人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

晩秋の鬼子母神界隈

2019-11-30 11:32:31 | 雑記
先日、池袋のすぐ南側に隣接している鬼子母神の界隈に行きました。
晩秋の頃になると、行きたくなるスポットで、理由は簡単、都内の紅葉の名所の一つだからです。
実はそれ目当てだったらまだ一寸早いかも、なんですが、同じくその名所である、石神井川流域と同じく、どうしても今月中、この季節のうちに行かなければならないような気がしてきて、つい来てしまうのです。
多分、自分の頭か胸の辺だかに、秋は憂愁に浸れるということが刷り込まれているのでしょう。
しっかし...寒いわi 年末寒波がやってきたみたいだ...もう秋じゃないではないか?

池袋駅南口、明治通りから東西に、あずま通りという、こじんまりとしているようで、適当に栄えている街並みを形成している道が通っているのですが、ここから北側と南側では全く世界が違うという印象があります。
南側にはあの都会の雑踏の風情はありません。人、車の数が全く違います。
結界でも張られているのかと思うくらいです。もしかしてこんなに隣接してるのに、池袋に馴染みある人でも、このアナザーワールドの存在を知らない人も多いのではないでしょうか?
その通りを突っ切り、今工事中の都電を超えると、広大な雑司が谷墓地があります。
そうです。この雑司が谷一帯は、静かにしなくてはいけないような気がしてくるエリアなのです。だから秋に行かなくてはいけないんですi
"なげーな、この工事はi"...都電を地下に通す工事をやっているのですが、実現するとすごーく便利になるはずなのですが、地域住民の反対の声もあって中々進まないみたいです。
工事で街のこの静寂さをたたえた景観が損なわれるという理由もよく分かります。"だから早く完成させてi"とも思ったりもするのですが、きっと住民でない人には分からないジレンマがあるのでしょう。
で、その一角にある、鬼子母神というのは、こういう日本的精神文化を象徴しているように思えます。
ここはお寺なのか、神社なのか?
法明寺という正式な名前があるからお寺なのだろう、と思うのですが、初めて来てしばらくは神社だと思っていました。辺りを歩いていると、どうも神域っぽい感じが拭えなかったからです。
そして又妙見を祀る堂の存在を知ってからは、どうも道教にも由来している(妙見菩薩ー北極真君)という感じもしてきました。
ここの神社的祭祀面は、ここから坂下にある大鳥神社として独立(?)しましたが、この神社はずっと歴史が新しいことが分かります。
古い神社だったら絶対にあんな低地に建てたりしません。(そこに沿っている弦巻通りはかつて、西の文字通り"池袋"から流れる小川が流れていた)
神仏分離政策というものがあったにせよ、私は神道も、仏教も、道教も、儒教(これが主として先祖供養を伝えてきた)も、あまりごっちゃになるでもなく、お互いを損なうことなく、共存していくことが、何だかよく分からない日本本来の精神文化の有り様だったように思えます。
鬼子母神参道の並木も今は緑、黄色、赤と一様でもなく、各々の色合いをもって、"妙なるもの"を映し出しているようでした。
参道につながる商店街も、前記の弦巻通りのこじんまりとした商店街も、その周囲とは切り離されて、古き良きものが残されているように感じます。やっぱりここには結界が張り巡らされているのでしょうか?
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この秋も去りゆく...

2019-11-28 10:24:43 | 詩的文章
未曾有の台風の襲来
記録破りの大雨...

秋の感傷に耽ってなど居られなかった...今年の秋...
読書、行楽、味覚の楽しみ...
浮かれてなど居られなかった
全く人生には思ってもみないことが起きる

体がじんじんしてきた...
いや、これはいつものやつと違うぞi
悪寒がする、低周波のような耳鳴りがする
気がついてみれば...
当たり前のように感じていたことが、感じられなくなっていた
これが当たり前のことなんだろうか?
何かが詰まっている、通らない、開かれない...
通らそう、開こうとしようとしても...
心を開けばいいの? どうやって?
開かれないものは、どうしたって開かれないi

