人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

安息日

2019-03-31 10:59:04 | 雑感
「安息日は神が世界に臨在し、人間の魂にご自身を開いていることである。それゆえ魂は愛情をもってこれに応え、この聖なる日との親密なかかわりに入ることが出来るのである」
(A.J.ヘッシェル「シャバット」.教文館刊)
「安息日こそ来るべき世界の見本である」(ラビ.アキバ.同書より)

この休日、皆さんは如何がお過ごしでしょうか?
私はこのところ、休日出勤をする機会もあり、又平日休みも多く何曜日が休日だか分からなくなってきそうです。
ヤッパリ休みというのは、どっかで"全国的に皆で"という日もあってもいいと思いますね。
しかし、この休日というのは、どういう風に認識されてるのでしょうか?
どっかへ出掛けて行って、帰ったらクタクタになった、と言うんなら何のための休みなのか分かりません。
"休めったら、休めi" 労働はもちろん、あれこれ、奮闘、ハッスルしてはダメなのですi
そこへいくと、ユダヤ教社会なんかは徹底してますね。
私はフト思います。全世界でこんな法令が出されたとしたら...
その時はすべての争いは止むだろう...週に一度でもそんな日が定められたとしたら、休み明けに又一戦交えようか、という気にはおそらくならないのではないでしょうか?
こうして手を休めてみる...(なーんて、指とか無い頭は働かせて居りますが...)
色々と問題、トラブルを抱えている人も居ることでしょう。
しかし、"今日は休日"ということが意識されるだけで気分的に楽になるでしょう。
何もしない...奮闘努力から離れる...いや、もうホントに思いがけないことが、"じんじん、じわじわーっ"と始まってきそうです。
握りしめていた手を離し、忙しい手を休めることは、神的なものの現臨を迎え入れるということなのです。
又、それが臨んだ時、あらゆる人の営みは安息日とならざるを得ません。
これは人の手になる法令のことではありません。
安息日を守ることの内には、最愛のものとの出会いという内実が隠されているのです。
その日、来る日は週の7日目のことでしょうか?
それは、永遠の相とまみえることであり、毎週のことでない、特別な日である...
あなたや私にとってそうであるなら、この世界にとっても...その日には、終わりなき戦いも止むだろう...
安息日は、"世界が静止する日"の到来を予想せずにおれないのです。

(え、本当の安息日って、金曜の日没から土曜日の日没にかけてだって...じゃ、三連休でいいだろi 働き過ぎの日本人には...)
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ムシカ.デル.コラソン(心の音楽)

2019-03-30 12:20:18 | 映画・音楽など
こないだ、会社の同僚に日系ペルー人が居り、仕事がヒマだったことを幸いに、サボリついでに色々話し込んでしまいました。
その方は私より年長の67才だそうで、日本語はタドタドしいですが、基本的会話は出来るようです。
私はスペイン語は、日本のカラオケ機に収録されてる、ラテンなどの有名曲は大抵歌えるのですが、会話は全くダメ。幸いその方は英語も話せるので、日本語を中心にスペイン語、英語の単語をチャンポンにしたヘンな会話をしていたのです。
すかさず私は「アイ.ライク.ムシカ.クリオージョ(ペルーでも聴かれているスペイン移民の音楽)i」と切り出してみる。
「オー! それは、どんな曲デスカ?」
「エル.プレベージョ(El Plebeyo)、オディアーメ(Odiame)、ヴェンタニータ(Ventanita)...」(いずれもペルーで昔から親しまれているワルツーヴァルス.ペルアーノーの有名曲)
すると、彼は目を白黒させて驚いていました。「ペルーでも若い人は知らない古い音楽なのにどーして知っているのデスカ?! そんな(ヘンな)日本人知らないよi」
「80年代の中頃、神戸にあったレコード屋さんで、"ペルー.ワルツ"というのが出回っているのを見つけました。私はその時はペルーの音楽と言ったら、ケーナとかを使ったインディオの音楽(我が国では、狭義にフォルクローレと呼ばれている)しか知らなくて、それとズン、チャッ、チャッのワルツとどう結び付くのかサッパリ、イメージが浮かんで来なかったものでした。それから一寸してから、大阪の郊外にあった、中南米音楽を聴かせる喫茶店で初めて聴いて気に入りました。これは私がそれまで知っていたヨーロッパ風のワルツというより、子供の頃それとなく聴いた"トリオ.ロス.パンチョス"とかのラテン歌謡と似てると思いましたね。そう、私はボレロとかのラテン歌謡も大好きなのですが、それもその事がキッカケだったのです」と言って、パンチョスの「シン.ティ(あなたなしでは)」を口ずさんでみたら、フフフと笑っていました。
それから次から次へ音楽の話題に移って行きましたが、ペルーでは日本ではかなり受容されていたタンゴはあまり聴かれていないようです。
「一番始めに聴いたスペイン語圏の音楽は何デスカ?」と訊かれたので「小学校に上がる前、母がピアノで弾いていた"ラ.クンパルシータ"」と答えました。
そして、色々音楽のことを話し合ってみて、惹かれているものは、どうも共通しているなあ、と感じざるを得ませんでした。
「スペイン語で"ハート"のことを何て言いますか?」
「コラソン(普通に心)。ね」そうか...この微妙なニュアンスを言い表す言葉というのは、日本語にも英語にもスペイン語にも無いのですかねえ...
それで私は「コラソン、アニャランサス」と単語をただ並べただけですが、ハートは故郷、懐かしさと共にある、ということを言おうとしたですが、彼は意が通じたのか、黙って頷いていました。
そう言えば、先のワルツのリズムは、人間の心臓の鼓動に合っていると言われています。ペルーでは特に国民的歌謡として知られていて、中南米各国に伝播しているのですが、ヨーロッパ産のものと違ってもっとテンポが速く、シンコペーションが強いのが特色です。ボレロもタンゴもその系列と言ってもいいでしょう。
「私はどうも生まれる前からこういうものを知っているような気がしてしょうがないのですが...」と言ったら...
「ああ、それはここにあるのよi」と彼は心臓の辺りを指しながら言いました。
そして、今度は(安い)ペルー料理でも食べに行こうと言って別れたのでした。
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究極の道?

