人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

無為の為

2017-02-27 13:08:13 | 哲学・思想
10数年前ある時、大阪の下町を歩いていたら、突然何だか自分が自分の意志で歩いているという感覚が薄れ、”大本から自分を生かしているものによって動かされている…何て幸福なんだ…”という実感が込み上げてきました。その時ふと浮かんだのが、小池先生が高弟のO先生に言った「自分を手放してごらん。ラク~になれるんだよ!」という言葉でした。
私がずーっと書き続けているのがまさにこういう事でして、老子の言葉”為さずして為す…無為の為”に通じる事かと思います。
改めてこの語るだに微妙な事に触れてみようと思うのですが、これを何もしない事と取ってしまうのは…その通りでもあるし、そうでも無いのです。(微妙だ!)
意識がポカーンとなりにそのものに向けられるのです。これが又実に微妙な事で、強いて向ける対象に向けようとするので無しに、そこにちゃんとあるから向いちゃうのです。何時だってそこにあるものに…
意識を向けるというのは、自分の意志で意念を強めるという事では全くありません!
意識が向かうと、何かハタラキ、エネルギー的なものがフォーカスされてきます(全身全霊的、全人格的なものに自ずと集まってくる)が、これがジンジンと…表現しているものです。それは意識を集中するという、意念的な事とは全く違います。対象となるものが無いのです。
このようにこれは意念とか、人為的なものに働きかけないでそうなることなのです。だから何かをやったという気が全くしないのです。
それでいて、充実感とか幸福感があふれてくる…これを人生の裏側の知られざる行動などとテキトーな事デッチ上げることも出来るでしょう?行為者なき行動…とにかくあっちではこういう生き方が主流なのです。
これは身に覚えるという事と密接な関係が有るのですが、私はホントーにガツンと、身に覚えさせられるものに出くわしたから、身に覚えているまでです(ミもフタも無い話)。梅干しを想像しただけで耳下腺の辺りが縮まるようなものでしょうか?
しかし、この事がホントーに何時でもそこにあるように覚えるようになったのは、忘れもしない平成10年夏、それ以前にあったあの至福体験を取り戻そう、という望みを手放してからです。実に逆説的な事ですね。そういうものは私個人の手のかかる問題じゃないんですから…
こういう理由から時に私は精神の目覚めを促すような発言をしたり、ある時は”覚醒すりゃいいってもんじゃない…”、と呟いたりしているのです。
要するに、すべては見えざる導き、ハタラキ、現臨…(名称は何であれ)そのものあってのものだ、ということに尽きます!
無為自然と言ったりするように、これは自ずからなるものなのです。自然というものは無理が無い、それは又自由無碍、障るものが無い、滞るものが無い、と言う事が出来るでしょう。
ここで誤解されがちな事は、自然なものにゆだねることは、自分の意志を無にするとか、引っ込めるとか、断念するとかいう事では無い、という事です。それは実に自分の意志を働かせている、ということに他ならないから…
この意味で私は、自分から進んで苦難、不幸な道に赴こうとする…自己犠牲を想起するような生き方には共感出来ません。
しかし、見た目には自己犠牲のように映ることであっても、そこにそうさせる、自己を超えた促しによるものであれば話は別です。
このように、本心からでなしに無理に強いて、神など自己を超えたものに従おうとすれば、必ずネガティブな思い、満たされない思いというものが残ります。
これは自分とその自ずからなるものとが一如になっていないで、向こうに対象的に観ていることでそうなってしまうのです。
本当はある教えを信じられない、受け入れられないのに無理に信じよう、受け入れよう、とする事でも同じ事です。
意念で有識に思いを取り込もうとする、確固としたものにしようとする…精神が滞っていくばかりです。
心に障壁が出来てしまうのです…そういう思いが自分の人生ばかりでなく、周囲にも、あるいは、世界、人類規模にまでも自然な命の流れの障りとなり、滞らせてしまうのです。
本当に無為自然なものに出くわすという事は、無理なく、障りも無いことなのです。