秋と冬の合間には、どうしたって寒風が吹き荒れる
木々の葉っぱはどうしたって枯れ落ちる
温暖化が進めば、どうしたって異常気象に見舞われる
どうしたって...どうにもならない

気がついてみれば...
さみしい木々も鮮やかに紅色に染まってきた
秋晴れに恵まれなくとも、冷たい雨にたたられても
くっきりと、あの燃えるような赤を映し出す
枯れたり、落ちたりしても、変わる時は変わる...
どうしたって...そうなるもんだ

当たり前のことが当たり前とは限らない
当たり前でないことが当たり前なのかもしれない
一体、妙なるものというものは...全く思ってもみないことなのか?

この秋も去りゆく...
移り変わるものと、変わらないものとを映しながら...
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神を待ちのぞむ

2019-11-27 12:05:01 | 人生の裏側の図書室
「もし永遠の救いがわたくしの前のこの机の前におかれていて、手をのばしさえすれば救いがえられるとしても、わたくしはその命令を受けたと思わないかぎりは、手をのばしませんでしょう」(シモーヌ.ヴェーユ「神を待ちのぞむ」/著作集第4巻所収/春秋社他刊)

最近、おおよそ36年ぶりで20世紀のフランスの女性思想家(主として神秘思想と社会思想)シモーヌ.ヴェーユの上記の著書を読んでみました。
ヴェーユはユダヤ系の人。しかし、同系の人で彼女ほど反ユダヤ的なことを熱烈に言明していた人を私は知りません。
反ユダヤと言ってもこの場合、ユダヤ民族排斥と結び付いてある社会に伝播する、所謂反ユダヤ主義のことではなく、聖書的世界から旧約的、ユダヤ的伝統を排除しようとすること、主としてキリスト教のユダヤ的源泉を否定するような言説のことです。
ユダヤ的なものと、もう一つローマ帝国に由来するものが、キリスト教の歪曲、腐敗の本質的な原因になっているとし、この二つの流れは、国家主義や民族主義と結び付いて純粋な宗教的在り方を変質させたのだ、と...
そして、彼女は古代ギリシア的伝統に、ユダヤ的伝統に取って代わるキリスト教の源泉を求めました。又バカバット.ギータや老子など東洋思想にもキリスト.イエスの教えに通底するものを見い出していました。
つまり、ヴェーユが戦っていたのは、純粋な宗教、精神的な道にはびこる、本質から逸脱した非寛容、独善的な在り方であり、代わってキリストの道に息づいている普遍性を明らかにしようとしていたのです。
「カソリックは普遍的でなければなりません」(同書)
カソリックの修道士J.M.ペラン(この著書は、ヴェーユのこの神父宛の書簡を中心に構成されています)との親交を通じて、ヴェーユに「洗礼を受ける」という意志が芽生え出したのですが、カソリック教会に「アナテマ.シット(彼は破門されよ)」という言葉で、異なる信仰を排してきた歴史があるために、ついにその門を超えることは出来ませんでした。
このことは、当然彼女の教会観とも深く関わってきます。
「キリスト教の肉化(教会の形成についてのキ教の伝統的な解釈として、こういう表現が用いられる)ということは、個人と集団との関係の問題の調和ある解決を意味しています」(同書)
ヴェーユの洗礼を前にしてのためらいには、見える教会と見えざる教会との相容れられない敷居が横たわっていました。
彼女の魂も又、私が親しんできた思想家たち...ベルジャーエフ、エマーソン、ティヤール.ド.シャルダンらと同じく見えざる普遍教会を志向していたのです。
しかし今の私には、ペラン神父がこのヴェーユの言説について「理知的な方向に傾き過ぎている気来がある」と述べている通り、どこか余所行きなところも感じなくもありません。
イエス.キリストの神...それはユダヤに源泉があろうと、ギリシアだろうと、東洋だろうと...いいや、そう呼ばれるものでなくとも、私が私でなくなるほどにも、あるいはあまりにも私自身であるようにも、直にあいまみえるものでなければ、人がそう言っているものでは、この魂はどうにもならないのではないか?
シモーヌ.ヴェーユには、確かにこの言い表すことの出来ない自身の霊的源につながる息吹きは伝わってきます。
ただ、他に理解を求めようとする時、客観的な表現を借りようとするあまり、理知的に走ってしまう傾向があったように思います。

