人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ジャズ喫茶の思い出

2023-10-30 09:54:56 | 回想
先日、久しぶりにジャズ喫茶に入ってみました。
ジャズ喫茶と言っても最近の人にはあまりピンとこないであろう、あの“一種イビツな時空間を共有すること“を期待して入ったのでしたが...普通にジャズが流れている喫茶店なのでした!
“この人何言ってんだ、だからジャズ喫茶なんだろ?“、って思われる向きもあるだろうけど、あの頃“入り浸っていた“人ならこの言い回しの違い分かってもらえるでしょう?
ま、それでも一応はジャズ喫茶なのですが、何十年ぶりであろう!...“お代を後で払う“喫茶店も久しぶりの気もするが...
私が初めてこの種の店に通うようになったのは確か昭和50年のことで、すごーく入るのに勇気が要ったことを覚えています。そこには何か得たいの知れないイニシエーションみたいなものが有るような気がして!...実際に入ってみると、あまりの音楽のケタタマシさとタバコの煙がむせるのに閉口したのでした。
私はすでにジャズの洗礼?は受けてましたが、そこで流れていた、(多分)ハードバップ系モダンジャズとは違い、それ以前の古いスタイルのもので、そのジャズ喫茶の多分主流をなしていたであろう、前記のものとは外れていたのでした。
そう当時から私は本当にイビツなマニアックな人間だったのです!
だから長くなるから音楽そのもののことには触れませんが、とにかく当時はジャズ喫茶の全盛と言ってよく、中央線沿線を中心に都内至る所に店があり、その中でも私は苦労して、私がくつろげるジャズに触れられる店を探して“入り浸っていた“訳です。月に一度は通っていたと思います。
貧乏学生だったので、レコード(LP盤)など易々と買えないので、リクエストをして気に入ったものを買う(これがホントのジャズ愛好家のステイタスなのです)...今のように動画配信で試聴出来るなんて考えられません。(え?、曲をストックして聴いているの?、実物盤はどこに有るっつーのよ!)
とにかくそれを聴いている時は禅修行のように、集中しているのです。
入り浸たるという意味は、二時間くらいはざらに粘るということ(だから店の回転が悪い)なのですが、私も“コーヒー一杯で二時間“て感覚はあったように記憶しています。
その間何をしているかと言うと、“修行“以外では詩集とか哲学書とか好きな本を読む...な~んて、今じゃともかく、そんな記憶はありませんねえ!
じゃ、何をしていたのか?...ほとんど一人で!...瞑想?、やっぱり修行か?、いや、ただの夢想というか、一寸今では考えられないようなヒマな生活だったということなのでしょう。
私がジャズ喫茶には付きもの?の読書に目覚めたのは、その数年後のことだった!...足繁く入り浸っていたのは約二年間だったということです。
それ以降は本格的に精神世界的なものを中心に読書に興味が移って、ジャズ音楽からは離れたということのようです。
あのイビツな時空間は一体何だったのか?...幻想のように思えてなりません。
第一、音楽と読書の共存などその後いくらだって持てたはずではないか?
いいや、ジャズ喫茶のイビツな文化は、急速に廃れて行ったということなのでしょう。(二時間も粘られたんじゃ採算合わないし...)
それだけに、先日の店は得難いものがあります。しかし子供連れの客などかつては丸っきり見られなかったものですが!
今度はニーチェやアミエルの本を片手に入ってみよう!...






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思いが通り過ぎてるだけ

2023-10-29 08:36:14 | 詩的文章
今朝、出かけようとしたら雨が降ってきた...
諦めようとしたら晴れてきた...
又、出かけようとしたら曇って、雨が強くなってきた...
やっぱり諦めた!
腰が上がったり、座ったり...
やれやれだ!
雲が通り過ぎてるだけなのに!...

ついこないだ、気が滅入っていた...
昔の悩み苦しんでいた時のことが過った...
この苦しみがずっと続くように思えた...
曇っても降っても晴れても...
寝ても覚めても...
それは続くのだ!