2019-03-27 11:50:03 | 求道、探究
昔からある求道の書、特に仏教関係のものなどを読んでいると、しばしばその求道の在り方に対し「極める、極められていない」とか「徹底されている、されてない」、「一枚になっている、なっていない」などと批評している文章に出くわします。
これは一体、どういうことを言っているのでしょう。極める、徹底されていることというのは、何を基準にしているのでしょうか? 悟っているのか、どうかということ? いや、そんな最近のお手軽スピみたいに"私、悟っちゃってるんですi"、感をふかしているという風でもありません。
私はハッキリと、そのことを言明しているものに触れたという記憶は無いのですが、おそらくその極まる地点というのは、"これ以上は考察、参究が及ばなくなる限界点"のことを指しているものと思われます(こうしてみると求道の中でも仏教は、行と学の二つの道を重んじていることが伺われます。この地点というのは、正しく仏教的には所謂自力、他力というものが、合わさる地点と申せましょう)。
私は行道でも学道でも、真摯に求道したことなどありませんが、何の間違いだか、思考も意志的行為も及ばない地点ー人生の裏側ーに踏み込んでしまったのでした。
だからと言って、いや、そういう経緯があったからこそ、「私は道を極めちゃったんですi」などとは絶対に言える道理など無いのです。
今の一瞥とか覚醒体験者の中には、「人生の、世界の真実を見抜いた、見極めたi」などと宣っている人も居りますが、一体誰が見抜いたと言うのでしょう。
それでもって、"自分という個人がある内は今ダシのもので、究極的には全体があるだけになっちゃうんですよ!"、なんてことに話が飛んで行ってしまうのです。
思考、行為が尽きるという事態そのものからして、この限界ある自己が成さしむるところでは無いのです。
その限界点から先のことは、個が無くなろうと、全体しかないことになろうと、個も全体も無くなろうと、自分からは如何ともならないことなのです。
究極の道というのは、そう頭に思い描かれているものであって、思考の限界を示された地点で、"手放し"となるしかありません。どうしようもないことなのですから...
そこで"私は究極の道に達しましたi"、と宣ったり、"自分が出来る、成せる"かのように言及することは、この有り様に対する観方、感じ方というものに徹底されていないものがある、と言う他ありません。
そして、自分自身からは、これが究極だとか、絶対とかは決めつけられるものではないでしょう。
徹底的に事実に即して、見極めてみるべきですi  一体、何によってそういうことがもたらされたのか? この見極めが不徹底のままだと、"私は悟った、達成者"と、大いなる勘違いが後を絶たないでしょう。
私はこれといった求道によらずに"人生の裏側"を垣間見る(見抜いてなどいないi)ことに与ったのですが、だからこそ(修行はよおしませんが)何らかの考察、参究することを蔑ろにするつもりなどありません(私も時折は、無い頭で考察みたいなことしたりしているのです)。
精神世界、霊的な道の土壌というものが、これまでどれだけ過去の幾多もの聖者、宗教家、哲学者、求道者の真摯な精神、苦闘によって耕され、切り開かれてきたか、計り知れないものがあります。
それと共に、彼らの背後に、見えざる導きが生き、ハタライていたことも、この私に息づいているものと合わさり感じ入っているのです。
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それ、本当?