私が36年前、どうしてヴェーユに共感をもったのか何となく分かりました。
キリスト教的なものに惹かれていながら、どうしてもその門を超えることが出来なかったこと...普遍なるものへの希求が始まっていたこと...見える教会の裏側に息づく見えざる教会の存在...
それは、私が初めて"人生の裏側"に踏み入れることになって、数ヵ月後のことだったのです。
ヴェーユの言葉には、私の内部に発揚していたものに触れて来ざるを得ないものを感じていたのです。







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普遍なるキリスト

2019-11-24 10:45:36 | 現臨、ハタラキ
私が関西から東京に戻ってきた平成4年から数年間、小池先生亡き後の東京キリスト召団の集会に連なっておりました。
この頃は昭和54年初夏、私が初めて同召団に参った時の、あの聖霊の息吹きが充満して、一寸常識では考えられないような様相も見られた集会の在り方も、大分落ち着いたものになり、有り体に言えば、そのエネルギッシュなまでの霊的な雰囲気はかなり後退していたのです。
そこでは"生身を持った"講師的立場の人が牧会をするでもなく、月一回小池先生の後継者である、京都のO先生が来会する時以外は、もっぱら小池先生の講話のテープを聴くというのが、集会の中心のプログラムなのでした。
これはもう既に生の、この現つの真ん中にあって、霊なる命に接する集会の在り方は終わってしまった、ということを表明しているようなものです。
私はそうした在り方も(しょうがないと)受け入れて参会することにしたのです。
私は最初の自己紹介の時から、他の人にどのように受け取られたかは分かりませんが、ハッキリと自分の信仰的な歩み、現在の自分の在り方について言明しました。
そこで強調して語ったことは、主としてこのようなものでした。
「私はクリスチャンではありません。これまで一度も(自称でも)そうだったことはありません。洗礼を受けたこともなく、聖書を読んだり、讃美歌を歌ったりする習慣もないのです。私がここに居るのは場違いなことかも分かりません。しかし...私は多分皆さんと同じく小池先生からは多大な啓発を受けた者として、諸々の障壁を乗り越えて、ここに連なることは出来ると思っているのです...」云々と...まあ暖かい拍手で、迎えられた訳ですが、あの皆さんは果たして本気だったのか?(こんなこと言っちゃいけませんねえ...)
集会の司会は、当番で会員が各々順番に受け持つのですが、私の時は一寸型破りで、先の理由で通例、形式的に行っていた「聖書の朗読」、「讃美歌の唱和」などは、すべて省略させてもらいました。
正直に言わせてもらいますとねえ...先の理由は別として、何か時間を埋め合わせるように、長々と聖書を読んだり、讃美歌を歌うといった、形式ばったことが、アタシャ大キライなのですi
その上普段身に付いてないことをやれなんてこた、あーた、出来るかってんですよi 私は自分にも人にも誤魔化しはしたくないんですi
この私の身勝手流は、O先生来席の時にも、快く受け入れて頂きました。
その時でした。私はある証を語らされました。
最初は何かカッコつけたような言葉だったのですが、しまいに言葉にならないような感じになってきました。
自分であって、自分で無いような、普段では分からない意識状態になり、押し出されるようにも、口から迸り出てくるものがあります。
そうです。現臨に捉えられてしまったのです!
それがクリスチャンたちが言っている霊なるイエス.キリストなのか、どうかは分かりません。
私には一度もそういう形で示されたことはありませんでしたが、この現つの真っ只中に我ならぬ我というか、思われた自己でない、私そのものと分かちがたくあるものが現存し、共にある、その中に在らしめられている事態を一体どうしようぞi
そういう風なことを言わされていたか、今書かされているのか、よお分からんのですが...
もう、キリストの神は、どうでこうでとか、聖書的であるとかないとか、福音的であるとかないとか...人がそう言っているような他人行儀なことなどどうでもよくなってしまったのですi
何でこんなことになってしまったのか? 以前の私との明らかな違いは、こういうことをスラスラと表現出来るようになったことでしょうか?
それも私には自覚はありません。私はずっとキリスト召団と関わっていた訳でもなく、そこで劇的にキリストの光を受けて変容させられた、ということも無かったのですから...いつの間にかそうなっていたというのが実感なのです。
そして、今の私にはハッキリと感じられてきます。数十年前、出会った小池先生の詩文の中には、キリスト教という枠の中には収まることの出来ない、諸々の垣根を超えた普遍的キリストが見据えられていたということを...
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魂を揺さぶる詩文

