人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

D会ー秘教に導かれてー

2015-02-25 14:35:40 | 秘教、その他団体
D会とはいかなる団体なのか? これは私自身も人から尋ねられると、当惑してしまう問題でした。
それは又、関係者だったら皆頭を悩める問題だったと思います。
ある時、私はその質問に対し、少々リップサービスを交えて「それは、見えざる力による世界の変革を企図しているところです!」といった意味のことを言ったら、テロ集団と勘違いされてしまいました。(あの宗教事件が起こる前のことです)
最初に行った神戸支部でも本部でも、対応してくれた方は説明するのに大分苦労してる様子でした。
それでも目敏い私は既に、この団体の有り様、活動の源は那辺に有るのか、かぎ取っていたのでした。そもそもそれなしには、私がそこに引き付けられる理由が無いというものです。
それは…見えざるハタラキであります!そこでは大聖業〈おおみわざ)と言われたり、シンプルにおハタラキとも言われています。
このものが人と人の間をつなぎ、調和した関係―コミュニオン(霊なる交わり)を生み出す…この団体はもとよりキリスト教的なものとは、いかなるつながりもないのですが、度々触れているようにこういった消息はなじみがあるし、既に本拠を訪れた時には私の内的な求引?ポイントになっていたのです。
では、そもそもの探訪の動機となった大本との連繋はどうであったのでしょうか?
これも直接的なつながりはありません。
ただ、この聖地からそびえるT山という神域、これは大本ともゆかりのある九鬼家につらなる修験道の本拠にもなっており、かつては大本の神業を継承していると思しき団体も存在したと言います。
又私がそこの行事に参加した際、先達のあげる祝詞を聞いて耳を疑いました。神名の中に”艮の金神”と確かに聞こえたのです!
その謂われについて聞いてみたところ、M女史の心象に浮かんだとのことでした…
大本における二つの中心位格出口なお、王仁三郎に比定される存在についてはどうなのでしょう?
会主M師、往時には会の中心となって、人類に向けて来るべき、世界の調和的変容を告げるメッセンジャーとなっていたが、この当時は既に肉体的に衰えて第一線から退いておられました。
会掌M女史、先に触れたおハタラキの中心、媒体といった位置におられ、M師を引き継いで会の中心を担っておられました。こちらはどことなく出口なお刀自と面影が似たところが有りましたが、M師と聖師とは全くそうではありませんでした。
そして変性男子云々と言った表現は全く使われていませんでした。(笑)
それにしても、そのおハタラキというのもそうなのですが、その他、身、関係、元の四つ、家、七子の成就…これらはいずれもD会において語られる主要ワードなのですが、外部から接したら何かの暗号のようでまるで理解出来ません。
これだけでも、秘教か秘密結社めいてます。(ちなみにこの身というのは、肉体のことかと思いきやそうでないと言う…霊体?そんな訳無いか…これは未だ巷では解明されていない何かであるらしいのです。)
そして私はその後何度となく、その会合に連なることになるのですが、毎回のように「いよいよ、その時が来ました!」という旨のことが告げられ、その度にかたずを飲む思いにさせられたことでした。
何か特別な事が起きたという事は、ある件を除いて記憶に有りません。この件は私の身に起きたのですが、それは何時か気が向いたら書いてみます。
そうです!私が腰を上げて関西に拠点を移すことになったのは、この謎めいた団体との縁であり…とりわけM女史とのある時の交流、その時私の内面に運命的なもの印象づけられたのでした。
私はその頃から「もしかしたら…」という予感めいたものが、脳裏に浮かぶようなことも有ったのですが、自分からその関係者には全くそれに結びつけた話など、一切していませんでした…。
ところが、55年夏に同会を訪れた際、私の就職について話が及んだ時、図らずも「君、良かったらこっちの方に来てみないか、働き口も考えてみよう…」などと言う、青天の霹靂のような言葉がM女史の息子のKさんの口から出されたのでした。
それを聞いたM女史初め、周りの人は唖然とした顔をしていました。そして「こういう事はまあ、頭のどっかに置いといたらいいよ!気楽に考えてね…」と言う向きが、当然のことながら多かったようです。
しかし…私は違っていた!心の中はこうでした。「その言葉を待っていたんだ!」
いやはや、若気の至りとすぐ飛躍する感性程恐いものはありません…。









