人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

矛盾と逆説

2018-05-30 16:36:34 | 哲学・思想
私は、これまでここでどれだけ矛盾するようなことを書いてきたことでしょう。
"道は一つのものだ、いやあらゆるものに見出だされるものだ"、"神的なものは自己そのものだ、いや絶対他者だ"、"神的なものは降臨してくるものだ、いや中から顕現してくるものだ"...
これはその時々において感じたままを書いているだけなのですが、自分という生き物自体が矛盾している故なのでしょう。
これらはもとより"人生の裏側"の消息の何がしかを伝えようとしている訳ですが、そこでは事の一面、決まった観方だけで把えられるものは何一つ無いのです。否、到底把えられる何ものも無いのでした。
そこにポツンと静止して一コのものとして在るものなど何もありません。自分というものからしてそうなのです。
これを一つの表現として限りない生成、創造活動といったことを言い表すことも出来るかもしれません。
しかし、生成することから、同じ様相のままでない、変転流転してゆくものというのは一体何でしょうか?
何か定まった、固まった、一コのモノとか見解やらに見えるものだらけのこの"見える"世界に関わるものばかりではないでしょうか?
(真面目に"これが絶対的、永遠の真理"などと宣う向きなど本当にコッケイに思えます)
一方、ハタラキそのものとも言える、その無限の生成というものは、ある面ではそれ自体が限りない"不変のもの、定め"のようにも感じられます。
このように裏側と表側の関係について表そうとすれば、逆説的なものとならざるを得ません。
イエスの言葉などは、そういうものであふれてますね。
"貧しいものは、幸いなり"、"得ようとすれば、これを失う"...この世の王たるものが馬小屋で生まれ、救世主が十字架刑を受けてしまうという、イエスの生きざま自体が正にそうなのでした。

私は仕事仲間ならみんな知っている弱い人間でヘタレなのです。しかし、これが私の最大の強みとも言える...すぐにその弱い自分を手放し、無敵のもの?にゆだねることが出来ます。
私はすぐ考え過ぎて、囚われてしまうのが弱点なのです。だからこそ、自分の思いというものの限界が分かり、それを超えたものにアクセスすることが出来るのです。
いや、出来る、出来ないという話ではありません。自ずとそうなるということでした。
又、ある教えに則って、"自分は本来神と一つ、大いなる命とつながっている..."と、懸命にそう思おうとしても、ちっともそういう実感が沸いて来ません。しかし、自分を超えた"あるもの"に意識的になることで自ずとそういう感じがして来ます。
この事自体思念から離れるという消息を伝えているものですが、それは又そう在らしめるあるもの..."現臨"の示現を物語っているのです。
これはある面、自分に見切りをつけないと、そういうことになりません。
これはこの"表側"の何事にも自分を表に出して、諦めない、ガンバルという"生"の流儀に対して、自分を退け、無くしてゆく、ある意味"死"に通じた"生き方"とも言えるかも知れません。
しかし...私はつよーく言いたいi "人生の裏側"に入り込んだ時、死にまつわる暗く、悲観的、絶望的な響きなど何一つ伝わってこなかった、と。
永遠の虚無のうちに自分が消え去るような感じにはならなかったのです。
そういうものは我々に"表側"で伝えられてきた、刷り込まれてきた思いから来るものなのではないでしょうか?
私はそこに踏み込む間際、一瞬死というものが過りましたが、そこに開示されたものは、思われたままでない、この世とは別様の生であり、今生では与れないような"生そのもの"とでも言うようなものなのでした。
これがもっとも逆説的なことだったかもしれません。

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飼い猫がモンスターになる時

2018-05-27 12:58:58 | 雑感
報告のタイミングが遅れて申し訳ございませんが、24日深夜から25日早朝にかけて、gooブログが開かれなくなるという、怪事が発生しました。読者の方にはご迷惑かけましたが、すぐ復旧出来て何よりです。
こりゃ、ゴッサム.シティでテレビをつけたら怪盗ジョーカーのCMしか映らなかったように(バットマン)、広告にジャックされたかと思いましたが、配信か何かの不都合らしいです。
毎年今頃から6月にかけて何かが起こる...これは波乱の予兆か?
井上尚哉の世界戦は?...こりゃあ、思いも寄らない事が...暴風が吹き荒れたi
前回の試合(ボワイヨ戦)のビデオテープみたいな展開になるのかと思っていたのが...ケント.ギルバートさんとは多分何の関係も無いであろう(にとる?)、マクドネルは何も出来ないまま敗れ去ってしまったではありませんかi
"今までで一番の強敵だi" なーんて試合を盛り上げようとしてましたが、まあ下馬評では、O.ナルバエスに次ぐネームバリュー、実績の持ち主だったのは確かなことです。
これがどっちも圧勝i (それで、弱っちい相手だと判断するのは間違ってますi) そのナルバエス戦の時は、もっとキャリアを積んでからでないと、"最強"というのは、早急だと思いましたが、これはもう、もう一人井上のような(防御カンにすぐれ、強く、スピードあるパンチを連打出来るような)モンスターが現れない限り、無敵じゃないかと感じ入るしかありません。
(それにしても白人の選手は、パンチを受けるとすぐ赤ーくなってしまって、痛そうだし、端正な顔も歪んでしまい可哀想になります)