2019-03-26 12:27:23 | 意識、照明
いじめ、バッシング、ネット炎上... こういうものを毎日のように見聞きしていますね。
私は小、中学生の頃、いじめを受けたこともやったこともありますが、いじめ、バッシングをしようという心理というのは、本当に自分の気持ちからそれに赴いてしまうというのでなく、周囲の"何かそうせずにおれなくなる"ような心理が働いて、そうしてしまうことが多いですね。
その標的となる人間に対し、個人的に怨みなどある訳でもないのに、周りに煽られたりして集団心理に呑まれてしまう訳です。
身近な人間ばかりか、タレントなどは、当人がどういう人物なのかロクスッポ分かる訳が無いのに、ただの日頃のウップン晴らしのためにその他大勢の思いに乗じてしまうようです。
ここにあるのは、主体性の欠如以外の何ものでもありません。
それは、自分の本心というものに照らされるということが無いということであり、私がいつも言っている、"意識的になる"、"意識が思いを超えたものに向けられる"ということの対局にあるようなことと言えます。
端的に言えば、そこに何もリアリティなどは感じられないということです。
上記したもの以外でも、宗教的熱狂、思想的アジテーション、大衆的流行...そういうものでなくとも、何となーくある方に誘導するような言葉になびいてしまうことなど、自分自身に本当に頷けるものが無い、多くの付和雷同的な迎合というものが、集団心理、集合的無意識に囚われている状態と言えるでしょう。
そこに如何に神が、真理が語られようと神的なものが臨むことはありません。それは現臨に無いということだから...
こういう諸々の思念が交錯した現代にあっては、何が真実で、何が虚偽であるか見極めることがとても困難になってきています。
容易く他の言動に煽られ、迎合し、衆愚的な思いに駆り立てられてしまうというということは、意識の中心が分からなくなっていることを物語っているのでしょう。
意識の中心とは、しばしば言うように、意識を何かに集中するということではありません。それならバッシングやデマを飛ばすことに意識を集中している者だって居ることでしょう。
それは、意識がハート、神的なものに向けられることで、自ずから収斂されてくるものです。
思われた自分から始まるのでなく、あの自己のすべてを照らすような光によってそうなるのです。
思念や意念といったものとは、異なるということは、そうなった時、自ずと分かります。それは思いが超えられているということだから...
そこには愛、平安、リアリティがある...それに意識が向かわされるということは、全く自然な赴きなのです。だから自ずとそうなる訳です。
自然なる自己は偽ること、誤魔化しは出来ません。それが本心からくるものだからでしょう。
これに反して、内省も無しに集合的無意識へと赴いてしまうようなことは、どこか自分自身でも何かが障っているものがある、不自然な状態にあることが感じられます。
今日、この我々の意識を分かつ両極のハタラキが強まっているのを感じずにおれません。
強まっているということは、どちらも容易くそっちに導かれるということです。
私やあなたの本当とは? 自ずと分かる...。










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祈りは叶えられている

2019-03-22 12:10:57 | 祈りと瞑想
私がいつも書いていることは、あまり一般に馴染みの無いことかも知れませんし、表現もあまり取っ付き易くないかもしれません。
ただ自分では(一人よがりかもしれませんが)、掴みようのない、超然とした、難しいことを書いているつもりは全く無いのです。
今日もいつも書いていることに触れますが、モ少し取っ付き易さということを意識して書いてみようと思います。

神仏に祈っていても、一向に願いは叶えられず、善きことが起きず、心が平安にならないという人もおられるでしょう。
これは祈りというものが、そうした願いを実現させるための手段という風に捉えられているためだと思います。
そこには、祈っている自分が居り、信じられている神仏が居り、その神仏が願いを叶えるものである、と二段にも三段にも分けられて理解されているのです。
どうも自分の祈りによって、願いを実現させるという思いが根強くあるようです。
これでは、神仏はまるでそのためのダシみたいなものですね。
それを又、習慣、形式的に祈っていても、おそらく善きことは始まらないでしょう。
ここは、も少し意識的になってみる...
例えば"神よ、平安をもたらし給へ..."と祈ってみる...
神は何かは分からないものだけど、最愛なるものです。"もっとも"愛しているもの...
ここが曖昧なままだと何にもなりません。これが祈りの土台なのです。
自分の人生で最愛なるものと共にあったことを思い浮かべてみると...幸福と共にあったことを思い出されてきませんか?
幸福であることは、思いが超えられていることであり、それは自分を超えたものに意識が向けられている、ということです。
幸福にあったことは過去の思い出にすぎないのでしょうか?
いいや、今そうなっていることに気が付かれるでしょう。
そうですi 神的なものに意識が向けられ、そこに入っていることが平安にあるということなのですi
祈りによって、叶う、叶わないということでなく、祈ること、いや意識的になることそのままでそうなるということです。
「祈りとは願い事ではなく、神との交わり、語らいである」(インドの神秘家サンダー.シング)
ここには、祈る自分、神仏、その神仏が願いを叶えるという段構えなど存在しません。ただ"神に在る"ということがあるだけなのです。
祈りとは決められた形でも、決められた文句を唱えることでもありません。それもいいでしょうが、祈るという心持ち、意識付けが肝心なのです。
それは瞑想というものと分けられないものだということが分かるでしょう。それは幾分自分を超えたものに意識が向かうか、内的なものに向かうかの違いがあるだけです。
神を漠然と信じるだけだったり、宗教の信仰ごとで片付けてしまうのでなく、本当に自分自身の問題として意識的になってみると...もう、"ウレシくてたまらんi"ということになって来ざるを得ません(私が何故こういうことをいつも書いているかと言うと...いつも"今がそうなる"からに他ならないからですi)。
それはどこまでも、"あなたの神直伝"のものであるはずです。
桜の季節ともなり、一人一人に神が臨まんことを...
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