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D会ー謎の秘教団体ー

2015-02-23 15:38:06 | 秘教、その他団体
私の表向きプロフィールによれば、大学卒業後大阪で就職したことになっています。
東京生まれ、東京育ちの私が何で又そんなことに?…出向か何かでも?…
いいや、違います!
今の私が客観的にその真相に迫って観るならば…こりゃあ、魂消てしまう!
昭和53年頃私は精神的な探究に突然燃え出し、心象に実に様々なヴィジョンが飛び交い、気が付いてみれば一歩足を踏み出してしまった!というそのプロセスの中で起きたことなのでした。
そう、それは正に起きたことです。尋常な人間ならこういうことは自分からはやりませんて…(笑)
そしてあの時、そういう状態になっていた私だから…そうなった、ということです。
事の次第は、[人類の復活」という一冊の本との出会いです。著者西村忠義さん…これが又運命的なものでした。
一度もお目にかかれないまま、10年程前に亡くなられましたが、この本によって私の内面のある部分は切り開かれたようです。
キリストの聖霊体験、ある神社での神秘体験とを合わせ持つというこの著者の文章は、この奇しき出会いに至る私の歩みを暗示していたかのようでした。
書かれてある内容は、関西を中心とした宗教者、霊感者、神業者(要するに神サマ関係の人たち)との交流を主に、思想家、詩人のような視点での覚書と言ったらいいのでしょうか…私はその中で、元の神による経綸を打ち出した大本は既にその使命を終え、その継承をしているらしき、いくつかの団体について述べているのに注目したのでした。
その一つとして紹介されていたのがD会です。
何でもそこは、出口聖師の神格である坤の金神が鎮まっていたとされる、神島の対岸にある霊山の麓に拠点があると言います。
そして変性男子(大本では出口なお)、変性女子(出口聖師)に比定される二人の霊信の発現者が居ると…
私は僅か数行の情報だけで、この実体のよく分からない秘教?団体を訪れたのは昭和53年夏のことでした。
と言っても、その冒険に初めて乗り出したのは、その神秘めいた本拠でなく、そこの神戸に有った支部でしたが…
何の前触れも無く、そこの扉を開いたのですが、手伝いの人らしきお婆さんが出てきたので、挨拶を交わしたら彼女はすぐ引っ込んでしまわれました。
その時、奥の方から聞こえてきた、その人が誰かに向かって話していた言葉は今でも覚えています。
「大変な人が来ましたよ!」(笑)
後で聞いたら、その団体の昭和28年の発足以来、外部から突然そこへブラリとストレンジャーが(しかも東京からはるばる)訪ねてくるなど、前代未聞のことだったそうです。
と言うのも、そこの関係者は殆ど直接、間接問わず親子とかの縁故関係で成り立っていたのです。
やがて、Mさんという人が応体に現れて、大本の仕組みの継承について触れようとして、話を聞き出そうとしたのですが、これがいささか当てが外れていたようです。
その団体で聖典と言われている書き物を見せてもらったのですが、私はすかさずMさんにこう尋ねたものです。
「これはお筆先、神示のようなものでしょうか?」しばらくして、これが一寸ズレた質問だった事に気が付きましたが…(笑)
そして意念を集中して、この団体が如何なることを発信し、いかなる活動をしているかについてレクチャーを受けたのですが、どうも要領を得ませんでした…。
このように私とD会との最初の関わりは、いささかスレ違いに終わった感がありました。
しかし、私はその後、小池辰雄先生やベルジャーエフを知り、キリスト教的な感性を身に覚えるようになりました。
それは一口に言うなら、霊なるハタラキに根差した、共同体的なものへの歩み寄りと言ったらいいでしょうか…
そうしたものに共感して行くにつれて、最初は読むことさえままならなかった、D会の書き物も何故か吸い込まれるように引き付けられるようになって行きました。
これは54年初頭に私に芽生えたあの感覚とも無関係ではありません。
そうしてその年の夏、今度はいよいよその本拠に赴いたのです。
そこで初めて私にとっては運命の人、M女史と出会う事になります。
その時は、あいさつ程度だったのですが、初めて声を掛けられた言葉が「貴方は霊感の方ですか?」だったのには、面くらいました。
多分、女史は私が霊感詩人西村さんの関係の人間と勘違いしていたのでしょう。
この時は、あの「要の神示」を出していた、もう一方の大本の継承団体(これは本格的と言えるものです。ただしすぐに潰えてしまうのですが…)をも訪れました。
今から考えると、もうこの頃から、私の気づかないところで関西移住計画が進行していたのかも分かりません…。









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葡萄の樹

2015-02-22 19:10:59 | スピリチュアル
昨日からの記事はハナっから、理解してもらおうなどと思っていません…(私自身ホントに理解しているのかどうか?)ただ自己満足かもわかりませんが書いてみたくなっただけです。読んでみたくなった、スルーしたいはもとより皆様の自由です…