ところで、ボクシングではおそらく"相手をつぶしちゃえi"とか、場合によっては"ぶっ殺してまえi"という陣営からの指示もあるでしょうが、そんなのは"ルールある殴りあい"という競技の中での、叱咤であることは誰にでも理解出来ることでしょう。
故意に"ぶん投げちまえ"とか反則を指示しようものなら、亀田親父の二の舞になってしまうしかありません(ライセンス剥奪)。
最近、"ヤンキー"亀田長男(キャリアの後半は、あの闘争心あふれた姿勢がやや薄れた印象がありましたが、私はその"正攻法"の技術など日本ボクシング史上でも高いものがあったと思っています)の、かつての神妙な記者会見を思い出すような光景がテレビに映し出されていました。
これが団体競技の、殴りあいでないルールのアメフトでは、"つぶしてこい"という指示はとても不透明なものになってしまうでしょう。
明確な反則誘導があったかどうかも不透明なままであり、加害選手の言い分もあくまで伝わってくる限りでの感想になりますが、私はあの"すべてを見通す目"に、自分を預けるしかない事態というものが想起され、その弁を聞いているだけでジンジンとしてきたものです。
"加害選手は実際にその行為を実行したので、その責は負うべき" だ、と第三者は平然と言いますが、これがスポーツでなく仕事がらみだったらどうでしょうか? "やらなければクビだi"と言われたら?...
こういうことは自分の身に置き換えてみればいいのです。私の場合?...
"あまり仕事熱心じゃないけど、真面目そうな君のことだから、勿論やってくれるよねえ..."
"あ、はい..."なーんちゃって...
"ふ、ふざけんなi バカヤローi 労基に訴えて会社つぶしたるわいi"...もう、社長だろうと、何だろうと罵倒も何のその...間違いないi
辛うじてクビはつながったが、前科があります。(一回はクビになって一週間で戻ったこともある。そう、一回では無いのですi 零細企業なんぞ、どうでもいいじゃあないかi)
これは先のような件とは違う状況で、理不尽な思いにさせられたことです。
ブルブル震えが止まらない...理性が半分飛んじまう...もう、前後の事など考えられません。すべてを預けちゃう境地とはそういうものです。
この世に恐いものは無い...にわかにモンスターになった感じになります。
もし、あなたに理性があるなら身の処し方をよーく考えた上でどうするか決したらいいでしょう。
しかし、私のように飼い猫みたいなのが突如豹変する在り方はともかく、誰にも長いものをつぶしてでも、すべてを見通す目に照らされずにおれない、思いを超えたモンスターが内包されているのです。
今は徐々に、諸々の機構というデキアイの見えない巨大モンスターの破れから顕にされてくるのでしょう。
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神の降下

