人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

誰のための目覚めか?

2025-01-08 05:37:47 | 覚醒
精神的な目覚め、覚醒、悟り...
それは誰のため?
分かりきったことじゃありませんか?
私やあなたのためでしょう?
ブッダはこう説いた、こう悟った...だからそれに従わないとならない...
ラマナ.マハルシの教えに従わなければならない...
勿論、そういうものは指針にはなるものだけれど、ブッダやラマナと私は置かれた環境も時代も違うのですよ!
私は私自身に目覚めるしか無いのです。
自己実存に目覚めること無しに、覚醒というものはあり得ないのです。
何段階かの階層を登りつめ、完全覚醒を目指すとか...そんなことは所詮他人事では無いか?
他人の言葉の受け売りに追従してるだけ!
段階的覚醒も完全覚醒も、私やあなたが目覚めることと何の関わりがあるというのでしょうか?
いくら他人の教えに従おうとしても、本当に自分に得心しなければ、自分の中に入って来ません、通ってゆきません。
いや、従うべき対象があり、従う自分が二つになったままではどこまで行っても得心することは無いでしょう。
目の当たりに自分自身にまみえるということが無いのだから!
何かになろう、何かの境地に至ろうとしている限りは!...
それはあなたがそう思っているだけということでしょう?
だから、覚醒というものは、他人事の世界の支配から目覚め、自由になることを置いてはあり得ないのです。
私が私自身に目覚めるだけ!
自分自身に向き合い、受け入れる気の無い者は、ずっと夢を見続け、幻想を追いかけているだけ!
自分自身を受け入れることは、一コの、考えている自分を超えた、全的、まるごとの自分を受け入れることに他なりません。
それは、ずっとここに在り続けるもの...
何故ここから離れて、別の世界に探し、求めなければならないのか?
何故、自分以外の何かになろうとするのだろうか?
いや、一コの自分を超えたあなた自身があなたを求めているのではないか?
ずっと、その手はあなたに差し伸べられているのではありませんか?
あなた自身の神に聞いてみられよ!
その気の無いものに、あなた自身の目覚めは決して開かれることは無いと知るべし!...

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生ける真なるもの

2024-12-18 09:34:11 | 覚醒
「真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ伝第八章)

私は長い間、この聖句についてどうもピンと来ないものを感じていました。
真理を知ったからといって、そんなに自由になれるものなのか?、ちょっと抽象的では無いのか?、と。
それが最近、手島郁郎先生の最晩年の聖書講話「ヨハネ伝講話第三巻」(手島郁郎文庫刊)を読んで、“なるほど!“、と開眼される思いにさせられたのでした。
それによると、この真理とあるのは、ギリシア語の“アレーセイア“の訳で、“理“という意味合いよりも“隠されていない、アリアリとした、根底的な、疑うことの出来ない“真“、生きた真なるものというものを言い表しているとのことです。
何か対象的に向こうにあるような真理を追い求め、得ようとするよりも、生ける真の方が実存に切り込んで来て、顕わになるようなことを伝えているのです。
真にそれは、「“真理“を知るではありません。“真“を知るです」(同書)
これはもう、覚醒、悟りというか、エンライトメントに与るような状況を物語るものと言えるでしょう。
真にそれは、我々に自由を得させるものでしょう。
自由...それは、この世の諸々の縛り、思い込み、何よりも我々の自我性からの自由であろう!
真に、悟り、エンライトメントというものは、自分の思い、力に依るものでは無く、生ける真なるものにあって、それに与ることそのもののことであるのです。
アリアリとした、根底的な真なるものを真向かいにして、我々もどんな包み隠し、はからい、誤魔化しも無く、真の姿に在らしめられざるを得なくなる...それは真にありのままの自分、隠しようの無い自分で無くて何であろう!
如何なる覆いも無しに、ありのまま、映し出されるままであることは、どんなに自由で、幸福なことであることか!
これ、自分を常に正しくあろうと、進んだ、高きにあろうと、そう、悟ったつもりになろうと、自分を偽り、取り繕うとしている人間には、絶対に、永久に分からないことでしょう。
そういう人間は、悟り、真にあることとは、全く程遠いものであることを知らねばなりません!
一コの人間が、修行などを重ね、努力した末に真我になるのでは無い!
よく考えてみたら、感じてみたら分かるではありませんか?
誰が真我になると言うのか?
本当の自分とは、いつも自分を偽って生きている人間がいつも背を向けて、向き合おうとしない自分のことに他ならないのです。それは神の真に向き合うことと同じでしょう。
それは、生ける真なるものと離れてあるのでは無い!
そして、それは寸時も離れてはいないのでは無いでしょうか?...
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神無くして目覚めは無い