多くの人は何かを掴もうとして、捉われてしまう…捉われている自分を無くそうとして又捉われる…
夕日を掴もうとしているみたいに…
夕日から醸し出されているものは、ここにあるものなのに…
ただ、そこに立っているだけで、自ずとジッとしていられなくなる…



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過去は生きている

2017-02-26 10:50:53 | スピリチュアル
「回想は過去の単なる保存でも再建でもなく、常に一個の新しい過去、変貌せしめられた過去である。回想は創造的性格を持っているのである」(ベルジャーエフ)

こないだ私的な事ですが、実に46年ぶりに洋楽ヒット、マイク・ネスミスとファースト・ナショナル・バンドの「シルヴァー・ムーン」という曲を聴きました。マイク・ネスミスは既にこの1971年春の時点で、昔の名前で出ている感の人(60年代中期、一世を風靡した米ポップ・グループ、モンキーズの元メンバー)でしたが、もうすっかり忘れられた名前です。他のメンバーともども…
それにしても私は同時期の洋楽ヒット曲を昨日のように実によく覚えています。例えば…CCRの「雨を見たかい」(CMの絶大な効果で、この曲が世間で最も認知されているでしょう〉、ブラック・サバスの「パラノイド」(オジー・オズボーンなんて人全く知りませんでした)、バッド・フィンガー「嵐の恋」(アップル・レコードから第二のビートルズというフレコミで売り出したグループ。ヘタクソなG・ハリソンみたいなギター・ソロが聴ける)…
どうして記憶が鮮明になっているのか…それは何度か書いているように、この時期それまでの学校のイジメなどがあって暗く、重い心の状態から春の到来とともに一気に光が差し込むようになったことと無関係ではないでしょう。
そして、そのように当時を思い返している現在、その幸福をもたらすような”常春”なる息吹と共にあること…これが重要なことなのです。
ただ一つ問題が無い訳ではありません。もし、過ぎ去った過去の懐かしい、ずっと大切にしたい想い出があったとしたら…それらは失ってしまう事になるかも知れません。
だけど、これだけは断言出来ます! 悪いことには絶対になりません! 形は変わってもずっと幸福と共にあるからです。
想い出は新たなる視点、感じ方、味わいのもとに現在によみがえるのです。それで幸福でない訳が無い…ラマナ・マハルシが言うように、多くの人は幸福であることで、そうと知らずに真我、神の恩寵を受けているのですから…
幸福であることが本来性であり、不幸なことというのは、この本来の状態から離れてしまっていることと言えるでしょう。だから意識に根付いていないので記憶が鮮明でないのでしょう。
しかし、思い出したくない、触れたくない不幸な記憶というものも人間どうしたってありますよね。そのことを自分の思いの中にフタをし続ける事で、いつも何となくモヤモヤと不十全感、不幸感といったものが頭にもたげていて、晴れやかになれない要因になったりします。フタをしていても忌まわしいことは消えたわけでは無いのです。
そういう場合は、”常春の息吹の光をそこに当てればいい!”
なんて、平然と言ってのけてますが、これは分かり易く言っているだけでちっとも正確ではありません。第一、やって出来る人は居ません!(多分)
これはいつもながら語るに微妙な事で、意識をその不幸だった過去に向ければいいのです。(これも平然態だったか…)
そうすると、光が自ずとそっちにハタラく訳だから私は何もしてないのです。
こういうやり方とかが飛んでしまっていて、取り付くシマも無いことを説明する場合は、”祈ればいい”と言っています。
それは、”神に不幸な過去をどうにかして欲しい…”と願い事をするというよりも、神的なものが意識に呼び起される、という事自体が、その”光が当たる”ということにつながるのです。
重要なことは、光が当たるには、フタは閉めっぱなしでは当てることが出来ない、ということです。
つらく、重く、勇気が要ることかも知れませんが、不幸な過去、自分に向き合う必要があるのです。でも、なかなか自分の意志ではそういう風になれるもんじゃないですね。こういう事でも私は”祈る”という事の意味を感じているのです。(だから別にこういう事を無理に推奨してる訳じゃありません。参考までです)
このように、良きことも悪しきことも過去というものは、既に決定され、動かないものでは無いのです。
スピ系で言う”過去はない、現在しかない”という言葉は一面しか伝えていません。
過去は現在と結びつくことで、新たな光の下によみがえるのです。
又、過ぎ去ったものは虚しく、無力なものと決めつける訳にはゆきません。
過去に光が当たることにより、そこからフィードバックして、現在あるいは未来にさえも、逆に新たな光、創造的エネルギーがもたらされることにもなり得るのです。
分断された過去、現在、未来が有るんじゃない…時間を貫いている時の神サマが生きているのです。