自由意志…。いとも簡単に言ってしまいましたが、それは通常言われる意味とは違います。
意念を超えたところから発してるのは間違いないのですが…上手く表現できるかどうか…
そもそも私に意識の変容が起きた時、まず心身の自由が効かなくなってしまうという事態に見舞われます。
それは日常において活性化されていたもののことなのですが、同時にそれはその奥に存していた、押し込められていた意識が自由にされるという事でもあるのです。
そこに意識の性質により相反するようなことが起きていたのです!
これは実に重要なポイントかと思われますが…(分からないか?)
そこで私の内なる意識は普遍調和の領域と、極私的至聖所の領域があるいは重なり、あるいは往ったり来たりしていたのですが、こういう観方も出来るかも知れません。
それはもとより私が至聖所と呼んでいる領域しかない!
個を超えた普遍的な神的領域は、個なる自由意志の帰結であった!
でも一方ではこのような観方も出来ます。
もとより普遍的神的領域しかない!
自由意志に満てる至聖所は、そのように現れているだけで、本当は一なるものに統合されている…
こう見ると、個我は幻想であり、本来自由意志というものも無いとも言えるのかもわかりません。
ただそれのみからの観方は、果たして我々の現実世界にそのまま適応出来るものなのかどうか、という事です…。
でも…ずっと私の意識に映っていたのは、そのどれでもありません。
どこまでも広がり、底辺も上限も無い、葡萄の樹の如き、巨大なるフラクタルなものでした。
それは一なるものであり、多様なものである。
そしてまた、その葡萄の一粒のような個体も又一にして多様なもので成り立っていた。
あたかも各個体は全体の相似のようです。
要するにこの有り様の無限なる広がりなのです。
華厳経に言う蓮華蔵世界とはこのことなのでしょうか。
出口王仁三郎師の天の高天原、小池先生の神の幕屋、ベルジャーエフのソボールノスチもこの世界を描写していたのでしょうか?
キリスト・イエスは「我は葡萄の樹、汝らは枝なり」と言いましたが、正に生ける大神人といった感じです。
この矛盾多き現世に生を享けた人間なら誰しも、そのような世界はここ地上に実現されるのであろうか、と待望の念に駆られる事でしょう。
ここでもまた、意識の有り様で観方が変わります。
まず、その世界は既に実現されている。永遠の今において…
して、この見える世界では…実現されるどころか滅亡に瀕しているではないか!
これはしかし、この肉身を背負って生まれてきたものの宿命的観方でしょう。
滅亡の道をたどるか、理想天国を迎えられるか…全ては可能性だからです!
私にハッキリ分かっていることは、一粒の葡萄の実は枝や幹から切り離されてしまえば、地に落ちて朽ち果ててしまいます。
つながっていれば、大丈夫だということです。
葡萄の実の各々はもう、その連なりにつながる力は残っていないのかも分かりません。
だが、聞くべし!大地を破り、新たな葡萄の樹が立ち上がる音を…