雨が降る...
雨でも続く...とは思ってみたが...
実際に雨が降る!
雨音の中に.“重し“は軽くなったようだった!
そして、いつの間にか眠りに落ちた
実際に寝てしまった!
寝ても続く...とは思ってみたが...
それから起きてみたら...
世界は全く光に包まれているようだった!
光の中にいるようだった!
何を苦しんでいたのだろう...
思いが通り過ぎてるだけなのに!...

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神、真我への瞑想と祈り

2023-10-28 09:53:02 | 祈りと瞑想
度々言っているように、“意識的になること”が如何に人生で大切なものであるか...意識があなたの人生を作り出していると言っても過言ではないのです。
だから、意識を何に置いているか、向けているかが重要であるのは言うまでもありません。
しかし、我々は日常生活に追われ、埋もれがちなので、特別にそのような時間を作らなければなりません。それが瞑想であったり祈りであったりする訳ですね。
私がしばしば言っている、思いを超えたもの、神的なものに意識を向ける、というのは祈りとして捉えられるのに対し、自己の内面に向ける方を瞑想と捉えることも出来るでしょう。一応は...
実際のところ、瞑想というのは、各種色々なやり方があって、どういうやり方でやったらいいか分からないという向きもいるでしょう。
一方祈りというのは...自分の思いを超えたものに向けられるものに色々なやり方があるというのは、私的には分かりませんが...祈りの文句など色々なものがあることは認めます。一応は...
では、私はどういうやり方、方法でしているのか?...知りません!
私は今瞑想、祈り(らしきもの?)は、意識的になること、意識をどこに向けるか、という関連で簡単ながら述べました。
これは、そういうことに導かれないものは、瞑想でも祈りでもない、と言っているようなものなのです!
やり方?...ホント、知らないですねえ!...意識が向けられ、神に、本当の私?につながれば、それが瞑想、祈りでしょう。いや、そんな呼称すらも必要無いでしょう。意識的になることがあるだけなのです。
そして、神的なものに意識が向けられても、私自身(真我)にでも、それは分離されなくなる...祈りと瞑想は一つのものということが分かるのです。
そして、又そのように意識を向けるということは、実は特別な時間を設けなくとも、寝ても覚めても常時可能なので、修行というものに囚われる必要がありません。
ですから、とにかく、意識的になることなのです。こう言ってもひどく漠然としていますね。しかし、私の経験でも神、私自身というのは、意識が向けやすいもので、もう、惹きつけられる、引き込まれるようなくらいです。
それで、意識的にならない、どこに向かうのか分からない、色々なものに迷ったりしません。
又、迷っているのなら、“マ“が差すとか、危険な状態に陥りそうな時は神に祈ればいいし、私自身に意識を向ければ、落ち着くことが出来ます。
このように、主眼となるものは意識的になることですが、そのためには神、真我への瞑想と祈りを広く推したいと思う次第です。
神、真我って何だ?...私はあなたのことは知らない!
あなたの神、あなた自身に決まってるでしょう!
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意識的であることの重み