2019-11-23 11:15:36 | 人生の教師
何度か書いているように、私が現臨と呼んでいるものを初めて感覚されるようになったのは、まだそうハッキリしたものでなく、朧気な感じでしたが、昭和54年の春先の頃でした。
その直前に、突如として意識が不安定な状態になり、それが遠のいて行って、何かブラックホールのような暗黒の虚無的な領域に引き込まれて行くような恐怖に襲われたのでしたが、そこにそれまで感じたことの無かった意識が芽生え、"私はここに居るよi"という、霊的なガイダンスのようにも私を守り、導いているものを感じ、その苦境から離れることが出来たのでした。
思い返せば、これこそ私を在らしめる、現存させるものであり、現臨と呼ぶに相応しいものだと思います。
しかし、当時はこんな風に書き表せる言葉も見つからず、表現する術もなく、先のようにそんなに自覚的になっておらず、意識に根付いてはいなかったのです。
それから二ヶ月くらい経って、俄然その朧気に感じていたものが、"これはリアルに私に直接アリアリと臨在してくるものなのかもしれない..."と、予感させずにおれない文章と巡り会うことが出来ました。
それが小池辰雄先生の「キリストの霊性」(小池辰雄著作集第八巻所収)という告白的な詩文なのでした。

「我が砕けて汝が生きる 心が裂かれてみ霊が宿る...
汝は私の一切で在り給う 私はもう何ものでもありません
私の眼玉が水晶体であるように、私の心塊も無色透明にされました...
私の信仰も、真実も、実存も棄てました
絶信の境地、この無色透明にこそ、汝の信仰、真実、実存が在るのです...」

"ああ、こんなことが現実に在るのだろうか? 何だか分からないが、もう理屈じゃない、無性に僕の魂は惹き付けられてしまう..."
ある文章を読んで、魂が揺さぶられ、吸い込まれるように行間に捉えられてしまうということも初めてのことでした。
小池先生が書いたものの中で、個人的には、この文章がもっとも先生の中に息づいているものが、端的に、凝縮されて表されているように感じています。
これは私が初めて接した、ああいう衝撃がそのように映じているのかもしれませんが、何度読み返してもそう感じてきます。
ともあれ、私はこのように人生の大きな変節に当たっていた頃、この霊なる言詞と巡り会っていたのですi
しかし...これ程の霊縁を感じながらも、私はストレートに、無条件に、その先生の精神世界にぶつかって行くことはありませんでした。
私には、特定の宗教ーこの場合はキリスト教。先生はキリスト教でない、"キリスト道"というものを掲げていたのですが、どうしても当時の私にはこの"教"というものが拭い去れなかったのです。
というのもどうしても無条件に受容出来ないという(これはハッキリ言って観念的な思惑に過ぎないですが)ものが強く心魂にあったからです。
無条件に惹かれてやまないものと、ある種のわだかまりとで迷っていたのです。
このように心魂に横たわっていたものが、正しいものか、どうかは分かりませんが、思念に囚われていることは迷いには違いありません。
"小池先生にとっては、主はキリストであった。私は...どうしてもキリスト(教)の門に飛び込む訳には行かないものがある..."
それがキリストだろうと、ブッダだろうと、OOの神だろうと、私は、私に直に生きてハタラク主なる神を求めていたのは確かなことでした。
しかし、もっともらしい理屈ですが、私の生ける主とは、すぐ思念の中に消えてしまうような、何と他人行儀なものだったでしょう...
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