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至聖所

2015-02-21 20:08:23 | スピリチュアル
どの人間も物心がついた時、他人とは違う自己というものを認識します。
これはもう、どうしたってこの世に生を享けたものの宿命ですね。
そこから自己、あるいは他己イメージの投影というものが起こり、所謂自我というものが形成され、悲喜交々の幻想に満ちた人生模様が展開されていく訳ですね。
自我というのは、このようにその実体性がアヤフヤなものですが、その奥に有る魂の個性というものはもう否定しようが有りません。
そうでなければ、貴方も私もこの世には居ません!
いくら個我は幻想、大いなる一なるものしかない…と言っても、何故我々はこの世に生まれてきたか、ということについては何も答えてくれません!
この本来的個性というものは、どこにその淵源が存しているのでしょうか?
それは今、徐々にフタ開けされ、地上に応現されようとしている、一なる普遍的領域とはまた異なる領域に有ると思われます。
それはおそらく、永久にフタ開けされることは無いかも分かりません。
その秘奥はおそらく貴方と私、つまり一人一人の個にしか知らされ得ないでしょう…。他の何人にも…
言うなれば、それは極私的領域です。
この世界には、過去、現在、未来、あらゆる貴方自身の生が存しています。
そこで、我々は生き通しであることを示されるのです。
本当の意味での人生の裏側とは、この世界のことなのかも知れません。
(まあ、裏というのは開かれて、表に出てしまっては裏でなくなるし…)
全ての全てなる神は…勿論そこに存しています。
でも、この世界の自治権はあくまで個に委ねられています。神は必要以上に干渉してきません。
そしてこの世界で最も支配しているものは何かと言ったら…自由意志です。
そうです、この世界で貴方は好きな事を自由に出来るのです!無条件に…です。
逆説的な事を言えば、この無条件の自由意志に条件を設ける事も出来ます。
そして…全ての命の源である神と全く分離した世界を創ることも出来ます。(多くの人はその世界を地獄と呼んでいます)
でも、それはあくまで、バーチャルで、という意味合いですが…。
各個体は、自由意志で様々なバリエーションを創造しますが、神とつながったままであるのは変わらないからです。
それは原初的な楽園状態と言うべきか…
天国か地獄か…どちらに赴くも、それはあなたの自由です。
そこでは、全てが与えられてあるのではありません。
全ては可能性である、と言っていいかも分かりません。
人祖アダムが本当に夢見たパラダイスというのは、この世界だったのかも知れません。
私は、あの一なる普遍調和世界と区別して、至聖所と呼んでいます。
何人にも入ることが許されない、と言う意味で…
各個体の自治天国である至聖所は、断じて普遍世界の各パーツなどではありません。
もし、全体の一部にすぎないのであれば、個としての意味は無くなってしまいます。
個は個を生きてこそ、全体も生きる…個と全体は相即しているのです。
従って、この両界には確固たる境界などは在りません。
そして、このアダムが夢見た楽園,至聖所は地上的応現に関して絶対的な意味を有しています。
それは、大いなる根源的意志に対する、服従的でない、自由な呼応でしょう。
今、この世界は破局の相、普遍調和の相、どちらに転じようとしているのか…それは貴方と私次第です…。











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言葉を超えて

2015-02-18 15:45:30 | 雑感
精神的な話になると、どうしても言葉で言い表わし得ない領域に触れるので、とかく表現が舌ったらずになったり、大げさになったりして誤解を生みやすいものです。
矛盾したような話なんてのは、そうならない方がむしろ可笑しいようなところもあります。
相反するようなことが、同在してたり、こちらでは、逆説と呼ばれているようなことばかりなんですから…
ある一面を強調しようとすると、別の一面が抜け落ちたり…
自分でもこうして書いていてなんなのですが、人様の書いているのを読ませてもらっていて「よく確証の無いことを決めつけたように言えるものだなあ!」と感じる事しばしばです。(ただちに自戒の念も襲ってきますが)
ただ、もうどうしようもなく筆が走ってしまうというか、思わず断言したくなってしまう気持ちもよーく分かります。
「これがウソだったら、この世に神も真実もありゃあしないんだ!」と、まるで何かが乗り移ったようになって…
これが言い表せないものに触れて、それを伝えようと足掻いてる、という事なんですけどね。
無責任な言い方になりますが、そういう文章を書いて人に理解してもらおうなんてことは、ハナっから思ってなどいません!
むしろ思う事は「簡単に分かって貰っちゃ困る!」…。
ある集まりで、スピーチを求められた時、図らずもこのような発作?に見舞われました。
何をほざいたか忘れましたが、確か「私はもうここで果てたって構わないゾ!」というノリだったと思います。(笑)
普段の物静かな私からは、多分想像の付かない様な感じになっていたのでしょう。
十数人居た会場は凍り付いてしまいました!(笑)
多分勢いに押されたか、あきれ返ったかどちらかだったんだと思います。(笑)
そんな中、一人の人からこんな感想を聞きました。
「あなたの言ってることは飛躍が有って、よく分からなかったけど、言葉を超えたものが伝わってきました。」と…
私は嬉しくてたまらなくなって、すかさずその人と握手を交わしました。
そうなんです。そうなってこそ、発作に見舞われた甲斐が有るってもんです。(笑)
このブログを読んで、誰が理解してくれるのかは、知る由もありません。
何せ、内容がちとマイナーであるし…
でも、このように伝わる方がたった一人でも居てくれたら嬉しい限りです。
考えてみれば、これまで読書などを通じて、いくつか言葉を超えたものに触れた事が有りましたが、そういうものしか残ってないんですね。
そう、それは消えていない…言葉で言い表わせない感覚を通じてつながっているのです。
書物や言葉なんかで、意識が目覚める事は無い、と決めつけた事言う向きもありますが、そんなことは無いですね。
そう言っていた人は、ある時精神的爆発が有ったそうですが、それはあるパンフレットを見たからだ、と言っていました。
上辺の思考の動きで無しに、思考の底辺に有るものの動き次第でそういう事もある、ということでしょう。
そのうち書物も3Dならぬ4Dなんてのも出てくるかも…







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