2023-10-27 01:41:42 | 意識、照明
所謂ノンデュアリティの道では、今でも”人間には自由意志などない”、という教えが説かれ、信じられているようです。
自由意志はあるのか、どうか?...どう思い、感じようとあなたや私の自由じゃないですか?
その他、定番の”あなたという個人は存在しない”、という教えでも同様です。
”それは、量子力学でも証明されているのです”、などと鬼の首を取ったようなことを言われても!...
そこでは、あなたが現実にどう思い、感じているか、というもっとも肝心なことに意識が向けられていないのです。
これでは、非二元の教えが如何に高尚(?)なものだろうと、”○○先生があなたの前世は、誰々だ”、と言ったことを無批判に、短絡的に信じ込むようなフニャけた精神と何ら変わらないですよ!
あなた自身の内なる精神は、易々と他人に売り渡してしまうほど軽いものなのですか?
だからと言って、私は(今の時点で)あなたが思い、感じたものだけが真実だ”、などと言うつもりはありませんよ!
だってあなたが思い、感じていることって、思いに固執した信念のようなものでなければ刻々変わるものでしょ!
要するに、決め付けた、固定された見解に囚われることが問題なのです。
そして、ノンデュアリティの道で強く忌み嫌われている?、思考マインドというのは、すぐ決め付けたがるのです。
思う方はともかく、現実に感じていることとズレが生じても、その借(仮)りの真理らしきものを信じ続ける...これは内心では迷っていることを示しているのでしょう?
重要なことは、自分にとって関心があるのなら、その対象に意識を向けたらいいのです。
これは感覚的なことなので、伝えることはとても難しいのですが、そうすると、何かそれが”重い、自分の内に鎮まるように感じてくるのです(ズシンとくる感じ?、”頷ける”かな?)。自分にとってです!
意識的になることとは、実存的なことと言ってもいいでしょう。
そのようにして、自分の実存的な認識は広く、深いものになってゆくのです。
そこで意識の光に照らされたことを通して、先の自由意志はあるか、とか私という個人は居るのかという問題でも、表層意識では自由と感じていたものとは別の、より深く感じられる自由意志なるものが感覚されたり、自分は表層で思っていた個的な在り方を超えたもののように感じて来たりするかもしれないのです。(それでもどう思い、感じるかは自由であるのに変わりは無いでしょうけど...)
こうしたことは、ほとんど”意識される”ことなく、”私はかく思い、感じるんだけどなあ”、という表層的意識の流れの内に隠れているのではないか?
より深く意識的になることで、このことは自覚的なものになるでしょう。
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意識が向くこと、向けられること

2023-10-25 09:43:45 | 意識、照明
ずっとこのブログを読まれている方ならお分かりのように、私は例えば死後の世界や前世の実在性など、自分が直接見たり、感じたりするでもなく、ただ誰かが言っていることを鵜呑みにして、他に向けて伝えてしまうようなことはしないようにしています。
これは、よほど知性も主体性も無く、真のスピリチュアルな道にはほど遠い、その精神性も霊性も欠いた在り方と言わねばなりません。
言い換えると、それは意識的な在り方ではないということ...これを欠いた霊性の道などあり得ないと言っても過言ではありません。
だからと言って、これもご存知のように、私は死後の世界も前世も否定している訳ではありません。というより多くのスピ愛好家?と同様、関心があります。...いや、”自ずと向けられる”と言った方がいいかもしれない?...
神は六次元の存在だとか何とか、丸っきり観念に浮いたことなどには最初から関心は向きません。自ずと意識は向かわないのです。
関心がある、意識が向く...これが意識の世界では重要なポイントでしょう。
私が意識を向けるとか言った場合、多くそれは、”向けられる”ことと切り離されないものとして語っています。これは、そう、神に向けると言った場合に顕著に感じられることなのです。
私はこれまで何度この言葉を言い表して来たことか!...そして、その現臨感に与ることにより、神についての認識が広がり、深められていったのです。
”神という一語の中に、その超越的なものは勿論、私の実存、あらゆる他者、普遍的なものなどのことが一つに内包されている!”
これは、あの感じを通して言い表わせるものなのであって、それが抜けたら何を言ってるのか、サッパリ分からないでしょう(笑)
このように、あるものに意識を向けると、それまで漠然と思っていたものが、ある感じを伴って自分自身に直結したもののようにも認識されるようになるのです。そして、そこには実はそのあるものの方がこちらに向けさせているのかもしれないのです。
あなたは今、あるものに関心があるかもしれない。どうも気になってしょうがない。漠然と思っているだけ、ただの知的な興味だけなのかもしれない。
気になるのなら意識してみたらいいのです。それが浮いてすぐどっかへ行ってしまうのなら、”意識付け”されることは無いでしょう。
いやと言うよりも、あなたが意識を向けたなら、あるものの方があなたを引きつけているのかもしれないのです。最初から向いていたから関心があったのではないですか?
これは、精神的な道に限ったことではありませんが、多くの人は頭だけの知識が増えれば、何か精神的に見識が広がり、深くなったように錯覚するものです。
しかし、本当に精神性が豊かになることは、意識の拡大、深化に関わることであることに気付いていないようです。
それは頭デッカチが思っているような、魂の進化といったものとは何の関係も無いかも分かりません。
少なくとも私の意識はそっちへは向きません。その広がり、深まりをもたらすものに自ずと向けられるのです。
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