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受けること

2017-02-23 00:05:23 | 詩的文章
悟りや救いというものがあるのかどうか知らないが…
そういう道にあって
何かの教えや修行に勤しむのもいいだろう…人それぞれ…
そうしなければならない理由も無く、しないのも自由…
でも…これだけは忘れてはならない
受けなければならない
受け入れなければならない
光…恩寵…ハタラキ…神の力、愛…呼び名はそれぞれ

もうじき桜の季節がやってくる…
花見だ、酒だ、ドンチャン騒ぎだ…
しかし、花を照らすお日さん、光が無ければ話にならない…
花の種を買ってきた、植木鉢も買った、肥料も買った…
しかし、お日さんが無ければ何の役にも立たない

この教えこそ絶対に正しい
このやり方に従わなければならない
その頑な、凝り固まった心が、部屋の窓を、通気口を塞いでいる
それなしには何事も始まらないものをずっと拒み続けている
より高い境地、エンライトメントを目指しての弛まぬ修行…
上に、前に行かないと光は無いのだろうか…
そこに光は照っては居ないのだろうか、光に射抜かれていないのだろうか…
高次の世界、アセンション、前世…実にワイド過ぎるよなお話…
だが、ただの思い込みだけだったら、チッポケな頭の中だけのお話
何でも見えているようで、自分が如何にヘンコな人間に見られているかは見えない…

受けることはそっちのけで
如何に多く不動心で瞑想し続けていようと、それはただの仏像
如何に祈り、拝み続けていようと、ただのオジギソウ
聖書、お経に何が書かれていようと光が無くては読めない…燃やせばハイ
神を信じる先に、照らされているという真実を受け入れるしかない
固まった思い、イメージ、言葉が光を遮ってしまう…

光を見出したいなら、光を受ければいい
受けなければ話にならない、何事も始まらない…
受けること…受けるだけ…
それだけ?…そう、それだけ!
あんまり、バカバカしいので、いつものこれっきゃないルーティーンに勤しむらしい
だから…拘ってたりしたら、光の道が閉ざされてしまうというのに…
どんなルーティーンも受けることに向けられなければ意味が無いのに…
受けるだけのことに、受けられないなどということがあるだろうか…
受けようとしなければ、意識を閉ざしていたら、どうしようもない…
本当は…受けなければならないことはない…
何時だって照らし続けている…
弥増しに強く、遍く、深く…





