といつものように戻ってしまいました。
誰しもが思っている、感じているこの業的現実は、全体意識みたいなものの表れという風にスリ代わってしまったみたいです。
うーん...私にはそこに全くリアリティは感じられませんi いつものように...
で、"そういう現実に囚われていないで、ははーん、全体てーのは、そういうものを見させることもあるんだなあ、と気楽に思いましょう..."て、そうなるかi
全体が"この世界は終わりにしよう"と言ったらどうなるんでしょうか?
業的現実の前には我々は無力である...それは如何ともし難いものです。
そう感じるものであれ、私はそれが全くそのままであり続けるとは言いません。
この現実の裏には、それを超えた、もう一つの現実が隠れているからです。
真のリアリティの出どころはそこにあるi 個人から来るのか、全体から来るのか知らないけど、こちらから思い方を変えようとしなくても、縺れた思いを解き放つものがその現実を割って臨んでくる...
どこまでも、"変わったi、変えられたi"という事態は、この思いを超えたリアリティの中で起こることなのです。
そうでなければ、現実をどうにか出来る、変えられるという自分がこの世界の主に成り代わったままでしょう。
どこまでも、私は主に取って代わることは出来ないのです。
人間は本当に危うい生き物なのです。この世界は全くこの我々一人一人の現実を写し出しているようではありませんかi
今日の空は、明日は晴れるとも嵐になるとも分からない、灰色をくっきりと写し出しているのではないか?
それはしかし、それをもたらす、あの超現実的な光にあってのものなのです...。
(一昨日の件の記事はそういうことを伝えていたのでは無かったか? 気のせいかな?)
あんな生活感が希薄な生き方をしてる(?)くせに、いつも生活が不安なのだとか、すぐカッとなる性格で、無理に追い抜こうとした車の運転手にエアガンをぶっ放したくなったとか...そうそう、自分は矛盾した性格で人を愛したいという気持ちがある一方で、人のことがうっとおしくなることもあるんだとか...要するに自分のありのままの姿らしいことを、"ぐだぐだ"と書き連ねていたのです。(こういうことを正直に書けるあんちゃんには好感が持てますが...)
これが何故リアルに感じられるかというと...その大きな理由の一つは、じっつに"私のことでありすぎるようなこと"を言い表していたからでしょう。
そこで多くの方が"同様に感じた"というコメントをフォローしていたように..
私は人様に何かを教え導くような身分でも何でもないですが、こうしてメッセージらしきことを他に向けて発信していると、つい自分を一歩高いところに置きたがることをしてしまいます。
だけど...どうしても持って生まれたサガに、ガンとして動かない現実へと連れ戻されてしまうのです。
この現実感こそがリアルなものを呼び起こさずにおれないことなのですi
"私はずっと業生のままを生きている"...それがありのままの現実なんです...。
ところが...一夜明けて又そのブログを読んでみると..."不安、不信、分離感...そういう思いというのは、あなた独自のものじゃないんです、"あなた個人というものはなくて、あなたは全体そのものなのです"、といつものように戻ってしまいました。
誰しもが思っている、感じているこの業的現実は、全体意識みたいなものの表れという風にスリ代わってしまったみたいです。
うーん...私にはそこに全くリアリティは感じられませんi いつものように...
で、"そういう現実に囚われていないで、ははーん、全体てーのは、そういうものを見させることもあるんだなあ、と気楽に思いましょう..."て、そうなるかi
全体が"この世界は終わりにしよう"と言ったらどうなるんでしょうか?
業的現実の前には我々は無力である...それは如何ともし難いものです。
そう感じるものであれ、私はそれが全くそのままであり続けるとは言いません。
この現実の裏には、それを超えた、もう一つの現実が隠れているからです。
真のリアリティの出どころはそこにあるi 個人から来るのか、全体から来るのか知らないけど、こちらから思い方を変えようとしなくても、縺れた思いを解き放つものがその現実を割って臨んでくる...
どこまでも、"変わったi、変えられたi"という事態は、この思いを超えたリアリティの中で起こることなのです。
そうでなければ、現実をどうにか出来る、変えられるという自分がこの世界の主に成り代わったままでしょう。
どこまでも、私は主に取って代わることは出来ないのです。
人間は本当に危うい生き物なのです。この世界は全くこの我々一人一人の現実を写し出しているようではありませんかi
今日の空は、明日は晴れるとも嵐になるとも分からない、灰色をくっきりと写し出しているのではないか?
それはしかし、それをもたらす、あの超現実的な光にあってのものなのです...。
(一昨日の件の記事はそういうことを伝えていたのでは無かったか? 気のせいかな?)