2024-11-06 09:09:29 | 覚醒
悟りや覚醒の道においては、神といったものについて触れているうちは、中途の段階であり、そういうものは越えて行かなければならないという向きがあります。
私はまだそんな境地に“達したことなどない“ので、達観したことなど言えないのですが、そういう人たちは一体どうしてそんな境地に達することが出来たのか、私には全く理解出来ないのです。
その神というものが、想像上のある実体を思い描いているものならばいざ知らず、考えている人間が自らその悟りの条件とも言える、思考から離れることなど不可能なはずですよ。
そのために瞑想修行などがある、とか言うのでしょうが、それでその越えせしめるもの、自己を超えたものそのものにつながるかどうかは分からないのです。
こういう観方、感じ方には私は、自分の意志想念、努力によってそういう境地を目指し、達しようとする思念に囚われているのをどうしても感じてなりません。
そもそも、古くから禅の師家なども説いているように、そういうものは断念されねばならないものなのではないですか?
私が初めて精神的目覚めらしきものに与ったのは、全く予期していない、思いがけないことで、勿論その境地に達しようなんて気持ちなど全然無かったし、又、その神的なものにそのことを祈っていた訳でもありませんでした。
ただ、その神的な現臨が予期せずに臨み、それが私のすべてを覆い、浸透するに任せるより無かったのです。
しかし、それはおそらく中途の段階だったのでしょう?...数日の内にその感じは消え去り、元の黙阿弥になってしまったのでした。
で、そっからは、それがあまりにも素晴らしく幸福なことだったので、そうです!...その境地を目指し、達しようとしたこともありました。
しかし、それで一度たりともそんな境地に達したことは無いのです。だから自分で達することは出来ないことを“悟らなければ“ならないのです!
又、その至福の状態に囚われることからも“解脱“する必要があるでしょう。
要するに体験、境地に囚われていてはならないということ!...それは、そうならしむるものあってのものだ、ということにならないでしょうか?
現実にそうなんだから仕方が無い!...その後も何度かそういうことになったりしましたが、そこには必ず神的な現臨が伴っているのです。これは祈り、それに意識を向けることで呼び覚まされるということはあるのですよ。
だから私には、神的なハタラキ無しに悟りや目覚めがあるなんてことは考えられないことなのです。
それは、人間は本来一個なる自分が生きているのでなく、それを超えたものとのつながりにおいて生きている、それが本来の在り方ということを意味しているのでしょう。
何より自然にそう思え、感じて来るし、そこに落ち着かざるを得ないではありませんか!?...
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自由と覚醒

2024-10-22 09:52:11 | 覚醒
ベルジャーエフは、随所で”自由”ということを高調しました。
その「自由は霊からくる」と言う。...
真に然り!...霊、霊性は思いを超えたところからくる。いつも言うように、思いに囚われていることが不自由なことなんです!
その宗教、霊性の道は何とトラワレで溢れていることか! 
悟りを開くには、その思考マインドを無くさなければならない、欲望を、肉体を(狂気の沙汰ではないか!)無くさなければならない!...それにはチャクラをすべて開かなければならない、前世のカルマもすべて清算しなければならない!...
どこにも根拠などない不確かなことを信じ込む...そうして何十年も修行してどうなったというのでしょうか?...
覚醒、解脱とか言う。そういう思いに囚われた人は、それが本当はどういうものか分からないらしいです。
常人を超えた、高い次元に進化した境地?、カルマからの解脱?...普通に考えれば分かるでしょう。それは、そういう境地に肖りたいエゴを満たすものでしか無いのです。
つまり、モロ思考、欲望から自由でない心的状態ということではありませんか?、解脱とは、肥大するばかりの自我意識からの解放でなくて何であろう!
このトラワレとは、ほとんどが他人の言葉に支配されている状態と言ってもいいでしょう。裏を返せばそれは、自己信頼の欠如ということです。
自分は自分のままでいい!...そう、それが自由であるということなんだ!
宗教の狂信者、容易くカルトにハマる者...他人の言葉に支配されている限り、覚醒などあり得ないのです。何故ならば、それは催眠術にかかっていることと同じだから!...
自由であることは、神からも自由ということなんですよ。とはいえ、それは神にまつわる
他人、集団の言葉から...ということなのですが...あなたは神に上から支配されているのか?、欲望や邪念を捨てないと、悪い行為を改めないと裁きを受けなければならないのか?
こういう思いに支配されるほどナンセンスなことはありません。
何故ならば、自由は神からくるのだから!...神という言葉がイヤなら、法(ダンマ)でも、妙智力でも、高次元パワーでも何でもいいでしょう。要するに思いを超えたもの、霊なるもののことです。
人が言ってる神、どっかのエライ人からの支配、トラワレがどこから来るのか?...この自分が、”信じ、従い、為さなければならない”、という風に刷り込まれてしまうからです。
そういう思いを超えたもの、真の解放者である、神に意識が向けられないから...これは、ありのままの自分を受け入れられないということでもあります。
あなたが心底自由であることを望むのなら、ソクソクと何かが来たる(如来といわんか?)のを、それがあなたに直に臨むのが感じられて来る...かもしれない。
もし、それがあなたを捉えたなら、あなたはもう受け入れるしかありません。それはそのままのあなたを受け入れることなのです。
神の手に捉えられる...思考も為そうとする力も自由が利かなくなる。神は強制を持って支配するものなのか!
これは、私もどう説明していいか分かりませんが、それは、心の底で望んでいたことはハッキリ分かるのです。
そして、私は初めて光が私の実存に差し込んだその時、本当の自由、全き自由というものを実感したのでした。
私は如何に自分の思いによって支配され、苦しみ続けて来たかを、そして自由なる、愛なる神を裁き主のように恐れていたことが如何に誤ったものであるかを思い知ったのです。