2018-05-24 04:18:03 | 
精神的な道に関心を持った人なら一度は"今よりも、もしくは今のダメな段階より上の段階を目指そう...そうして一歩一歩神に近づいて行こう..."という心持ちを持ったことがあることでしょう。
今のダメな、低い段階は見たくない、認めたくない...だから上へ、上へと思いが馳せてゆくのでしょう。
そうして又..."悪い、低い段階のことはやらないのは勿論、思わない...やってはいけない、思ってはいけない..."
"善なる、調和ある高い段階のことを行い、思い続ける..."
もう、出来もしないことのオンパレードじゃありませんか?
出来ないことは、ただそうやろうと思っているしかありません。
今の現実に意識が向けられることなしに...現状のことにフタをして、その上にどんどん何かを加えて行くように...
"いや、すべてを捨てちゃえばいいんですi"、って...だから、やってみればっつーのi
そして又、どんどん思いは馳せ巡り続ける...
それで本当に神的なものに近づいて行くのでしょうか?
トコトン、トライし続け、上へ上へと思いを巡らし続けてみたら、あるいは気付くことがあるかもしれません。
"すべてはムダな試みだった...ずっとずっと僕はダメなままだった..."
その気付きは全くムダではありませんi その間費やした時間も努力も苦心も(多分)
自分がダメなのか、神に等しいものなのかはともかく、そこに要らん解釈や判断もなく、何も付け加えることのない状態こそが今の現実というものです。
それを受け入れることが、取りも直さず自己を受け入れるということです。だからと云って"自分を受け入れなきゃならないダメ"な訳でもないですよ(笑)
これはまず、そういう意識状態になってみないと分からないことなのかも分かりません。そういう時は一瞬でも思いから離れているものです。
そう思わなくっても、そうなっている...これが"意識が向く"とか言ってることに通じてくるのです。
これは"向けよう"ということとは違うのです。自ずとそうなる、そうならざるを得ないi もう、毎度のことながら、この事を書いている最中にそうなる...何故か?
そうさせる、そうならざるを得ないものが臨んでいるから...そうなると"今の現実に気付く"というよりも、ただ現臨を頂くということがあるだけです。そうです。それで思いを超えて、全託せしめられるのですi
こう思うとつくづく感じてきます。
"我々が神に近づこうと上へと目指すより先に、神は我々に近づきたもう、上昇しようとする先に下降したもうのである"、と。
神的なものがこちらに降って来ることが無ければ、そのものと触れることも、関わることも出来ないのです。
神は自分とは遠いもの、上に向かって険しい道を辿らなければ、至れないものとするのは、そう思っているだけでしょう。
もし、神に倣うということがあるとすれば、身の程知らずにも神に近づこうとすることでなく、低く、ダメなものとも思える、そのありのままの自己の現実に身も心も置く、ということではないでしょうか? そこが神との出会いの場となるかもしれないのです。
そこで、思いを超えて、神の降下と共に自己の現実へとへり下されることがあるばかりなのでしょう。
神の学びとは、上昇しようとすることでなく、降下することなのでしょう。

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十字架と復活の内実

2018-05-22 18:10:36 | キリスト教関連
"ただ、信じていればいい"という信仰は、どこまでも観念世界を超えることは無く、ヴァーチャルなものに過ぎません。
それで何かの心の慰みになるというのなら、構やしないのでしょうが、内的実存はいつまでも開かれることはありません。
だから、観念信仰を通して内的なものが開らかれ、そこに有る(かもしれない)至福に預かろう、と期待することは間違っているのですi
宗教には、こうした信じる信仰というものが付き物ですが、その最たるものはキリスト教でしょう(だから、アタシゃ大キライですi)。
その信仰の根幹的ものは、"十字架と復活"でしょう。いつまでもいつまでも、自分をどっかに置いて、十字架と復活のキリストを見上げてて楽しいんですか?...自分は罪深いことを信じているのか、罪を許されたことを信じているのかどっちなのだろう...
それはともかく、信仰はヴァーチャルなものと言いました。しかし、そう言い得るということは、何がしかの内実がそこに有るということではないでしょうか?
私はクリスチャンでもなく、"十字架と復活"の教理を信じている訳でもありません。
しかし...その内実とおぼしきものは知らされています。もう、その事に意識が向いただけで全心身が揺さぶられそうになります。
十字架と聖霊に関することは何度も触れています。それは小池辰雄先生からインスパイアされたものですが、私はそれが人間の内的実存に開示される事態であることを感じざるを得ません。
小池先生はしかし、"復活"に関しては、「キリストは永遠に行き通しの命なんです。だから"死んで復活した"とか言うのは相応しくないです」とかいつも述べておられましたが、ある面ではそうかもしれませんが、私はこの事は、我々一人一人の死んだように眠っている魂にとり、絶大な意味を持つものだと思います。
つまり、蘇って来るもの、復活するものは、我々の神的なものに連なる、キリスト意識とも言うべき意識なのです。
それは思われた自己、表層の意識だけに覆われたままでは開かれてきません。
何故、それに与れるのかと言えば、"十字架の道"を通らされるからですi 十字架...それは犠牲なのか?、苦難を背負うことなのか?、あるいはその道を通ることで我々の罪は贖われるのか? そういうことは、正に我々の"考えていること"のうちにしか無いのでしょう。
十字架の道は、無の道なのです。我々の思いを超えた領域で起きることであり、そこから照らされるままに示されることなのです。
そこで罪が贖われる、罪が消えるかどうかは知りません。しかし、私の経験に照らせば、罪に苛むガンジガラメの意識から解放されたのは確かなことです。
罪...より原初的なものは原罪と言います。それは思われたものより、遥かに根が深いものであり、物心付く以前から意識の底に根付いたものというのが分かります。これが我々の神的なものとのつながりを隔ててきたものに違いないでしょう。
贖罪とは、聖書にある通り、神との間を覆う幕が取り払われ、顔と顔を合わせて相見えることが許されるということでしょう。
しかし...別の面ではこの罪意識があるために、取り返しのつかない過ちから防いでいるとも言えるかと思います。
その過ちについてはハッキリ、詳しいことは言えませんが、自我意識が無化されないまま神的なものとつながってしまうことで、自我が肥大し、モンスター化して暴走してしまうような事態と言ってもいいでしょうか?
神秘体験とかぶっ飛んだらいいってもんじゃない...そうなってしまうくらいなら、ずっと毒にも薬にもならない信仰を続けた方がはるかにマシだ、と言いたいi
十字架の道とは神と人間との"健全"な和解、調和の道と言えるでしょう。
ところで、ルドルフ.シュタイナーによればキリスト.イエスの事蹟というのは、古代宗教で密儀として行われていたことを現実世界で展開したという意味合いがあったそうです。
そういう意味では"犠牲"、"贖罪"と共に"復活"の事態を示すことも欠かせないものだったのでしょう。
現実とは何でしょう。我々一人一人の内的な現実を置いて他には無いのではありませんか?
私はキリスト教に隠された内実に限りなく惹かれるものがあります。
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自己をめぐりて