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暗夜を照らすもの

2017-02-21 16:17:56 | 回想
昨日、シモーヌ・ヴェイユ、十字架の聖ヨハネ、神秘思想、苦難を通って恩寵に導かれる…などと書いてUPした直後、ハタと閃いたものが有りました。それは…
”あの精神的トンネル状態というのは、「霊魂の暗夜」みたいなものだったのでは?”
というものです。これはキリスト教神秘思想(主としてカソリック)に伝わる観想を主体とした修徳の道のプロセスで起こる、それまでの修道生活で受けた甘美な喜び、法悦、超自然的認識などを突如失い、裏返したように現実に起きる精神的苦難、無味乾燥、空虚な感覚…といった総じて神に見放されたような感覚、状態のことです。
こんなことはこの32年間考えたこともありませんでしたが…そうかもしれないし、違うかもしれません。まず言わねばならない事は、私はその神秘的な修徳の道に関心はあっても携わってなど居ませんでした。
その一年半ほど前、所謂神秘体験のようなのは有りました。だけど、それは長く険しい観想的修徳の道に比べたら、あまりにも突発的な昨日の春の嵐のようなもので、直接的つながりはありません。しかし、私はいかなる形にせよ、いかなる精神的道にもこのような逆行、退行とも取れるプロセスは付きものだと感じざるを得ません。そういう事は今思い返して感じる事なのですけれども…
もっとも32年間、つらかったので中々思い起こすことが出来なかった…いや思い返そうとしても鮮明にならない、という理由もあるのです。(そこから抜け出せたことはハッキリ”身に覚えて”いますが、つらいことはどうも”重さ”に比例して印象が霞んでいるのです)
そもそも、こういう重そーな記事をどうして書いているのかというと、最近どうもあのトンネルに入りかけた時と似た兆候が私の周辺に感じたからなのです。
ただ状況はあの時と今では全然違います。今は放っといてもポカポカ陽気になったり、疾風怒涛の如く風が吹くように、自然と重い空気を追いやってしまうハタラキにゆだねることが出来ます。
あの時の私はそういう事を平然と言っているような人は超人、聖者に見えたはずです(笑)
当時の私はその気になればその時分覚えていた瞑想や祈りの方法によって、精神的苦境から脱却しようと思い立つことも出来ただろうと思うのですが、何故かそうしたものに頼ったという記憶が有りません。そういう心のゆとりも無かったか、そうしようとしても重圧の方が勝って追いやられたのか…
いや、違う…私は32年間封印されていた微かな記憶が呼び起こされました。
私は出口の見つからない暗闇の中で、どんなその脱出する方法にも頼ろうとせず、方法無き道、道なき道にゆだねようとしていたのです。
その一年半前、私が精神的目覚めに与ったのは、全く上よりの力、恩寵、道なき道によったものでした。
”この苦境はその関連で起きているのではないか、それではそれを受け容れ、その導きにゆだねて行くしか道は無いのではないか!”
その時の心境は、今ここで書いているように、ハッキリとした意識付けられたものではおそらくなかったでしょう。
ただずっと意識の根底に変わらず根付いているものは分かります。
そうです、根付いていたのです。表面的には消え去ってしまい、体感出来ない、と思い込んでいたもの…少なくとも当時の私はそれに向き合おうとしていたのです。

”あの夏の突然の至福の訪れ…確かに目覚めたものはあった…
しかし、この問題だらけの未熟な私にはあまりに不相応なものだった…
恩寵というものをどこかで獲得し、所有出来るものだと思っていた…
しかし…神は何処にお隠れになったのか…神無き、恩寵無き人生、世界…失って初めて分かるもの…絶対にこちらの手のかからないもの…真空を何ものかで埋めるような真似をしてはならない(シモーヌ・ヴェイユ)、恩寵には何も付け足してはならない…それ自体にゆだねばならない…”
この事を身をもって知り、苦難の道を通ることを受け容れたのでしょう。(自らの意志で進んで受け入れるという事とはニュアンスが違います)
それは確かに暗夜を照らすものでした。誰のものでも無く、誰にでも照らす光…




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重力と恩寵

2017-02-20 16:49:36 | 人生の裏側の図書室
「魂の本性的なうごきは、すべて物体の重力の法則に類似した法則によって支配されている。恩寵だけは例外である」シモーヌ・ヴェイユ・重力と恩寵(春秋社・講談社・筑摩書房刊)