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否定ではなく統合

2024-09-16 09:54:19 | 覚醒
前々回で、例の反面教師が、自身のブログで覚醒体験を煽るようなことを書いていたことに対し、批判的なことを書いたら、この御仁、それを読んだのか、その記事は削除されていました。
と、代わりにアップされた記事が又、何とも輪をかけてトンデモ...な内容なのでした。
それによると...”すべての人が覚醒すると、物質次元の世界は存在しなくなり、宇宙の意志、法則からすると、それはイレギュラーなことになる...”のだそうです。
まるで、覚醒すると、肉体、物質は消えてしまうような言い分ではないか!...この御仁には宇宙の意志が分かっているのだろうか?...(私はこれには、良く言っておそらく言葉が足りないのだろう、とそう信じたいのですが)もし、それをマトモに受け取れば、この御仁、よほどの妄想に囚われているか、常識的な見地に立つことが出来ないんだ、と思わざるを得ません。
いやもう、”私の覚醒は近い”、なんて言っている場合じゃないですよ!...だから言うのです。上っ調子の、興味本位な思いで”ぶっ飛んだ体験”を追い求めることは魔境に通じているのだ、と!...
興味本位でなきゃ、どうせこのような誰かが言っていることに追従し、ハマってしまうような観念に浮いたようなことなど書かないでしょう?...それは覚醒どころか、催眠状態に陥っていることを知らねばなりません。取り返しのつかないことになる前に、普通人の常識に立って考え直すことをおすすめします。
この御仁、この記事を読んだら、又得意の削除をするのでしょうか?...何にせよ、彼が長年信奉している、五井先生の言う、”消えてゆく姿”というものがどういうものかがこれで分かるではないか!

この御仁の言葉からまず感じられることは、肉体、物質的なものに対する強固な否定感情です。
彼に限らず、宗教、スピの界隈には、その他思考マインド、自我意識などを否定的にとらえる向きは多いようです。
私も時にそう感じさせてしまうことを言ったりしているのかもしれません。
しかし、本当に私が言いたいことは、それら自体を否定することではありません。持って生まれたものに否定さるべきものなど何一つ無いのです。
問題となるのは、”それだけ”に限定されてしまうということ...そして又、それが悪いということでも無いのです。否定感情は、善悪に囚われた思いの表れではないでしょうか?
悪いように感じるその中身は...それはただそのままだと不都合が生じる、行き詰まってしまう、生命的なものが枯渇してしまう、立ち行かなくなってしまうということなのです。
これを煎じ詰めれば、いつも言っているように、人間存在は、思い、為そうとする一コの自分だけでなっているのでは無い、ということになるでしょう。
肉体、物質は言うまでもなく、時が経てば消えてしまうものです。だからと言って、消そう(自分でそうしようとするのは狂気の沙汰!)とか否定してしまうものでは無いはずです。それを持って生まれた我々なんだから!
肉体、精神というものは、本来一つのものであるはずなのです。分けてしまうのが分別知ということなるでしょう。
宗教的覚醒でよく言われる、頭脳知、分別知を超えるとは、それを超えて、又その根本にある、純粋意識に目覚めて、統合、調和がなされるということでしょう。
これは又、一コの自分が、神的なものとつながることを意味することに他ならないのです。
これらは意識次元の転換のことを言っているのであって、現実に肉体、物質が消えるなんて思い込んでいるのは、それ自体極めて物質次元に囚われた観方という他ありません。
こうしたことは、あれやこれやと空想、妄想などしてないで、ありのままの自分を受け入れ、見つめていたら、言い換えれば、実存的精神に目覚めれば(覚醒というものはこれを抜きにしてはあり得ない!)自ずと示されて来るものなのです。
しかし、考えている自分からは中々そうならない...だから自分を超えたものに意識を向ける...祈ることがあるのだと...私もあの御仁も何十年も前からそのことを五井先生を通じて知らされていることなんだ!...
だのに...たはは!、アタシャ、もう、何も言えんわ!...
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