2018-05-21 18:06:45 | 雑感
私はいつも自己を受け入れること、自己を信頼することの大切さということを言っています。
今日ほどそのことを痛感させる時世は無いと言ってもいいでしょう。
そこに思われた自己というものの崩壊の相が垣間見えてくる...そのまま個体的自己は虚無のうちに消え去ってしまうのか、あるいは新たなる自己の誕生、はた又隠された、本来からの自己の開示があるのか...我々は実にその岐路に立たされている感を覚えずにおれません。
このように自己信頼ということを強調したい一方で、"自分、ジブン...そんなもの何だi 無なんだi 問題じゃないi "と全く真逆ともとれることもチョイチョイ書いたりしてます。
大雑把に言って(紋切り型の説明になりますが)、仏教など東洋系の宗教では、自己を見つめ、掘り下げていくところに道を歩む端緒があるように感じられますが、キリスト教的西欧では"自己を捨てて十字架上の主イエス.キリストを見上げよ"といった教えが浸透しているようです。実際、私は小池先生から「自己に囚われること、我執が罪なのだi」という言葉は何度となく聞いています。
これはどっちが正しいかと言ったら..."どっちも正しい"としか言い様がありません。
ただし、どっちも偏ると間違ったものになってしまうでしょう。
どうしてこういう矛盾した表現が交錯するのかと言うと、取りも直さず我々に真実の自己が明らかにされていない、ということに尽きるでしょう。
といっても、真実の...真我というものはこういうものだ、と明言することも出来ないのですが...
"これが真我だ"とうものが示されようものなら、すぐに思われた自己と結びつけて、"私は神と一つになった"などと短絡的に受け取られてしまったりします。
誰かもこの喩えで言っていましたが、個体的自己というものは、体のごく一部のオデキみたいなものなのでしょう。
チッポケな自分が修行して、信仰して叙々に自己を高め、進歩させていくようなことは、単にオデキを大きくさせるようなことに等しいことなのかもしれません。
体全体の主人にしてみたらウットウしくてしょうがないことでしょう。
しかし、オデキのようなものでも、"チクビ"みたいに赤ちゃんにもダンナ?にも無くてはならないものなのかもしれません。
ここで肝心なことは、それは体全体とつながっているものだということです。しかし、実際の有り様は分かりませんが、個体的自己というものはもっと独立性があるように感じられます。
要するに自己の消息には、個的にして全体的なものが分かち難く調和されているものが想起されてくるのです。
それはこのありのままの自己に照らせば、元々内在しているものとも感ぜられるし、その限界を超えた超越したものとも映ります。
そのことはしかし、部分的自己が、全一的自己への目覚めに転じられることを通して明らかにされることです。
自己の内面に深く入ることにせよ、自分を超えた超越的存在にゆだねるにせよ、自分自身の問題であるには違いありません。何にしても自分自身を受け入れることからしか始まってこないでしょう。
仏教などでは、自己を追求していけば無我へと導かれると、ノンデュアリティでは、個体的自己は元々無いと説かれたり、一方で自己をキリスト.イエスのような超越的存在にゆだねてゆく道があったりして、自己が有るのか無いのか、判然としないということも本源的な全一的自己が明らかにされていなかった、ということに尽きるでしょう。
私には今、その御方自らがお出ましになろうとしているのをヒシヒシと感じています。
ここから明らかになる自己の消息は、東洋も西欧も一元も二元もなく、自分は自分でありつつ"我ならぬ我"に預かるようなことでしょうか...
他の人にはどうかは知りません。それは各々の自己にゆだねられていることだから...


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