昨日記した私の精神的トンネル状態は、32年前の三月それがやって来た時と同じように、いくつかの事象が重なっていつの間にか去って行ったのでした。
テレビで古いフランス映画「どん底」を観た事、これまた古いアルゼンチン・タンゴのレコードに魅せられたこと(どおってことない事ですね)…そして忘れる事の出来ない事はフランスの女性哲学者、作家のシモーヌ・ヴェイユの「重力と恩寵」という彼女の断片的な言葉を集めた本にあった、上記の言葉に接したことでした。
このヴェイユにはその半年くらい前に初めて触れていたのですが、この時期私は確かに傾倒していたのです。20世紀の所謂神秘思想家の一人として以前から関心はあったのですが、十字架の聖ヨハネなどのキリスト教神秘主義の現代的意義といったテーマなどに惹かれたんだと思います。
彼女は我が国でも昔から人気があるようで、主著は様々な形で何回も復刊されているし、伝記的、評論的な書物は数々出ています。
だけどねえ…正直言って今の私には少々重い…です。
どうも、このヴェイユと触れたことが私のその暗く重い心の状態をより加重させてしまった気来があるのです。
そんな訳で私の沈鬱なこの期間というのは、このヴェイユって人と切り離せないようです。

「苦難、不幸は純粋に受け入れなればならない…忍耐をもって」
今と違って?マトモに書いてあることをそのまま受けようとする素直な青年だった私は、こうした言葉を噛みしめるように自分に言い聞かせ、つらい精神生活をひたすら耐え忍んでいたものです。(重いでしょ?書いてる私もです)
自分で、自分の思いでそうせねば…と力んでいたのですが、つらいものはつらい…ヤセ我慢みたいです。
苦難を逃げずに立向き合い、背負っていく…その事には多分意義はあり、やっただけのこともあるだろうと思います。
ただ、無理が高じるとますます事態は重くなり、悪くなって、いよいよ抜き差しならぬ事態になる場合もあります。(私は推奨しません。出来んもんは出来んでいい…)
しかし、”いつも、ラクをしよう、嫌な事からは逃げよう”ということとは別問題でしょうが、不幸に自ら進んで向かっていける人間、幸福になりたくない人間などこの世に居るでしょうか? 苦行僧ならいざ知らず…
又、ヴェイユにも伺われるように、キリスト教などでは苦難、不幸を通らなければ、愛、調和、神の世界を見出すことが出来ない、という観方もあります。
私はある意味では、そう感じますが、ある意味…根本的には”そんなことない!”と感じています。何も苦しいことなど無くたって、意識の変容とか喜ばしきことは起きる時には起きます!
要するに意識があっちにフォーカスされ、光を受ければいいのです。(やって出来る事じゃないが…)
上記のように言われることは、そういう事は、平穏で何事も無い状態が続いている時には意識があっちに向きにくいので、不幸や苦難がその契機となり得るということなのでしょう。
別の観方をすれば、この現実に生きている人間で特別な自覚は無くとも、苦難、不幸でない人間など誰一人いない、という事も出来るでしょう。
だから、初めて掛け値なしに幸福というものに与った時、誰しもがそれを実感出来るのでしょう。
そして、幸福でないということは苦しい事…それはほっといても重力の法則のように加重され、我々を圧して行きます。
私はこの重さというものは出口の無い思いと共により増し、固まってくるのを身をもって知ったのです。
又、一瞬その重力の法則を無視したようなハタラキも本当に実感しました。
そして、ほとんど同時にヴェイユのあの言葉に出会ったのです。
恩寵…”それはつい一年半ほど前目の当たりにした事ではなかったか?
自分で何とかしようとしなくても、自ずと重力を無力化させるものに手放せばいいんだ…”
私が本当にその事に意識的になったのは、この時だったのです。
重力の法則と無重力の場?の原理というのは本当に私が実地体験を通して学ばされたことです。
そんな訳でシモーヌ・ヴェイユの名も忘れることが出来ません。







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